代わりにすらなれない


 苗字名前。大手保険会社勤務のOL。俺の兄、風間進の同級生。ついでに恋人。……いや、兄は既にこの世に居ないのだから、『元』恋人と言った方が正しいだろうか。そんな悲しい呼び方をしたら、目の前の彼女はどんな顔をするのだろう。
 月に一回、大抵は第四金曜日の夜。俺達は一緒に食事をする。あの時──兄が死んだ時からの習慣。互いが『大人』と呼ばれるような年齢になってもなお変わらなかった、変えられなかった習慣である。

「蒼也くんは、最近どう?」

 彼女の耳元で、大きな三角形のピアスがゆらゆらと揺れている。一ヶ月会わない内に、彼女の髪はすっかり短くなっていた。変わったな、と思う。彼女は随分と変わった。この一ヶ月の間に、ではなく。あの人が死んでからずっと、変わり続けている。白いワンピースの裾とつややかな長い黒髪を揺らしながら、踵の低い靴であの人の隣を歩く彼女はもう居ない。ナチュラルなメイクも、目立つアクセサリーで着飾ることを避けていたのも、もう全部過去の話だ。彼女はどんどん煌びやかになっていく。髪の色だって、今でこそ仕事の関係もあり黒いが、一時は目に痛い金色だった。
 俺は、彼女の変化をどう捉えるべきかが分からない。派手なことが悪だとは決して思わない。だけれど彼女の見目の変化は、変わりたくても変われない何かを必死で取り繕った結果のように感じてしまう。……俺がそうだと信じたいだけだろうか。彼女に呪いをかけようとしているだけなのだろうか。兄のことをいつまでもこの人に引き摺っていて欲しいだなんて、そんな呪いを。
 最初に頼んだビールを飲み切ると、苗字さんは煙草を咥えた。火を点ける。諏訪の吸っている銘柄と、この人の吸うラークだけは、匂いで分かるようになった。
 苗字さんの赤い口紅の色が、煙草の吸い口に移る。喫煙姿というのは、どうしてこうも美しいのだろう。兄は苗字さんのこの顔を知らない。煙草を咥える唇を、灰皿に灰を落とす時の、何かを憂うような切ない目を。
 兄の知らない苗字さんが増えていく。だけど多分、その多くが、兄がいないからこそ生まれた苗字さんなのだろう。『好きな人の新しい一面』と言えばとんでもなく聞こえは良いのに、その実、幸せとは程遠い。

「特に変わりないです。苗字さんは?」

 苗字さんがメニューに手を伸ばす。次の酒を考えるのだろう。彼女は酒を良く飲む。強くもないのに。いつもぐでんぐでんになる苗字さんが心配で、彼女と居る時の俺は酒を控えがちだ。

「休みの日、外に出るようになった」

 恋人が好きなの、ショッピングとかするの。まるで、なんてことない言葉のように、『こいびと』の四文字が苗字さんの口から零れた。煙と一緒に吐き出されたそのワードを、俺は一瞬、聞き逃しそうになった。

「こいびと?」
「うん、恋人」

 思わず手が止まった俺を見て、苗字さんは困ったように、そしてやっぱりどこか寂しそうに笑う。
 こいびと。コイビト。恋人。つまり、付き合っている相手ということか。苗字さんに恋人? 兄以外に? そんなまさか。だってこの人はまだ、兄のことが、

「好きなんだって、私のこと」

 ぺらぺらとメニューを捲る。しばらく思案した後、ハイボールかな、と苗字さんは言った。「蒼也くんは?」「俺は……まだ、良いです」動揺が声に現れている。自分らしくないのはきっと、アルコールのせいではないだろう。
 苗字さんは呼び鈴で店員を呼び、追加の酒を頼んだ。上手く言葉が見付からない俺は、灰皿の煙草から漂う煙をただ眺めているしか出来なかった。
 苗字さんは煙草を灰皿に押し付けて、火種を潰す。彼女の手から離れた吸い殻が、そっと倒れる。灰皿から、俺へ、苗字さんの視線が映る。

「寂しいんだよ、蒼也くん」

 一瞬泣いているのかと思ったが、そうではなかった。そうではなかったが、その瞳は、充分過ぎるほどに「寂しい」を訴えていた。

「一人の夜は寂しいけれど、一人の朝は、もっと寂しい」

 俺から目を逸らすように、苗字さんの視線はゆっくりと下がる。誰も責めていないのに──いや、口にしないだけで、本当は俺が彼女を責めていたのかもしれない──苗字さんは言い訳がましく言葉を紡いでいる。
 しばし彷徨っていた苗字さんの視線は、やがて空いたグラスに固定された。右手が伸ばされて、グラスの縁についた口紅を何度も親指でなぞる。苗字さんは多分、常に何かに触れていたい人なのだ。煙草然り、グラス然り。自身の唇に触れているのも良く見る。

「私は一生寂しいままなんだろうと思ったら……怖くなった、突然」

 苗字さんは滔々と語る。俺は何も言えず、彼女の話を聞いている。個室の外側の喧騒が遠い。こんなにも簡単に、たったの襖一枚で隔絶されてしまうものなのか、世界というのは。

「職場の後輩の子なんだけど。私のことが好きだって、一生懸命伝えてくれるの。それが、なんだか、可愛くて」

 部屋の扉が二回、ノックされる。店員がハイボールを持って入ってきた。苗字さんは礼を言って、空いたグラスと交換して貰う。忙しい時間帯なこともあってかそそくさと部屋を出ていく店員の後ろ姿を見送り、苗字さんがふっと笑った。自嘲的な笑みだった。

「誰でも、良かったの」

 その台詞を聞いて、途端にかっと熱くなるような感覚を覚えた。怒りだとか、後悔だとか、そういう何か。激情。

「寂しい時に傍に居てくれるなら、穴を埋めてくれるなら、誰でも良かった」

 大量の氷が詰められたグラスは、側面に水滴を生み出し、テーブルに水溜まりを作る。苗字さんはごくりとハイボールを煽る。

「誰でも良いなら、俺で……っ」

 ──俺で、良いじゃないか。
 続く言葉は、声にならなかった。出来なかった。それでも苗字さんは俺の隠した言葉を掬い取って、「駄目だよ」と笑った。

「蒼也くんは特別だから、駄目だよ」

 念を押すように繰り返された「駄目」に、俺は眉をひそめる。そんな特別なら要らないのに。
 俺は少しだけ残ったビールを飲み干す。この人と一緒に居ると、時々、酷く腹が立つ。いっそ泣き喚きでもしてくれれば俺の気持ちも少しは晴れるのに、苗字さんは決して泣かない。いつもこうやって、ずるい大人のふりをするばかりだ。


*


 日付が変わる頃、終電が近付いているから、と店を出た。終電がなくなった後でも互いの家やホテルを避難所に出来るような関係には、俺達はなれない。それは駄目だと、苗字さんははっきり言い切った。だから俺達はいつだって、健全な時間に駅に向かう。
 昼はそこそこ暖かったが、店を出る頃にはどこからともなく冷たい風が吹いていた。もうすっかり秋だ。瞬きの間に冬になるのだろう。
 俺がボーダーでA級になってから──固定給を得られるようになってから──支払いは割り勘になった。俺が大学生になってから、食事の場は喫茶店やファミリーレストランではなく居酒屋になった。俺が二十歳になってから、苗字さんは俺の前でも酒を飲むようになった。ほんの数年前に俺は知った、アルコールが入ると苗字さんは情けない大人になるってことを。

「苗字さん、真っ直ぐ歩いてください。転びますよ」

 俺の一歩前を歩く苗字さんが、んふふ、と笑う。笑い方がふわふわしている。

「だぁーいじょうぶだって。……あっ」

 大丈夫だと言った矢先に、苗字さんは何もない所で躓く。俺は慌てて手を伸ばし、彼女の腕を掴んだ。間一髪で転倒せずに済む。「言ったでしょう」「うん、ごめんね」振り向いた苗字さんが、眉を下げて笑う。彼女の顔を、街灯と月明かりが控えめに照らしている。
 そっと、彼女の腕から手を離す。数秒、黙ったまま俺を見詰めていたかと思うと、「大きくなったね」と苗字さんが微笑んだ。

「誕生日おめでとう」

 祝福の言葉と共に、何故か苗字さんは俺の手を握る。繋がれた手について何一つの説明もなく、彼女はこちらに背を向けると、再び歩き始めた。呆気に取られてリアクションが遅れた俺は、「ありがとう」と返すタイミングを完全に失った。そうか、今日は俺の誕生日か。珍しく第三金曜日を指定されたから疑問に思っていたが、どうやら苗字さんはこの日に合わせたかったようだ。

「ねぇ、蒼也くん」

 欲しい答えなんて出ないと知っているのに、温かい熱を伝えてくる手の平の意味を考える。この手を振り払う勇気が、俺にはない。あんたが握るべき手は俺のそれじゃないだろう。そう言えば、この手は離れていくのだろうか。

「願わくば君の成長を、これからも見守らせて欲しい」

 ──ああ、寂しいとはこういうことか。
 突然に、どうしようもなく、そんなことを実感した。させられた。
 なあ苗字さん。あんたは夜よりも朝が寂しいと言ったけれど、俺は一人で過ごす夜よりも、二人で手を繋いで歩く夜の方がずっと寂しいらしい。

「俺があんたの願いを断れると思ってるんですか」

 我ながら、意地の悪い返しだった。でもこれくらいは許されたい。だって、苗字さんのしていることの方がよっぽど酷い。
 苗字さんははは、と力なく笑う。この人は、どうしていつも笑っているのだろう。笑いたい時ばかりではないだろうに。笑いたい時よりも、泣きたい時の方がよっぽど多いだろうに。

「ごめん、Yesが返ってくるって分かってて聞いた」

 幸せになって欲しい、と思う。ずっと思っている。寂しさなんて知らなくて良いから、幸福を知って欲しい。そして許されることなら、彼女が幸福を知る時、俺がその隣に居たい。その願いは現実にはならないと、痛いくらいに分かっている。

「蒼也くんは優しいね。いつだって優しい」

 それはあんたのことが好きだからだ。と、わざわざ言葉にしなかったのは、言わなくても伝わっているからだ。伝わった上で、この人がこんな風に振る舞いやがるからだ。
 繋がった手に力を込める。ぎゅ、と力が返ってくる。この感触を、幸せと呼べない。
 駅が近付いている。もうすぐこの手は離れる。そうしたらまた、苗字さんは俺の知らない一ヶ月を過ごすのだ。月に一回、大抵は第四金曜日の夜。俺達は一緒に食事をする。その「一回」を「二回」に変えることすら、俺には出来ない。

「私は嫌い。自分の、自分本位なところが嫌い」

 足を止める。「どうしたの?」と苗字さんが振り返った。俺に見詰められると、彼女は苦々しく笑う。

「兄さんはきっと、そういうところも引っくるめてあんたのことが好きだった」

 苗字さんの表情がみるみる内に歪んでいく。泣くのを必死で堪えるように、苗字さんは俺の手を握る。ぎゅっと。ぎゅうっ、と。
 俯いた苗字さんの口から、震え声の「そうだと良いね」が零れた。





×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -