喉が渇いて、何となく足を運んだ深夜のコンビニ。
500mLのパックジュースを選んでいると、隣に並ぶ大きな影にふと顔を上げた。
そこには少し呆れ顔の島崎先輩がいた。

「こんばんは。先輩も買い物ですか?」

そう暢気に挨拶をすると、「今何時だと思ってんの?」と先輩はレジの後ろに掛けられている時計を親指で指す。
短針は11を、長針は15を少し超えたところを指していた。

「大丈夫ですよ。寝坊して朝練に遅刻、なんてことしませんから」
「違うっつの。こんな遅くに女ひとりで出歩くなって言ってんだろ」

コツン、とおでこを小突かれて、あぁそういうことかと納得する。
いつだって先輩はとても優しくて、まだ先輩たちが引退をする前は部活でいつもさり気なく手助けをしてくれていたことを思い出した。
そういう人なのだ。
飄々としていて、何となく掴みどころがなくて、本音が見えにくい。
だけどいつも、島崎先輩の隣はすごく居心地が良かった。

「送ってく」
「そんな、大丈夫ですって」
「言っただろ?こんな遅くに出歩くなって」
「じゃぁ、お言葉に甘えます」
「ん」

何を話すでもなくゆっくりと歩く夜道は、軽い気持ちで歩いていた行き道よりも果てしなく長く感じる。
ふたり分の白い息がそろりと交わっては消え、交わっては消え、沈黙が静かに続く中、突然伸ばされた両腕に息が詰まった。

「今まで、我慢させてたな」

抱きすくめられた身体が、震えた。
持っていたビニール袋は道へ転がり、両手で島崎先輩の服を握った。
まだ続くはずだった夏が終わりを告げたあの日も、先輩は私を抱き締めた。
初めて聞く弱々しい声で、「お前がいてくれて、良かった」と言った言葉には、飄々と掴みどころがなく、上手に本音を隠すいつもの先輩はどこにもいなかった。
だから私は、泣けなくなってしまったのだ。
私は知っている、あの夏に流したこの人の涙の意味を。
私は知っている、軽薄な態度に隠された情熱を。
私が泣いてしまったら、先輩たちを責めてしまうような気がした。
誰よりも誠実に戦った先輩たちを、選手を前に私が泣くなんて、あってはならないことだと思った。
だからずっと、私はずっと、あの日のことを思い出せなかった。

「遅くなって悪かった。もういいぞ。もう、思い出していいんだ。俺たちのこと、忘れないでいてくれな」

優しく耳元で囁かれた言葉に、せめて先輩たちが過去として受け入れられるその時までと堪えていた涙が溢れ出す。
この人は、どうしてこうも鋭いのだろうか。
しゃくり上げる私の背をあやすように摩りながら、先輩は「遠慮ねーなぁ」と小さく笑った。
思い出せば、必ず泣いてしまう。
だから振り返ることができなかった。
打ち付ける雨が、ひどく冷たかったことを。
一進一退の息を飲む試合の展開を。
祈るように一球一球を見届けたことを。
整列したその背中を、もう見ることができなくなったことを。
先輩が流した涙の量を。
赤く腫れた瞼を惜し気もなく見せたことを。
強く抱き締められた、両腕の儚さを。
何ひとつ忘れたくないなどないのに、少しずつ色を手放していく感覚が恐ろしくて、悲しくて、けれど思い出せなくて、私ひとりいまだあの夏の真ん中で雨に晒されていたのだ。
そんな私を、先輩は迎えに来てくれた。
一本の傘を片手に、「もういいよ」と笑って。

「私は、笑えていましたか」
「ぶっさいくだったけどな」
「私は、あなたたちを責めていませんでしたか」
「みんなお前に救われてたよ」
「私は、」
「お前だけが一度も顔を伏せないで真っ直ぐ、俺たちを見送ってくれた。ありがとな」

鼻をくすぐる島崎先輩の匂いはもう、あの日のものではなかった。
私もきっと、同じなのだろう。
そうして誰もがあの時はあったはずのものをなくしながら、忘れながら、生きていくのだ。
先輩がそうであるように。
私が、そうなるように。


あの夏の匂い


転がったままのビニール袋は、あと少しそのままに。
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