「名前ちゃん、あれだと誰だって決闘申し込まれたのかと思うよ?」
「私も送ってからどうかと思ってた…」

自販機横のベンチは相変わらず人気がなく、生徒の声を遠くに響かせた独特な静けさを保っていた。
ここで及川と話すのは三回目。
ジュースを片手に話しているくらいなら、今更はた迷惑な噂話が誕生することもないだろうと思い付いたはいいけれど、及川を呼び出す方法に苦心した。
こんな時に限ってこの男は岩泉のところに顔を出さないのだ。
仕方なしにメールを送る決心はしたものの、今度はその内容に頭をもたげる。
『自販機のところで待ってます』ととりあえず打ち込んでみたものの、これは少し違う気がして却下。
その内出ない答えに面倒臭さが勝り、結局『自販機にて待つ』と送った後でこれこそ決定的に違う気がした。
とは言え送信しました″のメッセージに切り替わってしまった以上、どうしようもない。
一部始終を見ていた久美は「決闘の申し込みじゃないんだから!」とお腹を抱えて大笑い、岩泉に至っては「腕以外なら好きにしていいぞ。むしろ顔面狙え」と謎の助言を頂く始末だ。
そんな相手の都合もお構いなしの身勝手なメールを送ったにも関わらず、きちんと姿を現してくれた及川は開口一番に苦笑いで思ったとおりの反応を示した。

「わざわざどしたの?」
「やっぱりちゃんと謝らないとと思って」

ベンチにかけた腰をずらし、及川の方へ身体を向ける。

「昨日は色々とごめんなさい」

少し頭を下げた私に、及川は「怒ってないよ」と笑った。

「まぁ、置いてけぼりは寂しかったけどね」
「返す言葉もありません」
「でもメールくれたでしょ」
「それも返事しないまま寝てしまいまして…」
「うん。それでもこうやって話せる方が俺はいいよ」

いつもよりひしゃげている毛先を遊ばせながら、及川は慣れた仕草で隣に腰を降ろす。
しっかりと整えられているはずのそれが、珍しく無防備な様を見せていた。

「今日は元気ない髪型だね」
「そりゃ雨だもん。湿気には流石に勝てないよ」

そう、今日は一日雨模様。
狙ったように降るそれは、あの夢を彷彿とさせる水溜りを至る所に作っていく。
誰も来ない辺鄙な場所で、誰かの声も足音も遠く遠くへ抜けて行き、さんざめく雨音だけが柔らかにこだまする。
夢の中の及川は、今日みたいに少し静かだった。
口数が少ないわけではないのに、妙に落ち着いていてどこか遠い幻のような。
それは些か気にしすぎなのだろうけれど、今隣りにいる及川も見上げればいなくなってしまいそうで、何となくその横顔を見れないままでいた。

「及川」

今度は私が彼を呼ぶ。

「色々ありがとう」
「え?荷物持つ以外に何かしたっけ?」
「分かんないならいいよ」
「気になるじゃん!」

ふふっと笑みを零し、「内緒」と人差し指を立てる。
きょとん、と瞳を丸めて首を傾げる及川は、幼さを増した表情で唇を尖らせた。

「ねぇ。俺ホントに何かした?」
「お礼言われてるんだから、良いことなんじゃない?」
「もーそうやってはぐらかす」
「気にしなくていいよ。ちょっとした自己満足だから」
「そう言われる尚更気になるんだけどなぁ」

意外にも食い付く様子は予想外で、困ったなと思案する。
その間も探りを入れる手を休めない及川に、ベンチから立ち上がった。

「来てくれたでしょ。だから、ありがとう」
「…それだけ?」
「いいでしょ、それだけでも。私がそう思ったんだからそれでいいの」

今日は何か調子狂うなぁ、とボヤきながら腰を上げた及川と来た道を戻る。
随分と不思議そうな顔をしていた。
それもそうだろう。
でも私にとっては、それだけではなかったのだ。

「あらら、こんなとこに水溜りできちゃってる」

来る時にはなかったそれに、ふたり足を止めた。
頭を過る光景に思わず目を見張る。
通路の端と端までを繋ぐそれは、やはり私たちの前を阻むように鎮座していた。

「よっと」

軽やかな声に遅れて届く緩やかな風。
つい今まで隣りにいたはずの巨体が、軽快な動きで対岸へ渡る。

「名前ちゃん」

呼ばれた声に導かれるように顔を上げた。

「濡れちゃうから飛び越えて」

惜し気もなく手を差し伸べて、まるで簡単なことのように言う。

「ゆっくりでいいから」

私が何に戸惑っているかも知らないはずなのに。


「ほら、おいでよ」


どうして及川の言葉は私の核心を突いてくるのだろう。
これは、境界線なんかじゃない。
ただの水溜りだ。
そう決心してゆっくりと手を伸ばし、大きな掌に自分を預ける。
足に力を入れようとしたその瞬間、強く引かれる手に浮かんだ身体がトンと、無条件に広げられた腕の中へと着地した。
私の戸惑いなどお構いなしに、及川が笑う。
少し悔しい気も手伝って、恨めしそうに見上げたところでこの男には響かない。
思いの外逞しい腕からはすぐに開放され、ふと足元を見下ろした。
ここは確かに水溜りの向こう側で、私は何ひとつ失わずに無事辿り着いたらしい。
何だか随分と奇妙な心地だ。

「ゆ、ゆっくりでいいって言ったのに!」
「勢いつけないと落ちちゃうじゃん」
「それは…まぁ、そうだけど」
「前から思ってたけど、名前ちゃんって結構ドジだし不器用だよね」
「今のは心の準備ができてなかっただけだよ」
「えー」

意地の悪い顔で「ホントにぃ?」と顔を覗き込まれ、考えるより先に動いた手は端整な顔立ちへ自然と伸びる。
自分でも思ってもみない行動なのだから、及川にとってはまさしく青天の霹靂だっただろう。
決して素早くはない私の動きを読み切れずに、簡単に頬への着地を許した。
何をしたかったのか、何をしようとしていたのか。
分からない。
でも、何故かそうしたいと思った。
そして不意に思い出した岩泉の助言に、指先へ力を込め横に引っ張ってやった。

「ちょっと!痛いんですけど!」
「顔面狙えって岩泉が言うから」
「何言ってんの岩ちゃん!?ってか真に受けて本当にやるっ!?」

ほんのり赤を纏った両頬を労わるように撫でながら、及川は次々と不服を申し立てる。
心底納得いかない、という表情は私の笑いのツボを大いに刺激した。
久しぶりに声を上げて笑った気がする。
薄っすら涙が浮かぶほど遠慮なく肩を震わせる私に、頭上から溜息が落ちた。
それは笑いすぎだという不服の申し入れか、それとも他意があるのか。
笑いすぎたゴメン、ととりあえず謝ってみるけれど、及川の意図は少し違った方を向いているようだった。

「俺もお礼言いたかったんだよね」
「…私に?」
「うん、名前ちゃんに」
「私こそ何もしてないと思うんだけど」
「この前言ってくれたでしょ」

唐突に掘り起こされようとしている些か気まずい出来事は、しつこく繰り返す私の笑い声を止めるには十分すぎるもので、表情がぴたりと止まったことに及川も気付いただろう。
それでも尚攻め手を緩めないこの男は、あの夢のように髪を掻き上げ数回瞬きをする。
水滴が零れることも、虹のように色とりどりの光の粒が弾けることもなかったけれど、私はやっぱり息を飲んだ。

「見損なったことなんてないって」

自分でもどうしてそんなことを言ったのか、既に記憶は危うい。
ただ、それは今でも変わらない結論だ。
明確な関わりができた時から一度だって、この男を悪く思ったことはないのだから。

「嬉しかった。ありがとう」
「…大袈裟だよ」
「かもね。でも俺がそう思うんだからそれでいいんだよ」

行こっか、と促されようやく再開された歩みは、随分のんびりとした調子だ。
故意なのか、無意識なのか。
私に合わされた丁寧な歩調が、静かな決心に火を灯した。

「及川」
「んー?」
「カレーうどん。いつ食べに行こうか」

夢じゃなくても一緒に、探してくれる?


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