普段、誰も訪れない場所だった。
特に立入禁止にされているわけはないけれど、何もない上に土臭い場所にわざわざ足を運ぶ物好きは少ない。
そんな誰も足を踏み入れない校舎裏が、好きだったりする。
何となくひとりになりたい時、のんびりと過ごしたい時にはうってつけの場所だ。
今日も何となく、理由もなく足を運ぶと三日前までにはなかったものが存在していた。

負け犬決定!

地面すれすれの位置に、校舎の壁にひっそりとマジックで書かれた殴り書きをしゃがんでよく観察してみる。
男子特有のクセのある字の中に、ひたすら感情をぶつけた様が痛々しい。
こんなところに来て、わざわざこんなものを書くほどに心が大きく揺れたのだろう。
そして私は、この字の主を知っている。

「高瀬くん」

授業で当てられ、彼が黒板に書き込む字とそれは酷似していた。
そんなものだけでこの字が高瀬くんのものだと分かってしまうのはきっと、私の中で彼が特別な存在だからだろう。
その辛さを隠しもせずぶつけられた文字をひとつひとつ丁寧に指でなぞりながら、胸ポケットに入れているシャーペンを取り出した。

お疲れさまでした。でもマジックで書くのはよした方がいいと思います

余計なお世話も甚だしい。
高瀬くんにとっては、誰にも見られたくないからこそ選んだこの場所だ。
勝手に他人が、しかも高瀬くんにとっては誰なのかも分からない人間からの言葉など望んではいない。
それでも、何かを返さずにはいられなかった。
それほどまでに最近の彼は弱り切っていたのだ。
カチンと芯を仕舞い込み、一応誰も見ていないかを確認をしてからその場を後にした。



誰かに見られてるなんて思わなくて、スンマセン。前のは消します。

あの日から、更に高瀬くんが気になるようになった。
注意をしていなければ、つい見てしまうほどに。
それでも特に変わった様子もなく、普段通りの彼を見て、きっともう校舎裏には行っていないのだろうと思った。
自分で書いた文字くらいは、せめて消しておこう。
そう思い立ち、数日後に再び訪れたそこにはあったはずの太い文字は消え、新しい文字が連ねられていた。
今度は私と同じ、シャーペンのようだ。

「悪いことしちゃったなぁ」

私は土足で、高瀬くんの心に踏み込んだようなものだ。
あんなこと、するんじゃなかった。
後悔の中、もう一度だけどこちらからも返事を書く。
万が一、他の誰かに見られては困ると、もったいないと思いながら前回の私の返事と、高瀬くんの返事を指で擦って消した。
黒く残った後が綺麗ではないが、消しゴムは流石に持ち合わしてはいないので仕方がない。
今度の返事も、読んでもらえるだろうか。
申し訳ない気持ちとは裏腹にこの小さな、今にも消えてしまいそうな繋がりが嬉しいと思ってしまうことは、どうか許してほしいと願った。

勝手なことしてごめんなさい。だけどすごく辛そうな字だったので、見て見ぬふりができませんでした。



それから何度か足を運んだけれど、最後に書いた私の文字のまま変化はなかった。
やっぱり、返事なんてするんじゃなかったな。
誰だって自分の心を吐露したものなんて、他人になど見られたくはない。
あと二日、このままだったらもう消そう。
そう決めて待った二日後、そこには新しい言葉が添えられていた。

迷ったけど返事します。たしかにすっげ恥ずかしかったけど、ちょっとほっとしました。ありがと、元気でた。

何度も何度も読み返した。
本当は返事があってもなくても、恐かった。。
私の行為を批判されたら、と思うとここへ向かう足が震えるほどに。
それでも高瀬くんは、恥ずかしさや悔しさを押し殺して「ありがとう」と、「元気が出た」とまで言ってくれた。
今度こそ持ち込んだ消しゴムで、惜しいけれどそれらのメッセージを消して新しいメッセージを書き込む。
どうか、高瀬くんがもっと元気になりますように。
そう願いを込めて。

こちらこそありがとうございます。怒られるかなと思ってドキドキしてました。余計なことかもしれないけど、身体に気を付けて頑張ってください。

そして次の日には前のメッセージは姿を消し、代わりに新しいメッセージが書かれている。
いつしかそれがルールとのようになり、私と高瀬くんは文字だけの繋がりでお互いを知っていく。

自販機に新しく入ったジュース知ってる?友達と半分ずつしたんだけど、炭酸が強くて私はちょっと苦手でした。

ジュースとかのむんだ。イメージ的にあんまのまなさそう。

ときどきは飲むよ。オレンジジュースとかが好き。でもミルクティーが一番好き。

そんな感じする。おれは炭酸がすき。ジンジャーエールとかたまにのんだらすっげウマイよ。

好きな本、好きな音楽、好きな食べ物、他愛もない言葉のやりとりの中で新しいことを知っていく日々が続き、いつの間にかこのやりとりが当たり前のように学校生活の一部になっていた。
平穏で、取り留めのない小さな繋がりは少しずつ育っていく。
ただひとつ、高瀬くんに隠し事をしながら。
私が、高瀬くんだと知っているということを伏せながら。
お互い誰なのかが分からない、その前提で成り立っている世界なのだ。
つい口を滑らせてしまいそうな時もあったが、この均衡を保つために細心の注意を払っていたはずだった。


やっぱおれのこと知ってる?前からなんとなく思ってた。きみはだれ?


とうとうその日がやって来た。
いつかは訪れると分かっていながら、先延ばしにするように見て見ぬ振りをしていたこと。
ひんやりとした壁に書かれてあるそれを指で撫でると、文字は簡単に消えそうになった。
まるで、私たちの関係にように。

「潮時、かな」

舞い上がる心とは裏腹に、冷静な思考はいつも私に囁いていた。
誰なのかと尋ねられたら、もうそこまで。
その文字を消すこともせず、私は校舎裏に足を運ぶことをやめた。
繋がりは当然のようにいとも容易く途絶え、何もなかった日常へと戻る。
ただ、それだけのこと。
そしてある日、日直の最後仕事をしていた時、ひとり黒板の掃除をしているとやけに眩しい夕焼けが教室を照らす。
憎くも高瀬くんの席を目がけて照らし出すその光とは裏腹に、私の心はあの日から勝手な寂しさで曇っていた。
もし素直に正体を明かしていれば、こんな閉塞感に苛まれずに済んだのだろうか。
もしもばかりを繰り返す日々は、到底何もなかった頃になど戻ってくれるはずがなかった。
吐き出す息は溜息となり、日付と日直の当番として記されている自分の名前を消した。

「日直?」

突然開いた扉に慌てて振り返れば、高瀬くんが「お疲れ」と足を踏み入れた。

「高瀬くんは、忘れ物?」
「古文宿題出てただろ?それ忘れててさ」
「当たってたもんね」
「授業に身が入ってねぇの気付かれてたもんなぁ」
「眠かった?」
「や、ちょっと考えごと」

態度を取り繕いながら、どれだけ自然に振舞えているか探り探りで言葉を並べる。
高鳴る胸は途絶えた交流以降初めて目の当たりにした高瀬くんだからか、それとも。
背中を向けていて本当に良かった。
とても顔を見て話せる心持ちではないまま、制服に落ちたチョークの粉を軽く振り払う。

「もう終わりそう?」
「うん、あと日誌の残りを書いたら終わりかな」
「日も傾いてるし、早く帰らないとな」
「ありがとう。高瀬くんも、練習戻らなくていいの?」
「休憩は大事なんだよ」
「そうなの?」
「そうそう」

そう言って、練習着のままの高瀬くんは夕日の当たる自分の席ではなく、私の席の隣へ座り、うつ伏せた。
チョークを持つ手はどうしても震えている。
校舎裏のやりとりをしていた頃には、こうして話せるなんて思ってもいなかった。
何とも皮肉な話だ。
深呼吸をしてから、チョークを黒板に走らせる。
明日の日付を書き、次の当番の名前を書き、制服へと落ちた粉をもう一度叩いた後、高瀬くんが隣りに佇む自分の席へ腰を降ろした。

「そういや、こうやって話すの初めてだっけ」
「そうだね」

高瀬くんが、じっと黒板を眺めながら話す。
日誌を開き、空白をひとつひとう無心に埋めた。
高瀬くんが今、何を考えているのかなど分かるはずもない。
とにかく目が合ってしまったら、もうふらりとかわす自信はなかった。
乾いた喉に鞄の中からペットボトルを取り出す。
既に気が抜け、温くなったジンジャーエールは全く美味しくないけれど、それを一口、口へ含んだ瞬間見慣れない手が伸び、私の手首を掴んで離さなかった。

「炭酸、苦手じゃねーの?いつも紅茶ばっかり飲んでんのに」

言いあねぐ私に、高瀬くんは容赦なく畳み掛ける。

「字、似てるなって思ってた。ずっと他に何か手がかりないかって必死だった」

ようやく状況を理解できた時には頬がかっと熱くなった。
それはもう言い逃れさえできない証拠であり、黙る込むしか選択の余地はない。
そんな私に、「見た?」と高瀬くんが問い詰めた。

「俺が書いた伝言」
「誰?って聞いてた、よね」
「何だ、やっぱり見てなかったのか」

連れ出されるように引っ張られる腕に、反動で転がる椅子が大きな音を立てて倒れた。
教室に慌ただしく響く音など気にもせず、あの場所までの最短ルートを辿って行く。
弾む心臓は胸から飛び出してしまいそうだ。
絶え絶えな息の中、ふたりしか知らない秘密に初めてふたりで訪れる。
そこに佇む新しいメッセージに、私はとうとう手で顔を覆ってしまった。

「急に来なくなるから心配した」
「ごめんなさい」
「やっぱ気に障ったかなって」
「そうじゃなくて、私が勝手に、」
「うん、だから俺、まぁまぁ怒ってるよ」

ごめんなさい、ともう一度囁けば、「見つけたからもういいよ」と高瀬くんが微笑んだ。
涙が、出そうだ。
飛び跳ねる心臓も、この静かな空気も、高瀬くんと私を取り巻く何もかもが新鮮で、大きな掌から伝わる熱がひどく特別に象られている。

「あの、いつから私って」
「ここで聞いた時にはある程度そうだとは思ってたけど、確信したのはついさっき。字とジンジャーエールかな」

言葉だけの小さな繋がりが、こうして確かに見える繋がりへと変わる。
瞬きをすれば途端に落ちてしまいそうな涙を堪えながら、私は高瀬くんと向き合った。

「俺を、見つけてくれてありがとう」

手首が放され、そして今度はふたつの大きな掌が私の顔を掬い上げる。
視線を反らさないでと言うように、ぶつかり合う双眼には綺麗に笑う高瀬くんが映った。

「返事、聞かせてよ」

ほら、と壁に書かれた文字が指される。
今まで一番丁寧に書かれた文字が、いまだ私に触れる熱が、夕日が鮮やかに照らすその横顔が、沈めていたはずの想いを掘り出した。
高瀬くんはずっと、待っていてくれたのだ。
その文字に対する私の答えを。
書き込まれる日を毎日毎日、見届けてくれていたのだ。

「あ、筆談はナシで。ちゃんと目ぇ見て話せんだから、さ」

強く落ちる眼差しに背中を押される。
答えは最初から決まっていた。
そうでなければ、私はあの叫びすら見つけられなかっただろう。
地面近くに書かれた、苦しいと悲鳴をあげているような感情を。
想っていたから、気付いた。
その先にいる誰かを。
悟られないようにと願っていたけれど本当は、私だと高瀬くんにも気付いてほしかったのかもしれない。
私も、返事を書きながら叫んでいたのだ。
私は近くにいるよ、と。

「高瀬くんが、好き」
「うん」
「私こそ、見つけてくれてありがとう」

高瀬くんが残してくれたメッセージは、そのまま消さずに置いておくことにした。
いいの?と尋ねた私に、高瀬くんは「いいんだよ」と笑う。
何だかくすぐったいような恥ずかしいような、だけどどこか誇らしくもある小さな誓いを私たちは、これからも積み重ねてゆけたなら。


ファッジ・コラージュ


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