家が隣同士、子供が同い年、そうなれば家族ぐるみの付き合いになるまでに時間はかからなかったらしく、事実俺の小さな頃の記憶にはいつも名前が存在していた。
まだ男だから女だからと気にする必要もない頃。
何をするにも一緒だった。
あの頃の名前は良く笑い、良く泣き、素直に自分の感情を出していた。
むしろ俺の方が人見知りや言葉足らずだったくらいだ。
お互いそれぞれに友達ができ、やりたいことができ、その中で別々の時間を過ごすことが多くなっても、俺たちはそこそこ仲良くやっていたしお互いが色々な意味で特別だったように思う。
どの友達とも違った距離感が心地よくてなまじ付き合いが長い分、気心は下手な同性の友達よりも知れていたのだろう。
あの頃は、これから先もずっとそんなふうにふたりで過ごしていけるのだと思っていた。
当たり前に、どちらかが部屋の窓を開ければもう片方も窓を開け、とりとめのないことを話して笑っていた頃のまま、ずっと。
そんな平穏な毎日の風向きが変わったのは、俺たちが小学生の頃だった。
隣から良く大人の怒鳴り合う声が聞こえ始め、そして名前の泣き声が響くようになった。
幼いながらに、何か良くないことが起こっていることは何となく察していて、心配だった俺は暑くても寒くても毎日毎日部屋の窓を開け、いつでも名前が逃げて来られるようにしていた。
目を赤く腫らした名前はいつもその窓から、「たかちゃん、どうしてみんな喧嘩するのかな」と今の俺にだって上手く答えられない言葉を何度も呟いていては、はらはらと涙を零して顔を俯けるのだ。
そんな日々が1年ほど続くと、今度は名前がうちに預けられる機会が多くなった。
後から聞いた話しだとあまりにひどい様子を見兼ねた母さんが、名前を心配して大がかりな喧嘩の間は引き取っていたらしい。
まだ小さかった俺たちは隣りから聞こえる大声や物音にビクビクしながらも、ふたりで寄り添っていられればひどく安心していられた。
むしろいつもなら「そろそろバイバイの時間だよ」と引き離されるはずの夜になっても、一緒に夕飯を食べたり、一緒にテレビを見たりできることが、まるで遠足のような気分で楽しかったのかもしれない。
でも時々洒落にならない言葉が金切声と共に飛んで来た時には、名前は小さな身体を震わせながら背中を丸めて泣いていた。
ひどく怯えるように。
母さんが「大丈夫、大丈夫だからね」と名前の背中を撫でているのを見て、俺も真似をして名前の頭を何度も撫でた。
それでも名前の父親と母親の言い争いが止むことはなく、激しい物音に父さんが名前の家に駆け込むことも多くなっていた俺たちが小学校を卒業する頃には、名前の家はとても“家族”と呼べるものではなくなっていた。
こんなにも心を擦り減らしているというのに、名前は母親のことも父親のことも大好きだと言い、「たかちゃん、私どっちかなんて選べないよ」と膝に顔を埋めて泣いていたのを良く覚えている。
その頃には既に、名前の家では離婚の二文字が当たり前のように飛び交っていたのだろう。
けれど名前がどちらも選べない気持ちは、誰よりも俺が知っていた。
夫婦としてはとっくに破綻していてもおばさんは名前をとても大切にしていたし、おじさんは名前をとても可愛がっていたからだ。
おばさんの焼いてくれるホットケーキを、名前と2人切り分けて食べるのが好きだった。
おじさんの面白可笑しい話を、名前と大笑いしながら聞くのが好きだった。
ふたりともとても良い人だということを俺は知っていたからこそ、どちらかを選ぶなんてことが名前にとってどれだけ身を切られる想いだっただかも分かっていた。
ほとんど毎日聞こえて来る“大人の事情”は、色々な言葉の意味を理解できるようになっていた俺たちには、あまりにも生々しいものだった。
気付けば俺たちはそれこそ年頃と呼ばれる年齢に足を入れかけていて、いつまでも名前をうちで預かることもできなくなり始めた頃、確か中学3年になった時期だったと思う。

初めて名前が行方を眩ませた。

何か事件に巻き込まれていたら、と俺の家族もひどく心配して探し回っていたけれど、そこで感じる違和感に名前が何故誰に何も言わずどこかへ行ってしまったのか、その理由を何となく察した。
名前を探していたのが俺の家族と、おばさんだけだったからだ。
胸騒ぎが一層激しくなって、近所中を探し回り町はずれの公園でようやく名前を見つけた時には、いつもの姿はどこにもなくなっていた。
淡々とした表情で、ただぼんやりと空気を眺める横顔に恐怖が巡ったほど、その様子はあまりに年相応ではなく、異様とすら感じた。

「苗字」

あの頃は男女で幼馴染、名前で呼び合うなんてからかわれる恰好の種だった。
俺は名前のことを余所余所しく苗字で呼んでいて、名前はいつも居心地悪そうに振り返っていたけれど、その時は決して振り返らなかった。
何度呼んでも、一度も。

「名前」

久しぶりに唇に名前を乗せれば、ようやく振り返る横顔は薄っすらと笑みすら浮かべていた。
その表情はあまりに健気で、惨めで、不気味だった。

「何があった?」

初めて行方を眩ませた名前を、初めて走り回って探し当て、そして初めてその問いかけを向ける。
少し何かを考えるように視線を上げ、一度堅く瞳を閉じた後に向けられた瞳は漆黒の闇で覆われ、この世界には何も美しいものはないとでも言うように口角だけを上げて「ねぇ、たかちゃん」と俺を呼んだ。

「お父さん、出てったの。学校から帰って来たら荷物なくなってて、テーブルの上に離婚届があったんだ。もう帰って来ないと思う。多分会うこともないかな。携帯もかけてみたんだけど番号変わってた。お父さん、もう新しい家族がいるんだって」

だから私ね、“苗字”じゃなくなったの。
瞼を伏せて囁く声はどこにも感情は宿っていなくて、ただ目の前にある教科書を読み上げているように淡々と、他人事のように伝えられる。
何も返事ができなかった。
言葉にならない声で喚くように泣いてくれたなら、昔のようにその柔らかな髪を何度も撫で、背中を撫で、俺がいることを教えられたのに。
まるで誰の手助けも、誰の励ましも必要ないとでも言うように、完璧に何もかもを閉ざした様を見せつけた名前に、俺はそれ以上近付くことも声をかけることもできないまま、ただふたり、初めて人ひとり分の距離を開けて歩いて帰った。

何があった?

その問いかけにきちんとした答えが向けられた最初で最後の瞬間は、名前が俺を初めて拒絶した瞬間でもあり、俺が“名前”と再び呼び始めた瞬間でもあった。
その代わり、どれだけ俺が苗字で呼んでも、どれだけやめろと言っても頑なに“たかちゃん”と呼ぶことをやめなかった名前が“花巻くん”と余所余所しく呼ぶようになった。
そして学校では話しかけることも、話しかけられることも許さないとばかりに冷めた雰囲気を滲ませ、徹底的に俺を避けた。
田舎町は噂話が瞬く間に広がる。
痴情の縺れ、なんてものはまさしく他人事ならこれほど美味しい話題はないとでも言うように、名前は好奇の視線に晒されしばらく噂話の槍玉に上げられたのだ。
だからこそ、名前は俺を避けるようになったのだろう。
誰もいないところでは無理に避けることはなかったけれど、誰かの声が遠くから響くと途端に名前の顔から表情は消え、素っ気ない態度ですっと隣りを通り過ぎてしまう背中を何度も見送った。
見送るたびに、遠くなる。
繰り返し繰り返し遠くなり、言えない言葉が巡り続ける。
名前が初めて行方不明になった日、名前の苗字が変わった日、俺が再び“名前”と呼び始めた日、名前が俺を“花巻くん”と呼び始めた日、名前が泣かなくなった日、名前が我が儘を言わなくなった日、俺と名前が遠ざかった日。
あの日の夜空は、青白く丸々と太った満月が煌々と輝く虚しい夜だった。



「私、月が綺麗な日が嫌いだなぁ」
「そうだな。大体そういう日にいなくなるよ、お前は」
「だって、覗かれてるみたいでしょ。捻じれて歪んだ心が全部見透かされてるみたいに照らされるから、勝手に傷付いてる気分になるよ」

それは、今もまだお前が傷付き続けている証拠じゃないか。
それさえも素直に吐き出させてやれない俺が、閉じこもったままその場で膝を抱えている名前に、どうして手を差し伸べられると言うのだろうか。
分からない。
思いつかない。
その場所から名前を攫う方法なんて、何ひとつ。
無力な自分を正当化するために、俺は今の名前を否定した。
呪うべきなのは、名前じゃない。
名前を嫌うことでしか何もできない自分への言い訳すらできない、俺の方だ。
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