そこは、行く途中なのか帰る途中なのか。
制服姿の私は気付けば手ぶらで道を歩いていて、そのことに何ひとつ疑問を抱くことなくただ、ただ、足を進めていた。
どこに向かっているのかも分からないのに、何故か足取りは軽快だ。
自分のことなのにまるで他人事のように感じながら、傷みのひどいローファーにじっとりとした重みが増した。
雨が上がった直後なのか、アスファルトは水分で黒く変色している。
所々に水溜りができ、空気は湿っぽく独特の匂いを残していた。

ここは、どこだろう。

見覚えがあるようにも感じながら、それでも何故か身近には思えない景色を横目に、とある十字路で私の足は不意に止まる。
そこには見たこともないくらい大きな水溜りがあって、私の行く道を阻害していた。
既にびしゃびしゃの足元だ。
どうしても先に進みたいなら、このままその水溜りを突っ切ったって変わりはない。
頭では確かにそう理解しているはずなのに、鉛の重りでも付けているかのように足は重く、どうしても一歩を踏み出せないままでいた。
そのまましばらく立ち往生をしていたと思う。
引き返すことも進むこともしないままただその場に立ち尽くし、雲の切れた空を映すその水溜りを眺めていた。


「行かないの?」


ひとり足踏みをしている私に、かけられる声。
低すぎず高すぎず、湿気の多い空気にも良く通る声色は、近頃良く耳にするそれに酷似していた。
振り返り、思い浮かんだ相手かどうかを確認する。
雨に降られてしまったのか、そこには全身濡れ鼠の及川が制服姿で佇んでいた。

「ちょっと、風邪引くよ」
「うん」
「うん、じゃなくて」
「これくらい大丈夫大丈夫」

へらへらと何てことはないように笑う及川は、毛先から滴る水滴を避けるように髪を掻き上げる。
しっかり整えられているいつもの髪型の痕跡は、そこには少しも残ってはいなかった。
普通ならみすぼらしさすら感じるであろう出で立ちでも、この男の美しい造形は損なわれるどころか一層それらを際立たせているようで、現実味を帯びない作り物のような感覚を覚える。

「で、その先には行かないの?」

水溜りの前に立つ私の隣りに、及川が肩を並べる。
高い位置にあるその横顔を見上げ、瞬きされる度に落ちる水滴が光を受けてキラキラと輝く様子に息を飲んだ。
まるで虹のように、色とりどりの光の粒が弾ける。
それがあまりにも幻想的で、尋ねられた言葉に応えられないままでいると「名前ちゃん?」と茶色く丸っこい瞳が覗き込んだ。

「…分かんない。どこに行くつもりなのかも良く、分かってなくて」
「うん」
「変だよね」
「変じゃないよ」
「え?」
「誰だってそんなもんなんじゃないかなぁ」

ふと、目尻を落として及川が微笑む。

「でも名前ちゃんの探し物は向こう側にありそうだね」
「そうなのかな。それも分かんない」
「だって向こうに行きたそうだったよ」
「うん」
「これが邪魔?」

そして指が指される先はこの足を阻む水溜りで、私はこくんと小さく頷いた。
でも、頷いてから思う。
もしこれがなかったとしても私はその先に行けたのだろうか、と。

「まぁ、飛び越えるにはちょっと大きいよねぇ」
「うん」
「でも行こうと思えばどうとでもできるのに、どうして行かないの?」
「もっと濡れるし」
「うん」
「こけたりしたらそれこそ悲惨だし」
「うん」
「行ったら、引き返せない気がするから。それに、」
「それに?」
「何か、こわい」

そうだ、これは境界線なのだ。
ここならまだ引き返せる、なかったことにできる、その選択を迫る最後の一線。
だからこれを越えてしまったら私は、自分の好奇心を止められない。
他に優先すべき事柄を置いてまで、行き着く先まで行ってしまうだろう。
誰かの心に触れる繊細なことだと分かっていながら。
だからずっと迷っているのだ。
あの写真と手紙を預かり、祖母から話を聞いたあの時から。
そして写真に映る人物とそっくりな男と関わり、目まぐるしく変わる自分の世界を持て余していた。
分かっている。
これが逃避で、ただの言い訳で、私は私を正当化できる手段を残しておきたいだけなのだ。
だったらこの先に行かなければいい。
それならいつか及川の言った『はい、終わり』で、済ませられるだろう。
それなのに煮え切らない私に燻るものをこの男は、及川は、確実に見透かしているのだ。
スカートをぎゅっと握り、その場に何とかしがみついている私を尻目に、及川は水溜りの中へ軽やかに着地した。
パシャン、と派手に水飛沫が上がる。

「恐いことなんて起こんないよ。ほら、平気でしょ」

スローモーションに映る視界で、及川はゆっくりと振り返り手を差し出す。

「だからおいでよ」

私に、私だけに向けられる言葉や仕草。
何も考えずにそれらに全てを預けたい衝動に駆られ、スカートから離れた手が思わず伸びようとするのを寸前で留めた。

「名前ちゃん」

そんな私を見兼ねたのか、催促するように及川が私を呼ぶ。
迷いが溢れて零れるように指先がチクチクと痛みながらも、私は精一杯首を横に振った。

「名前ちゃん」
「行かない」
「大丈夫だよ」
「行けない」
「濡れても、歩いてたらその内乾くよ」

どのくらいそうしていたのかは分からない。
時間の経過すらないように感じながらも、私の足を侵していた水分は確かに重みを手放し始めていた。
あの時もそうだ。
ふざけている、と取られても仕方のない私の下手くそな例え話をしっかりと聞き届け、何を言いたいのかを汲み取り、そして言ってくれた。



『火傷はいつか治るよ』


それは魔法の言葉のように、私を掬い上げるように、柔らかくそれでいて鋭く心の中を鷲掴みにされた気がしたのだ。
だから私は二度目の逃走を謀った。
頑固で、頭でっかちで、融通が利かないくせに都合の良いことには優柔不断な小汚い私を、見られたくなかったから。

「簡単にできないよ。そんなに簡単なことじゃない」
「何で?」
「こわい」
「何がそんなに恐いの?」
「探してるものはそこにないかもしれない」
「うん」
「見つけたとしてもそれは、見つけない方が良かったものかもしれない」
「うん」
「そしたら私、絶対に後悔するから」
「うん」
「自分を許せなくなるから」
「うん」
「しんどい自分を受け止められなくてまた逃げるから。そうなるって分かってるから」
「うん」
「だったら最初から行かない方がいい」

本音の吐露はどう足掻いても醜い。
半ば怒鳴るように声を荒げる私とは対照的に、水溜りの中の及川は静かにただ淡々としていた。
私が手を取るのを待っているのか、相変わらずそれは差し出されたまま「名前ちゃん」ともう一度、身震いするほど優しい声色で私を呼ぶ。

「それは、俺が一緒でも?」

彷徨っていた指先は、ようやくその手を握り締める。
冷たかった。
そうして気付く。



ああ、これは夢だ。


そして見上げた先に、そこにいるはずの及川はいなかった。
変わりに視界に映る見慣れた自分の枕に、掌に広がる異物感を確認すればそこには同じく見慣れた自分の携帯があり、けたたましくアラーム音を奏でている。
妙に生々しい夢だった。
いつもなら目覚めと共に忘れることがほとんどのそれを、今日に限って鮮明に覚えている。
吹き出す汗を拭い、まだ寝ぼけている頭を精一杯回転させてどうしてあんな夢を、及川が出て来るような夢を見たのかを振り返り、そして押し寄せる現実の波に血の気が引いた。
結局後悔は、私の専売特許らしい。


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