爪痕に唾液、後悔を添えて


「あ〜〜イタイナァ」

 シャワーの音に混じって、抑揚のないわざとらしい非難の声が私に投げられる。プラスチックの椅子に座り、シャンプーを終えた水上は泡を洗い流している。私は湯船に浸かってぼんやりとそれを眺めている。彼のアイデンティティである癖っ毛(彼自身がそれを自分の個性だと主張したことはないけれど)が水に濡れてやや大人しくなっていく。唇を繋げながらあの髪を掻き混ぜるのが好きだ。実家の犬を撫でている時の気持ちを思い出すのだ。三年前に亡くなったけれど。──急にネガティブな方向に転換してしまった思考を振り切るべく、両手でお湯を掬った。すぐに指の隙間から零れ落ちて、手の平には少しの水滴だけが残る。

「ごめんって。爪切るの忘れてたんだよ」

 水上の背中には赤い爪痕が残っている。私がつけた傷らしい。らしい、というのは、状況を見るに犯人は私で間違いないのだけど、爪を立てた覚えがない私の小さな抵抗である。だって行為中にそんなことを考えている余裕なんてない。立てようとしてるんじゃなくて、気付いたら立っていたのだ。

「どうせ相手が彼氏サンやったらちゃんと爪切ってからセックスするんやろ、名前チャンは」
「その節は否めないですねぇ」

 ケッ、と大袈裟に拗ねたようなリアクションを取る水上だけど、口だけなのは明らかだ。そもそも彼はこんなことで拗ねたりしない。そんな可愛い奴じゃない。例えば、彼が私のことを好きならば話は別だが、彼はそういう類の好意を私には向けていない。

「苗字、ちょっと寄って」
「はいはい。……あ、待って。逆、逆、あっち向いて」
「なんやねん」

 体を洗い終えて湯船に浸かろうとした水上に、こちらに背を向けて座るよう指示する。ぶつくさ文句を言いながらも、なんやかんや水上は従ってくれた。格安アパートの浴槽は、二人で入るにはかなり狭い。お互い身を縮める。
 私がつけたらしい痛々しい爪痕を指でなぞる。「こしょばいんやけど」「うん」「うんって何?」血が滲んでいる箇所もある。よっぽど強い力で突き立ててしまったのだろう。

「ごめんねぇ」

 水上の背中に口付ける。「今の謝罪は絶対、俺宛てやなくて彼氏宛てやろ」「はは、バレたかあ」痕に重ねるように爪でなぞって、それから、かさぶたを舐め上げる。「おいこら」口では抵抗するものの、水上は私を止めない。

「あーあ、やっちゃったなあ……」

 恋人の顔がちらつく。とびきり優しくて、大好きな彼の顔が。罪悪感で押し潰されそうだ。このまま湯船に溺れて死にたい。死体は捨て置いて帰ってくれて良いよ、水上。だってもしあんたが通報なんてしちゃったら、彼に浮気がバレちゃうから。知ってしまったら、彼はきっと傷付く。彼を傷付けたくはない。ならばそもそも、こんなことをするべきではない。私の言動は矛盾している。自覚はある。自制出来ていないだけで。

「なかったことにしたろか?」

 そもそもこれって浮気なんだろうか。気持ちが浮つくのが浮気ならば、もしかしたらこれは浮気には当たらないのかもしれない。だって水上相手に気持ちが浮ついたことなんて一度もないもの。風俗って浮気? 風俗が浮気なら、これも浮気かも。だけど、もしもこれが浮気じゃなくても、彼を傷付けるであろうことは変わらない。言葉は重要じゃない。分かってる、ちゃんと分かっている。

「…………」

 なかったことにしたいのか、という問いに対する答えが自分の中に見付からず、代わりにまた舌を這わせた。庇護欲と加虐心は真逆なようでいて、何故か同居する。傷の治癒の為に唾をつけていたはずだったのに、抗い難い欲に負けて噛み付いていた。私という奴は、本当に堪え性がない。「いって!」水上が声を上げる。控えめな歯形が残る。「おまえさあ、」振り向いた水上の顔には呆れが浮かんでいた。

「ほんまに狭いな」

 舌を打って、水上は立ち上がる。今度は私と向かい合うようにして座った。体育座りしている私は、彼の脚に挟まれる。

「恋人に出来へんこと、セフレにやるタイプやろ」
「……分かんない。セフレなんて作ったことないもん」
「彼氏以外の男に抱かれた直後によう言うわ」
「水上はセフレじゃなくて、ともだち」
「包含やろ」
「別物だよ」
「よう分からんわ」

 前のめりになった水上が、私の唇に自分のそれを繋げる。舌先で歯列をつつかれて、無言の指示に従い口を開いた。侵入を許した舌はざらりとした感触を教え込むかのように、強引に口内を犯す。彼ならもっと優しい。そんな最低なことを思いながら、私は水上に応えるように舌を絡める。多分私は、優しいキスよりこういうキスの方が好きだ。そんなことに、水上とのキスで気付いた。気付いてしまった。きっと、気付かない方が良かった。
 唇が離れる。二人を繋いだ唾液の糸が切れる。

「水上はさ、後悔してないの?」

 水分を含む私の髪を、水上はそっと指で梳く。彼の手を取る。私よりもずっと大きな手。長い指を撫でる。男らしく骨張った指。

「いや、別に」
「彼女さん傷付くよ?」
「そうでもないやろ。最近会ってへんし、そろそろ別れるんとちゃうか」
「冷めてるねぇ」

 指を絡める。美味しそうだなあ。好奇心がふつふつと湧いてきて、水上の人差し指を口に含んだ。甘く噛み付く。「お前、ほんまにさあ」呆れたような声が降ってきて顔を上げると、水上はやけに熱っぽい目で私を見ていた。「んぐっ」強引に中指が口に突っ込まれる。(あ、スイッチ入った)二本の指が、私の舌を良いように弄ぶ。

「こっちがわざわざ逃げ道用意してやってんのに」

 口端からだらしなく唾液が零れ落ちる。こんな情けない姿、彼には見せられない。私はそういうどうしようもない欲望を水上で満たそうとしている。水上も多分、それに気付いている。

「後悔してるくせして、逃げる気全然ないやん」

 馬鹿にするようなニュアンスが滲んだ笑い。水上は意地が悪い。私が言葉にして欲しくないことを、分かっていても知らないふりをして欲しいことを、明確に言葉にして聞かせてくる。

「苗字、こっち来い。上乗って」

 水上は私の口から指を引き抜いた。彼に言われた通り、彼の脚の上に乗る。掴まるように抱き着いて、首元を柔く食む。味はしない。

「だから爪」

 指摘されて、また自分が爪を立てていたことに気が付く。「ごめん」くい、と顎を持ち上げられて、顔を見合わせた。「ごめんなんて思ってへんやろ。もうちょい申し訳なさそうな顔せぇや」「私、どんな顔してる?」浅い口付けを交わす。少しずつ深くなっていく。溺れそうだ、と思った。

「興奮してます、って顔」

 私は本当に駄目な奴だ。罪悪感は確かにあるくせに、大切な人を傷付けるって分かっているくせに、水上に爪を立てるのをやめない。





×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -