「マッキーおつかれー」
「おー」
「今日はずっと眠そうだったけど、寝不足?」
「まぁ、ちょっとな」
「マッキーも隅に置けないねぇ」
「何がだよ」
「幼馴染ちゃんのことでも考えてたんじゃないの?」

寝不足の頭に酸素を送るよう脳からの指示を忠実に守り、大きな欠伸を繰り返せば及川の思わぬ一撃に、中途半端にそれを飲み込んでしまった気持ち悪さに顔を歪めた。

「マッキーって実は結構分かりやすいよね」
「ほっとけ」

徹底的に避けていた割には、お互いにツメが甘いと言うか何と言うか。
高校をどうするか、なんて話をすることさえなくなっていた俺たちは、何の因果かお互いの合格でお互いの進学する先を知るという失態を犯した。
いや、そう感じていたのはきっと名前の方だろうけれど。
中学から同じ連中もちらほらいるけれど、高校に上がる頃には噂話も新しいネタが仕入れられる度に薄れていき、名前が槍玉に上げられることはなくなっていた。
何より受験や、新しい生活でみんながみんな自分のことで精一杯だったのだ。
随分皮肉な話だけれど、他人を面白可笑しく祭り立てて騒ぎ立てる余裕がなくなれば、そんなことがあったことさえも嵐の海が凪ぐようにぴたりと収まった。
それでも名前の俺に対する態度が変わることはなく、高校でも学校ではお互いに知らぬ存ぜぬを決め込んでいる。
そんな毎日は、もう4年目に突入していた。

「名前ちゃんだっけ?学校じゃ一緒にいるとこ見かけないよね」
「からかわれんのはとっくに経験済みだ」
「やっぱりそんなのあるんだ?」
「擦れ違っただけで口笛吹かれるからな」
「くだらなっ!」
「っつーか何で及川が知ってんの」
「ん?俺の人望の成せる業ってとこ?」
「あーはいはい、人気者ってのも大変なこって」

半分皮肉、半分本音でそう言えば、及川はカラカラと笑っていた。
本人の望んでいない余計なことまで聞かされるのだから、気の毒に思わないでもない。
ただこの男の場合は上手くやり過ごすだけの対人スキルがあるだけに、その話を一応頭に留めておいたと言うことはそれなりに気にしているということでもある。
そもそも隠し立てするつもりは毛頭なく、ただ言う必要がなかっただけだ。
入学したての頃ならまだしも、卒業に片足を突っ込んでいるこの時期になって知られたということは些か意外ではあったけれど。

「なーんか色々大変だったっぽいね。又聞きだから良く知らないけど」
「胡散臭い言い方するなよ。誰からかは知らねぇけど、がっつり聞いてんだろ」
「あ、誤解しないでよ?別に詮索とかするつもりもはないから。ただ、一応はまだ部員の健康管理も気にしなきゃいけない立場なんだよねぇ」
「以後気を付けマス」
「心がこもってないよ!」

元主将の言うことちゃんと聞いて!なんて自分の胸をバシバシと叩いて主張する及川は、不服を隠そうともせずに唇を尖らせ文句を並べる。
はいはい知ってる知ってる、と軽く頷けば普段は嫌味なくらいに整っている顔を随分悪辣な表情に変えて勢いよく振り向いた。

「ほんっとみんな俺の扱い悪いよね」
「どっちかっつーと俺はまだお前の悪ノリに乗っかる方だと思うけど」
「それでいつも俺が怒られるんだからひどい話だよ」

理不尽極まりないとばかりに不満げな及川の横顔に、「お前の場合はほとんど自業自得だけどな」と、ここに岩泉がいたならそう言いたかったであろう言葉を呟けば、更にげんなりと肩を落とした。
ひどい話、ねぇ。
本当に、ひどい話だ。
俺も名前も、知らない振りはできるくせに何も知らずにいることはできない。
だから名前はふらふらと姿を消すし、俺はそんな名前を探しに行くしかないのだ。
近いほど見えなくなる本心は、いつから隠すことばかり上手くなって素直に吐き出せなくなってしまったのだろうか。
いっそのこと、お互いにお互いがどうでもよくなれれば良かった。
そうすれば名前は抜け殻のように笑うこともなかったかもしれない。
俺も、そんな名前に苛立ちを覚えることもなかったかもしれない。
どこかで間違えた俺たちは、いつになれば正しい答えに辿り着けるのだろう。
中途半端に近くを漂いながらも、決してその内側を覗けない者同士で一体、これ以上何が残っているの言うのか。
何にもなれなかった残骸を掻き集めて両手いっぱいに溢れさせたところで、それはただの残骸の集まりにしかなれないように、俺たちが繰り返しているのはあまりにも不毛な弱さの押収でしかない。

「家族同士仲良くて子どもが幼馴染なんて、どこにでも転がってる面白味も何もない話だよな」
「え、なになに、急にどうしたの」
「ただあいつん家が家庭の事情ってのでちょっとゴタついてただけで、それも今時珍しいことじゃないだろ」

何年も重ねた俺たちの時間中で、引き起こった悲劇のようなそれは言葉として羅列されれば恐ろしいほどに“ただそれだけ”でしかなかった。
だから他人は、簡単に誰かの心を踏みにじれるのだろう。
そして俺もまた、名前にとっては他人なのだ。
自分を傷付ける誰か、そのうちのひとりにしかなれない俺はそこから離れることも近付くこともできないままだ。

「まぁ何て言うか、そういう話は出回るのが早いよね」

しかも尾ひれ付きまくってさ、と他人にとって“それだけのこと”が、名前に孤独を押し付けたことすら知っていそうな物言いで、及川は苦笑いで頷いた。

「昔から泣き虫ですぐ泣くくせに、ずっと泣き顔見てないのはひとりでコソコソ泣いてるからだ。帰って来てんのに電気点けない時は大抵そうで、次の日に目ぇ赤くしてんのに何もないって笑って受け流すのがイラつく。何でもない振りすんなら、行方不明なんかになるなって話だろ。俺が迎えに来ること分かってて嫌なことあったらふらふらどっか行くくせに、やっぱり何もないって笑うから俺は―――


俺は、あいつが嫌いなんだよ」


吐露する失態はあまりにも情けなく俺と及川の間を吹き抜けて行く。
些かの驚きを映した瞳を丸くさせ、普段は頼んでもいないのにベラベラと良く喋る男がぐっと言葉を飲み込む様子が手に取るように分かった。
ぶつけるべき相手は及川じゃない。
大体のことを上手く受け流せる及川すら困らせてしまった言葉に、「悪い」と取り消しを求めるように俯けば、「別に何も悪くはないでしょ」といつもどおりの軽快な口調が返る。

「それよりいいの?そんな話俺にしちゃって」
「言いふらして何かお前に得があんの?」
「まぁそうだけど。そこは『お前のこと信じてるから』とか言ってほしかったなぁ」
「それこそ胡散臭いわ」

ははは、と乾いた笑いは夜に溶けて滲んだ。
隣りでは「マッキー、それ結構ヒドイから」と今日は良く崩される顔が、波打ち際のようにすっと引いていく。
それは及川が少しばかり真面目に話し始める時の前触れだ。
口元に沿わされた指先が離れていくのを、ただかけられる言葉を待つように眺めた。


「言わなかったんじゃなくて、言えなかっただけかもしれないよ」


静かな夜道に繰り出された言葉は、あまりにも意外で、あまりにもらしくないものだった。

「追い詰められてる時ほど、助けてって言うのは勇気がいるからさ」
「知ったふうな口振りだな」
「まぁこれでも中学の頃はすごい焦ってた時期があったんだよ、俺にも」
「そりゃ意外っつーか何つーか」
「どんだけ頑張っても前にはウシワカがいて、それだけでも相当プレッシャー感じてたのに丁度トビオが入部して来た頃だったからさ、そりゃもう焦る焦る。周りは“まだ1年”なんて言ってたけど、俺には“1年なのに”って追い付かれる恐怖すら感じてたよ。俺が死ぬ気で掴んで来た2年間が、あいつの有り余る才能の前じゃちっぽけに見えた。参ってたんだよ、ホントに」
「そうか、同じ中学つってたな」
「たまったもんじゃないよ?あんなのが下にいるなんてさぁ。練習も全然上手くいかないし、練習でできないことが試合でできるはずもなくて、イラつく俺に何の気なしに近付いて来たトビオを思わず殴りそうになった」
「それもまた意外っつーか何つーか…」
「岩ちゃんが寸前で止めてくれたから未遂で済んだし、俺の場合は助けてって言う前に岩ちゃんの盛大な説教があったから振り切るとこまでは行かなかったけど、マッキーの幼馴染ちゃんはどうなんだろうね」

遠くを眺めるようにそう言い切れば、あとはまたいつもの及川の表情でニッと笑い「以上、及川さんにも実はちょっと情けない過去があったよっていう話でした」と軽く挙げられた両手が揺れる。

「お前こそ、そんな話して良かったのか?」
「俺はマッキーのこと信じてるからね」
「やっぱ胡散臭いわ」

今度はふたりで声高々に笑えば、その響きは止め処なく波紋を広げて行く。
試合以外で聞くには、まったくもって白々しい言葉だ。
それでも及川がおいそれと軽口で言う言葉ではないこともまた、俺は知っている。
恐らく岩泉しか知らなかったであろう“ちょっと情けない過去”とやらは、思いがけず踏み入れてしまった俺の心の内への通行料ということだろう。
誰にも見せたくはない己の醜態、お互いの首を絞め合う行為、確かにこれ以上ない口止めだった。
そんなことをしなくてもどちらも興味本位に言いふらすことはしないことをどこかで分かっていながら、そうせずにはいられなかったのは俺たちのちゃちなプライドのようだった。

「ここからは、無責任な他人の勝手な言い分として話半分で聞いてほしいんだけど」

慎重な前置きをして、珍しく人の表情を伺うような視線を向けた。

「さっきの話聞いてて多分、離れらんないふたりなんだろうなって思ったよ」

その言葉には何も、答えなかった。
いや、答えられなかったが正しい。
そのまま見上げた夜空には、ほっそりとした頼りなさげな月と一番星が打たれている。
名前は満月に近い形の月が嫌いだった。
そして、俺も。
それは名前が“苗字”ではなくなった、彼女が決して望まなかった時間の始まりを告げたあの夜と重なるからだ。
だから月がまだ育つ前のこんな夜はいつも、名前の部屋に明かりが灯されていることばかりを願っている。
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