「阿部、これ」
「何だよ」
「アドレス書いてる紙」
「…お前の?」
「何でよ。隣りのクラスの女の子から」

淡々と、何も思ってませんとばかりに差し出した可愛らしいメモは、なかなか本人のもとへは届かない。
眉間にシワを寄せて気難しい性格を現した表情のまま、一向に受け取ろうとしない様子に半ば強引に押し付けてみても阿部は受け取ろうとはしなかった。

「俺がそう言うの嫌いなの知ってるよな」
「私はね。でもこの子は知らないんじゃないかな」
「いらね」
「困るよ。私が何言われるか分かんないじゃん」

更に深く掘り込まれるシワを携えた顔は、明らかに気に入らないことを示している。
いまだ受け取られないメモは、私の掌の上で静かに居場所を探しているように思えた。

「体裁の問題かよ」
「女は男よりややこしい生き物だからね」
「じゃぁその体裁がなかったら?」
「私だって面倒だし断ってる」
「じゃぁ断れ」
「もう引き受けちゃったし」
「断ってこい」
「いや、無理だからこうしてつまんないことしてるわけで」

永遠に続きそうな押し問答に、いい加減うんざりしているのは阿部の方だ。
この短気な男が、これ以上非生産的なやりとりを望んでいるとは思えない。
そうなれば私の勝ちは決まっていた。
受け取ってもらえればそれで、私の不本意な仕事は終わる。
何が嬉しくて自分の好きな相手に、他の女との繋がりを持たせなければならないのか。
それもいらないと頑なに拒否を掲げる相手に、そこを何とかと頼み込まなければならないのか。
早く受け取ってもらった方が、幾分心持ちとやらは楽になるだろう。
自分の気持ちをひた隠しに、今まで良い友達を肩肘張って頑張って続けてきた私のプライドというものも、そろそろ考慮して頂きたい。
メモを見つめたまま、訝しい顔を隠しもしない阿部はひょいとそれを摘み上げた。
私の勝ちが決まった瞬間。
ようやく終われる、と安堵に肩を落としたその時、あろうことか目の前の男はクシャリとそれを握り締めた。

「やっぱいらねぇわ」
「何もそこまでしなくても…」
「っつーか俺にも事情ってのがあんだろ」

少なからず勇気を出して書いたであろうメモは、見るも無残な姿に成り果てた。
流石にそれはあんまりだ。
頑なな拒否はどこかで私を喜ばせてはいたけれど、私にとって喜ばしいことだったことは認めるけれど、その行為はあまりにも傲慢に思えた。
それは同じ相手に、同じ気持ちを抱いているからだろうか。

「信じらんない」

何を考えるよりも先に、自分でも驚く言葉が口を突いた。
言った私が驚いているのに、言われた当人は相変わらずの表情だ。
他人任せで気に食わない、そう言わんばかりの態度は少なからず私にも手厳しさが響く。
それは傷付かない程度にしか近付けない私に向けられているような、そんな居たたまれなさがあったのかもしれない。
阿部の言葉はいつも真っ直ぐで正論で、だからこそ臆病者の心には毒だった。
大きな手の中でクシャクシャに潰されたメモを今度は私が見つめながら、小さくなってしまったそれに想いを馳せた。
私にはできないことを頑張ったあの女の子は今、阿部からメールが送られてくるだろうかと楽しみにしているのかもしれない。
複雑に織り交ざる感情の波の中、刺激される涙腺を呪うようにただ立ち尽くした。

「何でお前が泣くんだよ」
「女の子の気持ちが痛いくらい分かるから」
「あのな、俺だって自分で持ってきた相手にここまでやんねーよ」
「それでも精一杯、その子は勇気出したんだよ」
「じゃぁ、もっと踏ん張って自分で動いたやつはどうなんの」
「そうだけど…」
「それに俺だってなぁ、好きなやつくらいいるっつーの」

それをお前は無視すんのか、と溜息交じりに告げた阿部は呆れた表情だ。
今日はとんでもない厄日となった。
考えなかったわけではない。
阿部にもそういう子がいるのかもしれない、なんて数え切れないほど眠れない夜を過ごした。
けれどこうも簡単に、ひた隠しにしてきたものが打ち砕かれるなんて思いもしなかった。
視界から色がなくなる。
阿部の表情さえもう見えない、見たくない。
唐突に突き付けられた現実に心がついていけない。
揺れる想いに俯けば、ころんと小さく丸まってしまったあのメモが転がった。
阿部の気持ちは、どうやら変わらないらしい。

「分かったか?」
「うん、分かった」
「もうこんなこと頼まれんなよ」
「しつこくしてごめん」
「分かりゃいいよ」

紙くずになってしまったメモを置いて、阿部は私の前から去ろうとしていた。
その後ろ姿を見ることは、きっとできないだろう。
たった数分の間に起こった悲劇を、一体誰が想像できただろう。
いや、罰が当たったのだ。
勇気を振り絞った女の子たちを遠目に、自分だけ安全なところに立ちながら“同じ気持ち”だなどと嘯いた私に、これは正当なしっぺ返しなのだ。
震えだしそうな右手を左手で掴んで押さえ込む。
足元から自分より大きな足が去って数秒、再び戻って来たその足にゆっくりと顔を上げれば、突きつけられた見覚えのある携帯がそこにある。

「だからそろそろ、お前の連絡先教えてほしいんだけど」

垂れ目がちな瞳をそらしながら、「早くしろよ」と相変わらずの短気さで、私は呆気に取られつつも促されるまま、ポケットから携帯を取り出した。


眩暈


「お互い意地張んのは、これで最後な」
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テーマ「人外ファンタジー」
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