抱き締めた身体は思っていたよりもずっと細くて、扱いを間違えれば折れてしまいそうなほどのそれに、一体どれだけ我慢を繰り返して来たのだろうかと思う。
言葉にすれば単純で、誰かに言えば『それだけ?』と言われてしまいそうなことでも、俺たちにとってはそれがとてつもなく深い谷底のようで、聳え立つ壁のようで、近付けば離れ、離れれば近付き、途方もなくそんなことばかりを繰り返してしまっていた。
だけど今、名前は自分で確かに扉を開けてたのだ。
そして、外から伸ばした俺の手を取り自分で立ち上がった。
いつもどうやってそこから攫うのかばかりを考えていたけれど、そうじゃなかった。
名前が、自分で自分を認め、その足でそこから出なければ結局堂々巡りだったのだ。
だから俺は、自力で抜け出した名前をしっかり受け止められればそれで良かった。
ここにいることを、どこにもいかないことを、拙い言葉で紡がれた願いに対するその答え示し続けるだけで良かった。
それだけで、良かったのだ。



「お前の泣き顔見るのも久しぶりだよな」
「…どうせ不細工ですよ」
「や、ちっさい頃と何も変わってないもんだと思って。こう、顔をくしゃって潰したみたいな」
「う、うるさいなぁ!」

よっぽど恥ずかしかったのか、耳まで真っ赤にして反論をするけれど、それでも繋がれている手が離れることはない喜びが、徐々に現実味を帯び始める。
もう「何でもないよ。ただ何となく」なんて言葉を聞くことは、きっとない。
だったら、と「なぁ」と一声かければ、重たげな瞼を開けて赤い目が俺を見た。


「何があった?」


幾度となくやり過ごされた問いかけを、もう一度。
どうして今日に限って、お前が俺にその心の内を見せたのかの理由はまだ、聞けていなかった。
恐らく名前も、その問いかけがいつもの形式ばったものではなくいつもと違ったことを指しているのだと気付いたのだろう。
些か居心地の悪そうに少し表情を歪め、「それは、」と何度か繰り返した。

「お、女の子と、」
「うん?」
「ふたりでコソコソしてるの、窓から見ちゃって、その、」

覗くつもりなんてなかったんだよ、と慌てて並べられる弁解に、あぁあのことかと今日あった出来事を思い返した。

「悪趣味」
「ふ、不可抗力です!」
「そんで?俺がその子と付き合ってたら…とか思ってたんだ?」
「思ったよ。だってたかちゃん普通にモテるんだもん」
「そうか?及川のがよっぽどだぞ」
「及川くん基準なのがそもそも間違ってるんだってば」

分かってないとでも言うように、呆れたふうに数回首を横に振り、溜息すら漏らされる始末に思わず苦笑いを浮かべる。
それもそうか、と及川の尋常ではない呼び出されっぷりや、下駄箱に入れられている手紙の数を思い浮かべると、「そうだよ」と名前も遠慮がちに笑った。
それでもまだそわどわと、落ち着かない様子を見せて何度も俺の顔を見ては反らし、見ては反らし、ようやくじっと目を見たかと思うと今度はじりじりとこちらににじり寄りながら、睨むような視線を向けた。

「あの女の子は、たかちゃんの彼女じゃないんだよね?」
「だから違うって。何、安心した?」

確認をするような、違うよね?と肯定を求める名前に、少しばかり意地悪を含んだ言葉を選び、ニヤリと口角を上げて挑発するようにその赤い目を覗き込む。
拗ねるか、はたまた困って目を反らすか。
そのどちらかと踏んでいた名前の反応は、俺の予想を大きく外して長い睫毛を伏せ「したよ」と何度目かになる涙を見せた。
じわりとせめいでくるそれが溢れ出そうとする前にそっと親指のはらで心の目尻に触れ、
滑る指先が心の体温を滲ませた涙を掬う。
無防備にその指先を受け入れる名前は、俺の手に擦り寄った。
何度も、何度も、それが俺のものかどうかを確かめるように、何度も、何度も。
顔は泣きはらしたせいでぐずぐずで、決して可愛いとは言い難いであろうその姿ですら綺麗に見える理由も、今まで何ひとつ放っておけなかった理由も、俺たちが遠ざけて知らない振りをして目を背けていたものが正体なのだ。
だから、と名前の頬に触れている掌をその顔に沿わせた。

「なぁ、名前。随分遠回りしたけど、今ここにいる俺たちは同じところに立ってるよな?」
「うん」
「じゃ、一緒に始めよーぜ」

表情で「何を?」と尋ねる名前の瞳をじっと見返し、ふと笑みを零す。
お前が俺に置いていかないでくれと願ったなら、それはまた俺も同じことだ。
俺もお前に置いていかれたくなかった。
ひとり、大人びた表情で何もないように振る舞うお前が嫌いだったのは、そんな子どもじみた理由だったのだろう。
ひとりで先に行こうとするなよ。
俺たちずっと、一緒だったろ。
置いて行かれるのを恐がっていたのはきっと、俺の方だ。

「こうやって手ぇ繋いで、ふたりの手が届くところまでしか離れないでいられたら、置いてくことも置いてかれることもないだろ?」
「それが、これからの私たち?」
「そっ。でもそれだとただの幼馴染じゃ色々面倒だからさ、新しい関係になってみませんかってこと」

誰に何を言われたって、まどろっこしい理由なくお前の隣りにいられるように。

「俺を、お前の彼氏にしてよ」

堂々と、お前の手を握れる俺でいられるように。

「じゃぁ、私をたかちゃんの彼女にしてくれる?」
「その“たかちゃん”から卒業してくれたらなー」
「そこは素直に頷いてくれたらそれで話が済むんじゃ…」
「それじゃいつまで経っても幼馴染って感じじゃん」

残されたただひとつの呼び方の示唆を察したであろう名前は照れ臭そうに視線を泳がし、そして上目がちに俺を見る。
俺に言わせればよっぽど“たかちゃん”の方が恥ずかしい呼び方のような気がするけれど、慣れというのは根強いらしい。
しばらく己との葛藤を見せながらようやく決心が付いたのか、唇を堅く結び暗がりでも分かるほど頬を染めて俺を呼んだ。

「たか、ひろ」
「うん」
「貴大」
「ん」

そこそこ長い付き合いの中、初めて呼ばれる自分の本当の名前は、ひどく貴く柔らかな響きとなって心地良く届く。

「咄嗟に呼べる気がしない…」
「まぁ、それもいつか慣れるって」
「…いつか?」
「そう、いつか。そん時は俺たちどうなってんのかねぇ」
「どれだけ何かが変わっても、ふたり一緒だったらそれでいいよ」

塞ぎ込んでいた反動は思いがけない大きさで襲ってくる。
随分すんなり零される言葉の素直さには、驚かされるばかりだ。
あれだけ頑なに沈黙を守り続けていたとは思えない様子に、伸び伸びと感情をころころと彩る名前の本来の姿を見る。
幼い頃の良く笑い、良く泣き、そして俺を呼ぶその懐かしい姿を色濃く残して。

「慣れない慣れない言ってる内に、同じ苗字になったりしてな」
「それはいくら何でも気が早いよ」

呆れた声でそう苦言を呈した名前に、「だよなぁ」と鼻先で笑う。

「でも冗談、とは言わない」
「うん、言わないで」

不明瞭な未来の中、そうなればいいと思っていることは紛れもなく本当で、それを誰に笑われても夢見がちだと馬鹿にされても、俺はそれを逆に笑い飛ばしてやろうと思うくらいには信じているのだ。
想いを絞り出すようにして、俺たちが今できる精一杯で立てたちっぽけな誓いを。
いつもは寒くなるこの億劫な季節は、始まりを告げた季節となる。
例え置かれた環境から攫い出す力がないとしても、隣りで寄り添うことができるならひとりでは見ることさえできなかった未来の形を十分に願えるだろう。
明日もこの手を繋いでいよう。
明日も隣りを歩いて行こう。

ひとりにしない、置いていかない。

掌の中に閉じ込めたこの真冬の温もりに、俺も誓うから。
だからお前も、目を反らさずにいてくれるといい。
そんな単純なことをお前とふたり繰り返しながら、続いているこの夜道のようにゆっくり歩いて行こう。
そうすれば今度こそ、離れられないふたりになれる気がするから。
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