及川と別れてから、勝手に走り始めた足に息が上がる。
肩で呼吸を繰り返しながら見上げた窓には、明かりが灯っていなかった。
思わず携帯を鳴らしてみる。
悴む鼓膜にはずっと、呼び出し音だけが空々しく響くだけだった。
今日の月は丸々と太っている。
こんな日の夜は、名前がひどく憔悴する時だ。
そして出ない電話が何よりそれを物語っている。
荒々しく開けた玄関にエナメルバッグを投げ入れ、まだ酸素不足を訴える身体で赴くままに足を駆け出す。
あれから一度としてなかった名前の逃避が、このタイミングというのもまた落ち付かなさを倍増させた。
解けるマフラーもそのまま風に靡かせ、上昇する体温が更に息を白くさせる。
ただカンを頼りに駆け込んだのは、名前が初めていなくなった日に膝を抱えて丸まっていた公園だった。
静けさをただ広げるそこに、見慣れた背中が佇んでいる。
ゆっくりと、けれど忍ばせるわけでもなく、無防備なその姿に近付いた。

「…名前っ」

囁いた名前にピクリと弾む肩が、更に身体を小さく小さく折り畳んでゆく。
いつもなら名前を呼べば、名前は笑って俺を見上げた。
へらりとした力の抜けるような笑い方で、その黒い瞳に俺を映すはずなのに。

「何が、あった?」

いつもの問いかけにすら名前は顔を上げようとはせず、ただ膝を抱えてきつく身体を小さくさせるだけだった。
何かがおかしい。
探し回った俺の気も知らないで、朗らかに笑いながら「何でもないよ。ただ何となく」と呆れさせるには十分の用意されている答えすら返っては来なかった。
頑なに伏せられた顔を覗き込むようにその隣りにしゃがみ込めば、その身体は小刻みに震えていた。

「名前」

もう一度呼ぶ名前にも上げられない顔に、それを覆い隠すように流れる髪を指先でそっと持ち上げた。
その震えが、厳しい初冬故のものではないことを悟る。

「たかちゃん、私ね、お父さんのことはもう大丈夫なの。本当だよ」

震える身体を懸命に抑えながら、静寂が支配する世界で名前が言った。
くぐもり、掠れ、弱々しい声で。

「この前、小さな女の子と一緒にいるの偶然見かけたんだ。その子、小さい頃の私にそっくりで、ほら、私お父さん似だったから」
「そうだな」
「その子のこと大切そうに見てるお父さんが、とても幸せな顔をしてて、私、良かったって、本当に良かったって、心から思えたの」

時折ずずっと鼻をすする音や、しゃくり上げる呼吸音が混ざる。
名前はまだ顔を上げなかった。
何ひとつ名前の言葉を、声を、聞き逃さないように俺は祈るような思いでその声を待つ他に術がなく、ただ傍に佇むだけだった。
それでも名前が俺を“たかちゃん”と呼び、吐露される心の内を向けているのは確かに俺で、それを聞き入れる権利を与えてくれたのだと知る。
だからいつまでも待った。
それを苦に思えるはずもなかった。
あの日から堅く閉ざされていた扉が今、静かに開こうとしているのだから。
本当は微かに開かれたそこへ腕を捻じ込み、今すぐその手を取って引っ張り出してやりたい。
そんな勝手な衝動を抑え込みながら、その扉の前でただ漏れ出る光が大きくなって行くことだけをただ望んでいる。
お前が顔を上げてくれたなら、手を伸ばしてくれたなら、俺を呼んでくれたなら、いつだって、

「置いていかれたこと恨んだこともあった。捨てられたって憎んだこともあった。悔しくて、悲しくて、辛くて堪らなかったけど、でも愛してくれてたこと、ちゃんと知ってるから。覚えてるから。だから誰に何を言われたって平気だったの。だってたかちゃんが、勝手に私が遠ざけたのにたかちゃんだけは、私のこと見ててくれたから…だから、」

だから、と詰まったままなかなかその言葉の続きを、名前は吐き出そうとはしなかった。
それは頑なに名前が抑え込み続けたものだからだろう。
何年も、何年も、薄っすらと姿を滲ませることしかできなかった、名前が最も恐れ最も怯えているものの正体だ。
だけど本当は、その言葉の先を聞きたかった。
いつも、いつだって、それを聞き出すために俺は走っていたのだから。
それでも頑として漏らそうとしなかった名前が今、自分で扉を開けて俺に曝け出そうとしている。

だから、何?

何度も胸の中で繰り返す問いかけは、いまだ形を成しはしない。
ただ一言、その一言を、寂しかったのだとそう言ってくれたのなら、俺はいつだってお前の手を握る覚悟はできているから。
だから、その続きを言えばいい。
そうすればお前が恐がっていることも、お前が怯えていることも、全部全部ただの杞憂だと俺は教えてやれるから。
懇願にも似た想いが彷徨う中、止め処なく落ち続ける沈黙は名前によって終わりを告げる。
震えを帯びる名前の指先が、すぐ傍に立つ俺の服を手繰り寄せて掴んだ。
たどたどしく、か細い指が、しっかりと。
その瞬間、心臓が大きく突き上がる。
それだけのことがこんなにも大きな衝動を、掻き毟られるような感覚を残すことを、お前は知っているのだろうか?

名前、俺は今のそんなお前が、どうしようもなく嫌いだ。
俺を、選んだくれなかったお前が。
弱っている様をまざまざと見せつけるくせに、手を差し伸べる隙すら与えてはくれないお前が、嫌いだ。

「…たかちゃん」

俺は、そんな俺の気持ちも知らずにいつも勝手な振る舞いとやけに大人びた表情を浮かべるお前が嫌いで、大嫌いで、だけど泣き虫で良く笑うそんなお前が望むのなら、いつだって俺は、


「ひとりにしないで。置いていかないで」


お前の手を握る覚悟はできているから。
どこにも、いかないから。
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