あの夜の帰り道、「今後必要になるかもしれないし」と促されるままに交換した携帯番号とアドレスは結局一度も活用されることはないまま、私の携帯の中でひっそりと存在している。
思いがけず色々なことが分かったけれど、それがあまりにも唐突であまりにも生々しくて、頭と心が現実に付いて行っていないというのが正直なところだった。
待ち合わせの場所を示し合わせてくれた岩泉は、きちんと合流できたか案じてくれていたようで、「ちゃんと会えたか?」と朝一番に確認の声をかけてくれた。
恐らく一番及川と親しくしているであろう岩泉がそれ以上何も言って来なかったところを見ると、約束通り誰にもあの夜の話をしていないのだろう。
別に疑っていたわけではないけれど、簡単な口約束だ。
それに及川に至っては、律儀にそれを守る必要はどこにもない。
それでも、胸の内に潜めてくれていることが嬉しくもあった。
大事なこと。
そう言ってくれたことが本当だったのだと、思えたからかもしれない。



「及川くん、あんまり来なくなったよね」

久美が唐突にそう漏らした。

「そんなにしょっちゅう来てたっけ?」
「相変わらず興味ないことにはホンット疎い」
「悪かったわね」

噂まで流れてしまったあの騒動から四日、及川が私の話に耳を傾けてくれた夜から四日、確かに及川は、一度もこの教室を訪れてはいなかった。
たかだか四日来ない程度で“来なくなった”と言われるということは、そこそこ遊びに行ってると言っていた及川の言い分は本当だったらしい。

「一日一回は必ず来てたよ。まぁ、バレー部は岩泉頼って割と頻繁に来てるからね」
「頼る?」
「教科書とか」
「そう言えばこの前、生物の教科書が返ってこないって怒ってたっけ」
「多分名前との噂、気にして来ないんじゃないかなぁ」
「…そこまで?」
「ほら、全然接点なかったじゃん?それに及川くんの方から肩をガッと掴んだって言うし、ファンにとっちゃ結構なハプニングだったんじゃない?」

彼女と別れてすぐに起こった出来事は私が思っていたよりずっと、虎視眈々とその機会を伺っていた女の子たちに大きな衝撃を与えたらしい。
私が耳にした限りでは、『及川くんが転びそうになった子を助けてあげただけ』『朝練に疲れた及川くんがフラッとして寄りかかっただけ』そんな“決して及川くんがあんな子の肩を掴んでいたなんて事実はなかった”という現実逃避すら織り交じったものだった。
この程度ならすぐに新しい噂に流されるだろう。
そう思っていたけれど、どこから仕入れてくるのかその実情を事細かに語る友人から聞く話では、どうやら面倒な話もちらほら出ているようだった。
人気者も大変だ。
あの夜、目の前にいた及川は顔こそ綺麗に整っていたけれど、いやに鋭い部分を除けばごく普通のどこにでもいる男の子だった。
何とかは盲目、というやつだろうか。
机の上に広げられたポッキーを一本取り上げ、ぽつりぽつりと噛み進めながらぼんやりとそんなことを考えていた。

「そんなに大事になってたんだ。知らなかったな」
「気を遣ってくれてるってことでしょ。良かったじゃん」
「うん」
「でも及川くん来てくれないとつまんないなぁ。あたしの心のオアシスなのにー」
「及川が?」
「そう」
「…顔が?」
「ぶっちゃければそう」

まぁ、と一言を残して、久美がパキンとポッキーを折る。

「名前が及川くんとどうこうなんて聞いた時に大笑いしたわ。絶対ない!って自信あったし」
「あぁ、そう」
「でも何かあったのはホントっぽいけど」

試すような眼差しはひしひしと向けられる。
久美に対しては変にはぐらかしても分が悪い。
詳しいことはちょっと言えないんだけど、と前置きをして言葉を選べば、「言えないことなら別にいーよ」といつかのような助け舟に少し、笑ってしまった。

「でもファンの皆さんが心配してるようなことは何もないよ」
「そっかそっか」
「それだと余計に怪しい?」
「あたしは名前のこと良く知ってるし、のっぴきならない事情があったのかなぁくらいは思うけど。他の子じゃなかなかね」

そう言って、空席になっている岩泉の席へ遠慮なく腰を降ろした久美を見て、そう言えばここしばらくは不在がちだなと思った。
そんな私の心を覗き見たように「及川くんとこ行ってるんだろうねー」と間延びした久美の声に首を傾げると、「だーかーらー」と私の至らない考慮を補うために久美が語る。

「及川くん、今まで岩泉んとこに結構来てたって言ったでしょ。あれ以来ぱたっと来なくなったし」
「何か申し訳なくなってきたなぁ…」
「相手が勝手にしてることなんだから、甘えときゃいいんだよ」
「あんたのそういうあっさりしたとこが今はすごい羨ましい」

そりゃどーも、と久美が笑う。

「まぁ、噂になった時期も悪かったよね。あたしらもう3年じゃん?あと少しでここにいれなくなるって思ったら、本気で好きな子たちには死活問題なんだよ」

ずっと想い続けている相手にぽっと出の、しかも大して取り柄もないような女が出現すればそれほど面白くないことはないだろう。
及川徹という男の価値は、私が思っていたよりもずっと大きく深いものらしい。
そして彼は数えきれない相手から、その大きくて深い気持ちを注がれている。
恐ろしいほどの鋭さも、そんな彼の生きてきた環境故だったのかもしれない。
だとすると、やはり人気者は大変だ。
他人事丸出しの考えしか及ばない頭で、いくら想いを馳せてもこの現状を打破する手立てが浮かぶはずもなく。
及川が気にかけてくれているらしい手前、私が勝手なことをしても悪影響しか与えないだろうと他力本願なことを考えていると、「でも結構意外だったかも」と久美が言った。

「噂気にしてどうこうって、今までなかったんじゃないかな」

まぁ、ここで何言ってたって分かんないもんは分かんないか。
そう言ってさっさと次の話題に移った久美に相変わらず私は相槌を打ちながら、良くそんな話を仕入れてくるものだと毎度感心するのだけれど。
今回ばかりは、流石に心ここにあらず。
もし久美の言っていたことが本当なら、及川はこれ以上どこに私と関わることがあると思っているのだろうか。
あの夜、流れで交換しただけの連絡先を想いながら、ポケットの中の携帯をギュッと握り締めた。


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