喉の渇きに負けて自販機前に足を向けた。
勢揃いしている数多の飲み物を前にして何を飲もうかと迷っていると、不意につい先日ここで待ち合わせしていたことを思い出す。
そう言えばほぼ初対面と言っても過言ではないのに、早速『名前ちゃん』と気安く呼んでいたっけ。
でも取り立てて不快にも不信にも思わず、後ろに控えていた本題に頭が引っ張られていたからかそれに関して突っ込むこともしなかった。
むしろ名前を知られていたことの方が驚いたくらいだ。
いつもなら関わりのない相手の顔などすぐにモヤがかかり、どんな顔をしていたのかも思い出せくなっているのに。
いまだ鮮明にその顔立ちを思い浮かべることができるのは、あの写真と睨めっこを続けていたせいだろう。
思えば不思議な夜だったな、と小銭と投入口に押し込み人差し指を突き出してどれにしようかと品定めする。

「あ、苗字さん」

誰もいないと思っていた背後から唐突に呼ばれた名前に、ビクリと跳ね上がった肩は突き出していた人差し指を光るボタンに突き刺した。
ピッという電子音の後すぐに賑やかしく落ちて来た缶は、その中身を示すように真っ黒に統一されたもので取り出し口から拾い上げて数秒、ピタリと止まってしまった私に覗き込む影が落ちる。

「苗字さんブラック好きなの?渋いね」
「や、ちが…」
「ちょっとマッキー!名前ちゃんびっくりしてるじゃん!」

些か気まずそうな表情を隠せていない及川が、私の手元を覗き込んでいるマッキーとやらを押し退けた。

「何だよ」
「いやいや、マッキーこそ何してんの?」
「何って、苗字さん見かけたから声かけただけだけど」
「さも当たり前のように言うのやめようね!」

目の前で繰り広げられる騒がしさと冷静のちぐはぐな漫才を眺めていると、もう一度ひょいと覗き込む気怠そうな表情が缶と私を順繰りに見る。

「もしかして買おうとしてたやつじゃなかった?」
「うん」
「ほらー、マッキーにびっくりして飲めないの押しちゃったんだよ」

女の子は甘くて爽やかな飲み物が好みなんだから、と極端な言い分もどうかと思うけれど、確かに手の内のものは私の飲めないものだった。
目の前に及川がいることも、大して知りもしない相手に話しかけられていることも、今この瞬間は頭からすっぽ抜けていた。
さて、飲めないこれをどうしようか。
せっかくなけなしのお小遣いから買ったものを無碍にもできず凝視していると、掌にスッと長い指先が伸び、いとも簡単にマッキーとやらが奪い去る。
そして空いている掌を上に向け及川に差し出した。

「はい」
「なに、その手は」
「小銭出せって意味」

さも当たり前のようにそう言い退け、及川も従うようにチャリンと小銭をその掌に落とした。
それ以上特に言葉を交わすことなく小銭を自販機に押し込んだマッキーとやらは、くるりと身体をこちらへ向けて「苗字さん」と私を呼ぶ。

「好きなのどーぞ」
「え!?」
「じゃ、そーいうことで。後はよろしく」

それだけを言い残して、手違いで買ってしまった缶コーヒーをぶらぶらと掲げながら広い背中は去って行く。
取り残されたのは及川と、私と、ボタンが光っている自販機だけ。
途端に重々しくなる空気を壊したのは、意外にも及川だった。

「オレンジジュース、だよね?」

返事もする間もなくその自販機に収められた唯一のそれを選択し、落ちて来たオレンジ色の缶を私に手渡す。
思わず受け取ってしまった後に気付いたのは結局及川だけが損をして、マッキーとやらが独り勝ちしたということ。
奢ってもらったというような奇妙な感覚に、「あ!お金払うよ!」と慌てて財布を取り出そうとすると、自分の分を購入するのか小銭を入れていた及川は「いいよいいよ」と軽やかに笑う。

「びっくりさせたお詫びってことで」
「でも、」
「これじゃない方が良かった?」

振り返った心配を滲ませた表情に、ふるふると頭を横に振ると「なら良かった」とスポーツドリンクのボタンがピッと軽快な音を上げた。
ペットボトルを取り出す及川の隣りでただ立っているこの状況を、上手く乗り切る方法ばかりを探がしながらふと、手の中を見て思う。

「良く分かったね」
「だってあの時、名前ちゃんオレンジジュースばっかり取りに行ってたから」
「あ、そっか」

それにしても人のことを良く見ている、と半ば感心していると、及川がベンチに腰を降ろす。
待ち合わせていた時とは真逆の状態だ。
座っていても少ししか見下ろすことの叶わない頭を眺め、きちんと整えられている髪型に思わず笑みが零れた。

「ん?どうかした?」
「今日はボサボサじゃないなと思って」
「部活終わりだったからねー。待たせてると思って急いでたし、あの時のはカウントしないで」

私の言った意味をすぐに理解して、苦笑い混じりでそう返した及川はキャップを片手で器用に開けて一口、それを口に含む。
私もプルトップに手をかけようとすると、「あれからどうしてんの?」と低い位置から飛んで来た声に指先を止めた。

「んー…正直何も。あの時知れたことでお腹いっぱいって感じで」
「そっか」
「結局、自分がどうしたいかを私が分かってないから」

これ以上調べたいのか、これ以上知りたいのか、それさえも曖昧な状態でできることなどあるはずもなくて。
いまだ出発地点で足踏みをしているのだと言えば、「ゆっくりでいいんじゃない?」と穏やかな口調で及川が言う。
納得できればそれでいいんじゃないかな、と。
生きる上で必要なことでも、どうしても知らなければならないことでもない。
ただ託されたことの責任とそれに勝る好奇心を、私がまだ上手く消化できていないことを分かっているかのような口振りだった。
たったそれっぽっちの言葉が、及川にとってどういう意味合いで言ったかも分からない言葉が、凝り固まった何かをじわりと溶かすように響く。
それもそうだ、と素直に納得できてしまった。
少しだけ軽やかになった心に、人気のない静かな雰囲気も助長したのかもしれない。
誰かが来ないかと気を張っている様子を感じつつも、「気にしないよ」と零した私に日差しのせいか、前に見た時よりも明るい色の瞳がくるりと丸まった。

「私、誰に何言われても気にしないよ」

もう一度、確かに伝えた声に及川は「そう?」と困ったふうに笑う。

「やましいこと何もないのに、コソコソするのって何か違うと思うから」
「うん」
「及川がその方が面倒が少ないって言うならあれだけど」
「いやいや、うん、そうだよね」

まるで何かを自分に言い聞かせるよう、何度か繰り返しそう言って頷きを見せ、「実は結構不便してたんだ」と背もたれに身体を預けた。

「そんなに岩泉に用があんの?」
「あるよ!あるある!国語の便覧とか、あと世界史の資料集とか」
「…自分で持って来なよ。そりゃ岩泉も怒るよ」
「岩ちゃんと同じこと言わないで!」


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