「なぁ、この後暇?」

就業時刻が少し過ぎた頃、私のデスクに突然降りてきた手と言葉に思わずびくっと肩が飛び上がる。
ちらりと視線だけで確認をした相手は、顔を見なくても何となく察しがつく男だった。

「予定は、ないけど」

端的に言えば暇なのだけれど、そのまま暇だと頷くのは何となく悔しく癪に障る。
それは今日という日だけに余計に、だ。
この男が何を思ってそう問いかけてきたのか、その真意は分からないまま、後は提出をするだけの書類の上に見事に掌が置かれているのだから些か分が悪い。
適当に言い逃れができないよう、随分と用意周到なことだと溜息を漏らせば「じゃ、ちょっと付き合えるよな」と悪巧みを含む表情が向けられた。

「何でよ」
「予定ないんだろ」
「そうだけど」
「とりあえず、付き合ってくれるよな?」
「じゃなきゃその手、退けないって言うんでしょ?」
「お、分かってるじゃん。そのとおり」

悪びれるでもなく空いているもう片方の手でネクタイを軽く緩めた島崎は、「で、どうする?」と何が何でも私の口から返事を掘り起こそうとするのだから性質が悪い。
わざとらしく盛大な溜息を吐き出し、「分かったよ」と降参を示せば「じゃぁ15分後に下な」と短い返答と共に人質にされていた書類が解放される。
何事もなかったかのように背中を向けて離れて行くその男を小さく睨みながら、皺を寄せてしまった書類を適当に伸ばしそれを片手に立ち上がった。
少し前までなら、島崎からの誘いに私が喜ばないわけがなかった。
今は憂鬱だけが体を巡る。



「1分遅刻だぞー」
「細かいなぁ」
「社会人は時間が命だろーが」
「はいはい、すみませんね」

これでも急いで支度したんだよ、と口を突きそうになった言葉は喉に留めた。
化粧直しをする必要もないはずなのに、それをせずにはいられなかったのは女の悲しい性だろう。
仕事終わりのテカテカと輝く顔で、島崎の隣りに立ちたくはないという私なりの意地なのかもしれないけれど。
それじゃ行きますか、とすぐに足を進める背中に、何も聞けないままとりあえず付いて歩く。
何を思って私を誘ったのか、どこへ行こうとしているのか、今日と言う日を知った上でのことか、色々と聞きたいこと、聞かなければならないことはあったけれど、意を決したところで島崎の後ろ姿を見ると何となく言葉が詰まった。
その理由は、私しか知らない。
島崎は、知らない。
ぼんやりと一足先を見つめるようにしていると、島崎が空を見上げた。

「そろそろ梅雨に入るな」
「うん」
「やだねぇ、外回りする身にゃ迷惑な季節だわ」
「うん」
「蒸し暑くなるし、クールビズになっても結局客の前じゃネクタイしなきゃなんねぇし」
「うん」
「で、最近お前、何で俺のこと避けてんの?」
「うん…って!えっ!?」

何も考えず適当に相槌を打っていたことを露呈され、思わず口元を手で覆ってはみたものの時既に遅しというやつだ。
しかも人の話も聞いてねぇんだもんな、と苦笑いを浮かべた島崎に、「ごめん」と素直に謝れば、「別にいーよ」と冷たいようにも感じる返答に瞼を伏せる。

「話聞いてないのはまぁいいけど、俺のこと避けてんのはよくねーなぁ」
「避けてないってば」
「そうか?最近俺、お前とまともに話してないけど」
「お互い仕事が忙しかったからでしょ」
「ふーん」

居たたまれなくなって俯いた私に、気付かない男ではない。
けれど含みを持たせるような返事の後には、何も続かなかった。
ただ続くのは重苦しい沈黙と勝手に感じているプレッシャーで、顔から血の気が引いていくのが分かる。
そんな無言のやりとりが長く続けられるはずもなく、早々に白旗を上げたのは私の方。
意を決して震えそうな唇を動かし、何とか言葉を探しながら零した声に島崎がこちらへ視線を落とした。

「あの、さ」
「ん?」
「あんまり良くないんじゃないの、こういうの」
「何が」
「誤解、されるし」
「だから何が?」
「頻繁にふたりで飲みに行ったり出かけたりしたら、疑われるって言ってんの。あんた、彼女いるんでしょ?」

何とか持ちこたえたはずの声は、最後の最後になって震えてしまった。
『島崎の彼女』なんて言葉を、本当は口になんて出したくなかったのに。
特に今日は、そんなことを考えたくないは日なのに。
そんな恨み言だけが頭をぐるぐると回り、気分は最高潮に悪かった。
けれどそのどれもが私の勝手な都合なのだ。
それも、分かっている。
それでも、と思ってしまうあたりが私の弱いところだろうか。
零れそうになる様々なものを堪えながら、恐怖すら感じる島崎の返答を待つけれど、それは一向に届いてはこない。
だんだんと募る腹立たしさに睨み上げた色素の薄い瞳は、予想に反して驚きと困惑を示していた。

「ちょっと待て。それ、どっからの誤報?」
「誤報?とぼけるつもり?」
「彼女なんていないけど。っつーかお前知ってるよな?」
「はぁ?」
「だから、彼女なんていないって言ってんの。前に飲みに行った時もそう言っただろ」

けろっとそう言い放った島崎に眉間にシワを寄せて怪訝な視線を浴びせると、両手を軽く上げて肩を竦める。

「誰から聞いたんだよそんなデマ」
「会社で後輩が、週末に島崎が女の人と歩いてるの良く見かけるって言ってたから」
「それで?」
「彼女なんでしょ?」
「だから違うって。まだ彼女じゃない」
「まだ!?ってことはその予定ありってことですか」
「そりゃそうだろ。わざわざ休みの日使って会ってんだぞ。下心ないなんて言わねーよ」
「あぁ、なるほど、そういうこと。まだ彼女じゃないから別に私といても別に何も問題ないと」
「半分正解半分ハズレ」

漏らされた笑みに引き攣るような表情しか返せない私は、まだ自分を取り繕いきれるほど大人にはなれていないようで、この余裕のなさに惨めな感情が広がる。
あぁ、ダメだ。
あと一言、核心に触れる言葉が向けられれば間違いなく泣いてしまう。
咄嗟に俯いて顔を隠した私に、今度は少し呆れた声色が響いた。

「お前、本気で分かってないの?」

溜息すら聞こえるそれに、徐々に見開かれる瞳に比例して少しずつ何かが近付く気配を感じた頃には、既に島崎が私の手首を掴んでいた。

「じゃぁ聞くわ。お前はここしばらくの週末、誰と出かけて誰と飲みに行ってたんだよ」

責任転嫁かこの野郎め!と恨み辛みを思い浮かべながら、言われたとおり一応は記憶を辿ってみる。
そうしてようやく島崎の回りくどい言い回しに、はっと顔を上げた。
みるみる熱が頬に集中する。
島崎は笑いながら「やっと気付いたか、この鈍感」と私の好きな表情を浮かべていた。

「ちょ、ちょっと待って、色々混乱してて付いてけない」
「何でだよ。お前の後輩が見た俺と歩いてる女は毎週末俺が飲みに誘ってたお前ってこと」
「…今日は週末じゃないけど」
「知ってる」
「じゃぁ、何で誘ってくれたの?」
「そこまで鈍感だって言うつもりか?」

次に島崎の顔に広がったのは、私の意地の悪い質問で少し拗ねた表情。
掴まれたままの手首から伝わる島崎の体温は、さっきからずっと熱いままだ。
そして私の頬もまた、年甲斐もなく更に染まっていくのが分かる。
優しく握られていたそれに、ふと力が込められた。

「誕生日だろ、今日」

至極真剣な表情と声色が、ようやく今日という日を特別に感じさせてくれた。

「誕生日に誘ったからには、一応渡すもんがあってだな」
「え?」
「俺ん家の合鍵なんだけど、いる?」

チャリン、と軽快な音を立てて目の前にぶら下がるそれに目を見張る。
空いている左手でそれに触れようとすると、島崎が軽く鍵を持ち上げた。

「ちなみにこれ受け取ったら、もう逃げらんないけど」

覚悟はいいか?と挑発的な言葉に迷う理由はなかった。
強引に架けられたきっかけをみすみす逃すなんて、できるはずもないのだ。
近付ける指先に今度は鍵が遠ざかることはなく、ようやく握れたそれはひんやりと冷たく重みを手の中に残す。
そっと開いた掌には、確かに大切なものが存在しているような気がした。

「大胆だねぇ」
「いいの。だって今日は誕生日だから」
「ふーん」
「でも、こんなのもらったら押しかけるかもしれないよ、私」
「俺はいつでも食ってもらって大丈夫だから、大歓迎」
「…食あたり起こしそうだから遠慮しとく」
「じゃぁ、俺が食っていい?」
「バカじゃないの!?」
「ガキじゃねぇんだから、そんないきなりがっつかないって」
「胡散臭くて逆に笑えるよ」

そして顔を合わせてふたりで笑う。

「腹も減ったし、飯食って帰るか」
「奢り?」
「鍵はタダだったしな」
「だったら最近できた駅のとこのイタリアンで手を打つ」
「ちゃっかり高い店選んでやんの」
「当たり前でしょ」
「んじゃ、奢らせてもらった後はお持ち帰りで文句ないよな」
「…」
「大人しくしてますって」
「胡散臭い」
「ひっでーの」
「でも、」
「ん?」
「彼女になる予定から昇格させてくれたら、考えとくよ」

唐突に掴んでいた手首を離し、両の掌を私へ向けて手を上げた島崎の顔は、ふざけていたさっきまでの雰囲気を欠片も残していなかった。
真面目な表情に、ゆっくりと弧を描く瞳。
そして風になびく私の髪を無骨な指先が、優しく梳いた。

「今日一番に言えなかったの、彼氏になりたての身としてはこれでも一応気にしてんだよ。だからせめて今日の最後にくらいは言わせてくれよ」

分かったか?と覗きこまれた私の顔は、今どんな表情を浮かべているのだろうか。
息苦しいのは浅い呼吸のせいだ、と強がって逸る胸の鼓動を鮮明に感じながら、どうしようもなく島崎が好きなのだと思い知らされては、注がれる甘やかな夜が始まる。


syrup
苦くて甘い、恋模様


近付いて、遠退いて、また近付いて、溶け合って。
大人になったところで結局、胸の高鳴りに逆らうことなどできやしない。


(いつかのいくみちゃんHappy Birthday!)
「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -