明けなくてもめでたい


 炬燵に突っ伏してすやすやと眠る名前の顔と、年越しを祝う音楽番組とを交互に見る。彼女が観たいと言っていたバンドの出番は終わりを迎えようとしているが、録画しているのでまあ良いだろう。
 十分前も彼女を起こそうか迷って、まあ良いかという結論に落ち着いた。年を越す瞬間だ。あまりにも穏やかな顔をしていたので、起こしては可哀想だという気持ちが優った。
 ラブソングをBGMに、彼女の寝顔をぼんやりと眺める。頬をつつく。餅みたいな弾力が癖になる。人差し指で幾度か突いてから、指の腹でそっと撫でた。女の肌ってのはなんでこうも柔らかいのだろう。

「んん……」

 名前の口から吐息が漏れる。心地が悪かったのだろうか。僅かに隙間を開けた唇を、親指の腹でそっとなぞる。少しかさついている。二、三往復している内に、悪戯心とも性欲ともとれる邪な感情が湧いてきて、人差し指を彼女の口に突っ込んだ。歯列に指を這わせる。何故だか、舌でそこに触れるよりもずっと妖艶なことをしているような気分になってきた。
 睡眠という最も無防備な行為を自分に晒してくれていることに、突然、どうしようもなく高揚した。誰に対してもバリアを張っているタイプの彼女が、自分にはこんなにも近くに居ることを許している。特別感ってのは、甘ったるくてずるい。
 名前の口に俺の一部を無理矢理入れている、という状況に下腹部が反応しそうになった時、突如として指先に痛みが走った。がぶり、歯の感触。いつの間にか目を覚ました名前が、じっとりとした視線を俺に向けていた。

「お、おはよ……」

 勝手に何をしてるんだと言いたげな目に耐えられず、ついテレビを見遣る。嫌味を待ち構えていたが、耳に入ってきたのはちゅ、というリップ音だった。

「いや、何して」

 すぐに名前の方に向き直る。彼女は俺の指を柔く噛んだまま、舌を動かしている。上目遣いの彼女と目が合ってしまって、心臓がうるさく音を立てた。赤ん坊の吸啜反射にも見える絵面だというのに、舌の動きにはそんな幼さはない。指の腹で上顎をなぞる。不服そうに一際強く噛み付いて、名前は俺の指を解放した。彼女の口と俺の指を銀の糸が繋いで、切れる。

「こっちの台詞。何してるの」

 口の端の涎を手の甲で拭った名前から、おはようよりも明けましておめでとうよりも先にクレームが寄越される。唾液でべたつく指をティッシュで拭きながら、素直に「悪かった」と謝罪すると、彼女はくすくす笑った。

「……えっち」

 甘い笑い声が耳を擽る。今すぐ押し倒してやろうかと思ったものの、怒られそうなのでなんとか堪えて、煙草に火を点けた。

「え、ってかもう明けてるじゃん」

 テレビ画面に表示されている時刻を確認し、名前が言う。「もしかして出番終わった?」彼女の好きなバンドの話をしているのは明白で、俺は頷いて返す。画面では流行りのアイドルグループがインタビューを受けている。

「起こしてよ」
「気持ち良さそうに寝てたから起こせなかったんだよ」
「の割にイタズラはするくせに」

 痛いところを突かれて煙草に逃げる。そんな俺を横目に、名前は凝った肩をぐるりと回した。

「体が痛い」
「寝るならベッドで、って俺は言ったぜ」
「軽く仮眠するだけのつもりだったんだもん」

 ぐっと大きく伸びをすると、「喉もからっからだし……」と咳払いする。そう言いながらもキッチンに向かおうとはせず、名前はその場に寝転んだ。炬燵の布団を胸元まで上げる。

「だから、寝るならベッドで」
「寝ない。けど、寒いから出ません」

 なるほど、飲み物を持ってこいということらしい。俺はわざとらしく溜め息を吐き、短くなった煙草の火種を潰す。「しょうがねぇな」立ち上がり、キッチンに足を運んだ。確かに炬燵から出ると寒い。冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出して、さっさと炬燵に戻る。

「ほら」

「うむ。褒めて遣わす」ふざけながら、名前がペットボトルを受け取る。そのままぐっと服の裾を引っ張られたから、姿勢を落としてその場に膝をついた。いっぱいに伸ばした右手で、名前がわしゃわしゃと俺の頭を撫でる。

「今年もよろしくね」

 こちらこそ、を返す代わりに口付けを落とす。軽いもので離れるつもりが、背中に手を回されたせいで動けなくなる。舌が侵入してきて、俺のそれに絡みつく。さっき指を舐められた時の感触を生々しく思い出す。

「こういうのさ、」

 キスの合間に名前が呟く。テレビからは今年流行ったドラマの主題歌が流れている。三話までを二人で観たきりで、続きを観忘れていることに気が付いた。この年始はドラマ視聴に費やすのも良いかもしれない。

「なんて言うんだっけ」

 なんの話だと首を捻る俺を見て、名前は楽しそうに目を眇める。すぐに答えが与えられることはなく、「連れてってよ、ベッド」と甘えるような声色で彼女が両腕を伸ばす。寝ないと言った彼女がベッドに行きたがる意味くらいは俺にも分かる。
 テレビと炬燵の電源を切り、にまにまと笑っている名前の手を掴んだ。気合いを入れて抱き上げる。「きゃっ」腕の中のお姫様は、少女のように声を上げて笑う。年明け早々随分楽しそうだ。寝る前に飲んでいた酒がまだ残っているのだろうか。
 廊下を歩く中、「あ」と名前が何かに気付く。なんて言うんだっけ、に答えが出たらしい。
 抱えたままではドアが開けられない為、寝室の前で彼女を下ろす。
 先に部屋に入った名前はベッドに座ると、早く来いと言いたげに両手を広げてみせた。大人しく抱き締められてやる。名前は背中から寝転び、腰に回された手のおかげで、俺は彼女を見下ろす形になる。

「『姫始め』、だね」

 そんなことを頑張って思い出そうとしていたのがなんとも可愛くて、可笑しくて、俺は今年の初笑いを名前に捧げた。





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