年は彼がふたつ上。
家が隣同士の、今で言うところの幼馴染という間柄で、祖母は幼い頃からその人が大好きだったと言う。
今尚残るこの写真を見て分かるようにまるで作り物みたいに整った顔立ちの人で、隣りに並ぶのはいつも気後れしていたけれど、「おいで」と手招きされるのが何より嬉しかったらしい。
特別扱いをされているようで、気分が良かったのだろう。
大事に扱われていることは、注がれる優しさから疑いようもないほど感じていた。
いつまでもこうしていられたら、と何度も思っていた。
けれど些細な幸せに満ちた日常は長くは続かず、若く健康だった彼もまた徴兵という義務を課せられてしまう。
とうとう明日、彼が行く。
言葉少なに手を繋いで歩いた、そんな夕暮れの砂利道が今でも鮮明に蘇ると祖母は言った。
あの人は行ってしまった。
立派な背中を向けて、見送る祖母に一度も振り返ることなく。
そして二度と、その姿を見せることはなかった。
彼の体温を感じたのは後にも先にもそれきりだったけれど、一時間にも満たないあの時間だけが、当時の祖母を支える全てだったのだろう。
たったそれっぽっちの思い出を大切に、誰にも言わず、たったひとりダイヤのように磨き続けて来た祖母が語ったことはそれだけだった。


「決して後悔のないようにね」


私の手を握りそう言って最後に笑った祖母は、後悔していたのだろうか。
悔やんでいたから、私に仕舞い込んでいたものを開いて見せたのだろうか。
何を尋ねても、「そういう時代だったんだよ」の一言を笑って告げる表情の意味を、私はとうとう知ることはなかった。
私の記憶の中には、今は亡き祖父と祖母が肩を寄せ合う仲睦まじいふたりがいる。
そんなふたりから生まれた父は母と出会い、恋に落ち、結婚し、兄と私が生まれた。
私が知る祖母はいつだって元気で明るく、朗らかで、曇った顔など決して見せる人ではなかった。
だから、及川の言うようにそれで終わりで良かったのだ。
はっきと語らなかったとは言え、祖母は実らなかったであろう初恋を、後悔だとは言わなかったのだから。
例え写真そっくりの男が近くにいたとしても、少しばかり気になったとしても、それだけで済んでいたことを掘り返したのは私だ。
及川が突いたものは核心と、私の本心。
私はきっと知りたかったのだ。
祖母が何故私に預けたのか、託されたものを私は一体どうしたら良かったのか。
祖母は何故、彼の帰りを待たなかったのか。
どこか他人事のように一通りを語った後、すっかり水っぽくなったオレンジジュースを一口だけ口に含む。
これで全部だと開いて見せた手の内を、意外にも一度も茶化すことなく聞き終えた及川は小難しい顔をして何かを思案していた。

「じいちゃんにそんな過去がねぇ…知らなかった」
「60年以上も前の話だから」

思っていたより事情が深いと思ったのか、ストローを遊ばせていた指先を潜めて「まぁ結論から言っちゃうと、」と言葉を選ぶ。

「生きてるよ、じいちゃん」
「え?」
「しかもすっごい元気。まだまだ長寿記録を更新する勢いだね」

トン、と写真の横に落とされた指先を追う視線は、写真の人物を浮き上がらせる。
その可能性を今まで全く考えなかった辺り、自分の思考が極端に偏っていたこともまた浮き彫りとなった。
この人が、生きている。
祖母の過去に息づいた人が、この世界にいる。
それだけのことがひどく動揺を誘い、脈拍を一気に勢い付かせた。
どんどんと切迫する心理とは裏腹に暢気にその人の説明を繰り広げる及川の声は全く耳に届かず、急激に生々しさを帯び始めた話に息苦しさを覚える。

「ここからちょっと離れたところでばあちゃんとふたり、仲良く暮らしてるよ」
「そっか…お元気なんだ」
「会いたい?」

そして唐突に突き付けられた可能性の欠片が、どうしようもなく恐かった。
八方塞がりだったことがまるで嘘みたいに、紐を解くようするすると解けていくこの感覚が、出来過ぎた何かが、ひどく恐い。
何を知りたいのか具体的な見通しのない私に、それを手にする権利があるのだろうか。
今度はそんな迷いばかりが広がる始末だ。
そんな私の困惑が見て取れたのか、及川は「名前ちゃんが迷ってた理由、今更分かっちゃったなぁ」と呟いた。

「じいちゃんがそのこと、覚えてる保証はないよね」
「うん」
「名前ちゃんのおばあちゃんにとっては綺麗な思い出でも、じいちゃんにとってもそうとは限らない」
「うん」
「思い出したくないことかもしれない」
「うん」
「人の心の中に踏み込むって、そういうこと言ってたんでしょ?」

違う?と三度目に傾げられた顔に、今度こそはっきりと返事を示す。
こくんと頷いた私を見て、及川はゆっくりと溜息を吐き出した。
確かに難しいことだね、と言ったその声は重々しく私へと沁み込み、私もまた、祖母の言葉を思い返す。


『誰にも話したことのない、大事な大事な思い出さ』


それを誰かに話してしまって、本当に良かったのだろうか。
無関係ではないとは言え、自分の心を軽くするために取った行動はあまりに軽率だったのではないか。
果てのない自責が重たく閉ざす唇をようよう動かし、「及川」とその名を呼ぶ。

「このことは誰にも言ってないの。両親も知らない」
「うん」
「及川に話したのが、初めて」
「うん」
「勝手に喋ってこんなこと言うのは厚かましいって分かってるけど、でもおばあちゃんが大事にしてたものだから、」
「うん、言わないよ。俺からは誰にも言わない」

真面目な顔をして、真面目な声色で、目の前の派手な男は誠意を見せるようにその瞳に私を映した。

「俺も大事なものだと思うから、誰にも言わない」

繰り返し伝えられた意志に、私が募らせていた杞憂は綺麗に消え去った。
思えばこんなとんもでも話を、ずっと馬鹿にすることもなく聞き届けてくれたのだ。
自分の祖父の名を知っている怪しい女の話を、部活終わりで疲れているにも関わらず。
及川がここまでしてくれなければ、何ひとつ知りえないことばかりだったじゃないか。
自分のことばかり必死になって見落としていたことを今更思い知るけれどきっと、謝られたところでそれは及川の望むところではない気がした。
だったら、と終始伏せがちだった顔を上げて今日のやり取りを思い返し、精一杯感謝を込めて表情を浮かべた。

「ありがとう」


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