「及川くん、カノジョと別れたんだって!」
「え、うそ!あんたチャンスじゃん!」

朝一番、そんな会話を小耳に挟みながら欠伸をひとつ噛み締める。
少し前なら、どこにでも転がっている色恋沙汰が所構わず取り沙汰されるのだから、人気者も案外気の毒な立場だなと他人事でいられただろう。
でも今は、少しばかり状況が違う。
いちいち噂の槍玉に上げられている相手に接触する必要がわずかながらにできてしまった身としては、頼むからしばらく大人しくしていてくれ、というのが本音だ。
相当自分勝手なことを考えている自覚はある。
その分まだいくらかはましということにしておいてほしい、と自己防御に励みながら寝不足故の欠伸の連発に、痛む頭を押さえながら歩く廊下は、いつもより幾分長く感じた。
考えないようにすればするほど手は勝手に手帳を開いて写真を取り出すし、見兼ねて鞄に推し込んでみてもちょっと視線を上げれば部屋の机の上に置かれた手紙の束が視界に入る。
そんなことを繰り返しているうちにみるみる時間は過ぎていくけれど、起床時間はその分伸びてくれるはずもなく。
必然的に睡眠時間だけが不本意に削られていく結果となった。
受験生という大事な時期に、祖母も思わぬ厄介事を託してくれたものだ。

受験に失敗したら恨むからね、おばあちゃん。

恨み言を連ねてみるものの、祖母のあの表情を思い出してしまえば私は簡単に負けざるを得ない。
何十年という時の流れでも忘れることのなかった思い出は卑怯なほどに強敵で、その想いを言葉に紡いだ祖母の表情はそれを上回る攻撃力で私のなけなしの時間と心を奪っていくのだ。
このままただ悶々としていたところで、何も解決はしない。
大事な時期だからこそ、気がかりは一刻も早く払拭すべきだ。
揺れに揺れていた天秤が、少しずつ片方に重きを置き始める。
そうなるといつ、どこで、どうやって、いつも誰かしらと一緒にいるあの男にこの話を持ちかけるかということを考えなくてはならないのだけれど。
寝不足の頭でその方法を弾き出す余裕があるはずもなく、注意力散漫に足を進めながら思わずぽつりと呟いた写真裏の名前に、自分がどれだけ神経をすり減らしているのかを目の当たりする、はずだったのに。


「今、何て言った?」


突然強く掴まれた腕が、乱暴に引っ張られる。
予想外の出来事によろめいた身体は、塗料の剥げた壁へと着地した。
チカチカする視界に瞬きを繰り返すけれど、一向に自分に何が起こったのかは分からないまま、ただ双眼が映す世界には近頃良く目にする顔がしっかりと象られていた。

「今さ、何か言ったよね」
「え?」
「人の名前」

いつも見ていた同じ表情、同じ姿勢を崩さない顔が、驚きを表しながら間近に迫る。

「えっと、」

あまりのことに混乱しつつもたどたどしくその名をもう一度口にすれば、憎たらしいほど整った顔が音が出そうなほどに歪んだ。
何で知ってるの?と言わんばかりの訝しさを滲ませ、気付けば両肩を持たれて後には引けなくなった私は、「祖母の古い知り合いとしか聞いてない」と一息で言葉を吐き出す。
途端に拍子抜けしたようにキョトンと、「そうなの?」と間の抜けた声に勢いよく首を縦に振った。

「あぁ、いきなりごめんね。ちょっと驚いちゃって」
「う、ううん。大丈夫」

一体何が大丈夫なものか、と頭のどこかで至極冷静な自分が囁くけれど、今にも飛び出そうほどけたたましい心臓の音に比例して冷や汗が滲む。
何も騒然としているのは、当事者だけではないからだ。
朝の廊下は休み時間以上に賑わっている。
そして学校で知らない者がいないほどの人気者が、取り立てて目立ちもしない私に掴みかかっているのだから、これほど目立つことが他にあるだろうか。
好奇の眼差しやどこかしこから漏れ出るひそひそ話に、心身共にどんどんと萎縮していく。
いつかは接触しなければと考えてはいた。
考えてはいたけれど、まさかこんなにも唐突に、しかもこの往来で、思いがけず成就してしまうことなどこれっぽっちも望んではいなかった。
平々凡々つつがなくを信条に貫いてきた学校生活が、音を立てて崩れてゆく。
どれだけ崩れたものを掻き集めてもそれはもう、後の祭りなのだ。
その場で頭を抱え込みたい思いを必死に抑え、何とか地面に足を踏みしめ立っている私を噂話のネタへ昇華させたこの男は、いつものことだと言わんばかりに構わず私へ視線を落とす。
頭へじりじりと突き刺さるそれにとうとう耐え切れず、ちらりと見上げてかち合った視線は何か言いたげに、それでも言わずに、考え込むように口元を掌で覆っていた。

「とりあえず、もうすぐチャイム鳴っちゃうから後でもいい?」
「あ、後?」
「だって気になるでしょ。何でうちのじいちゃんの名前知ってんのか」

ニッコリ張り付いた笑顔で「5組の子だよね?後で行くよ」と簡単に言い退けた彼に、どうしてそこまで気にするのか、どうして私のことを知っているのか、投げかけたい疑問は色々あったけれど、通り過ぎようとする腕を今度は私が留めた。

「ちょっとワケありなの。話すと長くなるから、人がいないところでまとまった時間がないと言えない」

祖母はあの時まで、誰にも話さなかったと言っていた。
それを私が誰かに話すのは、約束を破ることにはならないだろうか。
祖母の大切な思い出を、簡単に誰かと共有していいものだろうか。
迷えばキリがない。
でも近付くためには、この人の話を聞かなくては始まらない。
確かに『うちのじいちゃん』と言った言葉が耳に残っている。
ぐるぐると行ったり来たりを繰り返す問答の果てに、目の前で焦げ茶色の瞳を瞬かせながら、彼は「うん、分かった」と頷き、もう一度胡散臭く笑って見せた。

「ちょっと遅くなるけど待っててくれる?部活終わりなら時間作れると思うから」
「うん」
「それじゃ、またあとでね」

ひらひらと小さく手を振りながら、煩く鳴るチャイムの音を背にその男は遠ざかっていく。
好奇の眼差しやどこかしこから漏れ出るひそひそ話も、それを合図に水を打ったように静まり返り各々自分がいるべき場所へ戻るようだった。
私も行かなくちゃ。
鉛のように重い足を引きずりながら、想いを馳せるのは手帳の中のあの人で。
これで一歩近付ける。
確かに、近付く。
思い出話の遠いあの人に、祖母が生涯胸に潜めたたったひとりの人に。
戸惑っているのか喜んでいるのかも分からない複雑な想いを抱えながら、すっかり飛んで行った眠気とは裏腹に、呆気なく訪れた平穏な学校生活の終焉を思うと頭の痛みは増すばかりだった。


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