「湯沸かし器が故障しちゃったから、一週間は銭湯通いね」とお母さんに告げられ、渋々やって来た銭湯は意外にものんびりとくつろげた。
初めて訪れたそこのレトロな雰囲気の良さを、満喫できたからかもしれない。
ポカポカと温まった身体で足取り軽く、少し重たい古びたガラス戸を横へずらして外に出た。
気持ち良かったなぁ、なんて思いながら木製の大きな鍵を下駄箱に挿せば、やっぱりどこか懐かしい音がそこから聞こえてほんの少し顔が綻んでしまう。
そしてほっこりとした気持ちを抱えて『女』と書かれた暖簾を潜ると、見たことのある男の子が同じタイミングで隣の暖簾を潜っていた。
「栄口くん?」
驚いたようにこっちを見た栄口くんは、私を確認するといつもの笑顔でニッコリと笑ってくれた。
まさかこんなところで会えるなんて、と水気を取ったままぼさぼさになっている髪を手櫛でさっと整える。
そうして早々に、思いがけず簡単に声かけてしまったことを後悔した。
きちんと話したことすらないのに、と。
私が勝手に憧れているだけの相手にしどろもどろしていると、「ひとりで来たの?」と栄口くんが尋ねた。
「う、うん」
「もしかして湯沸かし器壊れちゃったクチ?」
「そうなんだ。もしかして栄口くんも?」
「そうそう。一週間は銭湯だなぁ」
古びた銭湯の入り口で、他愛も無いことを話せただけでも私にとっては何を置いても大事件なのだ。
今日は眠れないかもしれない、と火照る頬を俯ける。
熱い顔は、何もお風呂上りという理由だけではない。
舞い上がりそうな気持ちを顔に出さないよう「それじゃ、また学校で」と栄口くんに告げ、自分の帰路につこうとすると洗面器に収まった入浴グッズがカラン、と音を立てた。
栄口くんが私を腕を掴んでいる。
「ひとりなんだろ?送ってくよ。時間も遅いしね」
「え!?いいよいいよ。近所だから大丈夫!」
「うん、大丈夫かもしれないけど俺が気になるからさ」
だから送らせて、と何故か懇願されてしまっては私が断れるわけもなく。
精一杯で小さく頷けば、「道は教えてね」と軽やかな笑みが夜の闇に溶けた。
まさかだらけのこの夜を、一番他人事のように感じているのは私かもしれない。
色々な話をしながら歩くこの夜道に、栄口くんが隣にいるなんてまだ信じられなかった。
田舎道の静かな空気に私と栄口くんのふたりだけ、まるで世界に私たちだけのようなそんな錯覚は、今の私にはあまりにも贅沢なものだった。
「家がこっちの方ってことは中学一緒?」
「ううん、高校入学する時に引越してきたから中学校は別のところなんだ」
「へー、じゃぁまだあんまりこの辺のこと詳しくない感じかぁ」
「そうなの、だから銭湯見つけるのも苦労しちゃって」
カランカランと鳴るお互いの洗面器の中。
そこを曲れば私の家がある道へ出るまで落ちたしばらくの沈黙の後、栄口くんが立ち止まった。
「今日さ、偶然だけど会えて嬉しかった」
「え?」
「どんな子なんだろってずっと、思ってたから」
街灯に照らされた栄口くんは、頬にほんのり赤みを含みながら微笑む。
わ、私も!と咄嗟に口を突いた返事は、緊張のあまり裏返ってしまったけれど、「良かったぁ」と滲んだ声がやけに耳に残った。
「大体この時間に行く?」
「んー…多分」
「じゃぁ、明日も一緒に帰ろ」
「いいの?」
「俺もひとりよりふたりの方が楽しいしそれに、」
ひと呼吸だけ間を置いて、栄口くんが夜空を見上げる。
「一緒にいられるしね」
だから暖簾を潜った先で待ち合わせ、と栄口くんが小指を伸ばして私も頷きながら小指を絡める。
相手が出て来る時を待つ、まるで昔大ヒットしたというあの曲みたいだなと思うと、栄口くんが小さく鼻歌を歌ったその曲は、昔大ヒットしたというあの曲だった。
神田川「別れちゃってる曲らしいけど、俺たちには関係ないよね」
だってこれから、始まるんだから。