何があった?

そう聞かれる度に答えが彷徨う。
本当は、たかちゃんが思っているような明確な理由なんてものがないからだ。
いや、正確には明確な理由があるにはある。
けれどそれを言葉として伝えられる自信がないということと、それを伝えてしまったならきっと、たかちゃんはもう私を探してはくれなくなるだろうから。
たかちゃんに見つけてもらえなくなってしまったなら、私はこの世界の何からも忘れ去られた存在になってしまう。
その恐怖が、言い知れぬ不安が、ひどく利己的な私を映し出しては自分のしたたかさを浮き彫りにしてゆく。
悲劇のヒロイン気取り、といつか言われた悪口はまさに核心の中の核心を突いていた。
そうだ、私は悲劇のヒロインをずっと演じ続けている。
たかちゃんがどれだけ私に苛立っても、私を嫌っても、必ず探し当ててくれることを分かっていながらこの逃避癖を繰り返すのだから、その辛辣な言葉に言い返せるものなどあるはずもなかった。

たかちゃんは優しい。
決して穏やかというわけではないけれど無愛想というわけでもないく、淡々としながらも色々なことに気が回る、そんないいところが少しだけ分かりにくい優しい男の子。
そんなたかちゃんとは対照的に、私はひどく悪い子だった。
私が色々なものをなくした日。
父親だった人、今まで呼ばれていた苗字、そして“たかちゃん”と彼を呼んでいた日々が簡単に掌からはらはらと零れ落ちていった。
そんな私を目の当たりにしていたたかちゃんはきっと、放っておけない、なんて思ってしまったのだろう。
だからあの日、私はたかちゃんに呪いをかけてしまった。
余裕のない心が、無意識に彼を縛ってしまったのだ。

寂しい、ひとりにしないで、置いていかないで。

そう、泣きじゃくれたならこんなにも歪で捩れた心にはなっていなかっただろうか。
その時の私は、そうやってみんな、私を置いてどこかへ行ってしまう、としか考えられなかった。
ただ呆然と置かれている状況を客観的に、まるで他人事のように眺めることで、私は自分の心を守ろうとした。
私の声にならない悲鳴を、ささくれてゆく想いを、人知れず消えてしまおうとしていた私を追いかけ、そして膝を抱え込んだ私に差し伸べられた手だけが、私の唯一だった。
だから私は、その手を取らなかった。
捨てたかったから。
今までの何もかもを、傷付いていると嘯く心を。
今その唯一のものを手にすれば、必ず訪れる喪失の時こそ私はきっと、呼吸することができなくなるだろう。
だから、その手を取らなかったのに。
あの日置き去りにしてどこかへ捨ててしまったはずのものを、たかちゃんは拾い上げた。
それこそが、私がたかちゃんにかけた呪い。
たかちゃんが、私を見捨てられない理由。
私の無意識の恐れが、たかちゃんを不自由にした。

私が執着していた家族と言うものがなくなってしまってからも時間は誰の上にも同じ長さで経過し、そして私も世界と同じだけの時間が流れた。
時間という薬は、どんな良薬よりも優秀だ。
季節が巡れば砕けるほどの痛手もとっくに癒えていたし、それに関して感じる痛みもほとんど感じてはいなかった。
田舎町特有の噂好きな性分に随分振り回され、嫌な思いもさせられたけれど、そんなものは過ぎてしまえば何も残らない。
どうせ、その時ばかり楽しければそれでいい、勝手な他人の道楽なのだ。
あの頃私を『捨てられた子』と面白おかしく騒ぎ立てていた人たちの、一体どれだけがそれについて覚えているだろうか。
そんな程度のことに痛む心は、あの日に全て捨ててしまった。
だけど彼だけが、たかちゃんだけが、私の捨てた一部を拾い上げてしまったせいで、今でも私が傷を負い続けていると思っている。

私が一番恐れているものを、知ることもないまま。

ねぇたかちゃん。
私ね、頑張っていれば、私が諦めなければ、いつかあの短かった幸福な家族の時間をもう一度、手に入れられるって信じてたの。
どれだけ説得をされても、これが3人のためなんだと懇願されても、私は一度だって家族がバラバラになることに首を縦には振らなかった。
だって、家族でいたかったから。
お父さんやお母さんの幸せよりも、私は自分の過去の輝きを追いかけていた。
そしたらね、お父さん、帰ってこなくなっちゃった。
必要なものだけを置いて、お母さんと私じゃない家族のところへ“帰って”しまった。
その時に気付いたの。
こうして人は掌の中に抱え込んだ大切なものを、まるで乾いた砂が指の隙間から流れ飛ぶように、どうしようもない力の働きの前では無力に奪われる他術を持たないのだと。
そうまで理解していながら、どうして私は、私だけが、閉じこもったこの場所から出ていくこともできないまま、大きく成長した背中ばかりを眺めてしまうのだろう。
それは、私がその背中に振り返ってほしいと願い続けているからだ。



「たかちゃん、私ね、もう傷付いてなんかないよ」

立ち止まり、隣り合う肩が少しだけ行き過ぎた頃、振り返る色素の薄い髪が風に揺れた。
何を言っているのか分からない、と言いたげな表情が些か面倒くさそうに見えるけれど、それでも彼が私の言葉を聞かないはずがない、といやらしい確信に嫌悪する。

「お父さんのことも、噂話を立てられたことももう平気なの。全然、何ともないの」

血がちゃんと通っているのかも怪しい冷たい指先を振り合わせて、にっこりと作り上げた笑顔を貼り付ける。
眉間に寄せられた皺が、細められた瞼が、射抜くような視線が、少しでも私を暴こうとしているようだった。
いつもそうだ。
たかちゃんがいつも、私を知ろうと当たり障りのないところからそろりそろりと近付いて来る。
だけど私は、それがとても恐かった。

「たかちゃんが思ってるほど、私は弱くはないから。だから、」

私は知られたくなんてないんだよ。
だってきっと、私が息の根が止まる瞬間はたかちゃん、あなたに心底軽蔑された時なのだから。

「もう、いいんだよ」

私に縛られなくても、いいんだよ。
それからたかちゃんは何を言うわけでもなく、少しだけ私より前を歩いていた。
私はその沈黙の居心地の悪さから逃げ出したくて、でもここで逃げてしまったならきっと同じことの繰り返しで、自分のものだという心地のない足を引きずりながらその背中を眺めていた。
固く目を閉じる。
瞼越しに映る色とりどりの思い出に、涙腺が刺激された。
でもまだだ。
まだ泣けない。
あの日から決して誰にも見せたことのないそれをただひたすらに堪えて、必死にしがみ付いていた私の唯一であり何よりの脅威から両手を離して、私も、たかちゃんも、自由になるのだ。
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