花霞 | ナノ



≪Tuesday 08:25≫

朝練が終わり、教室に向かう廊下の途中。
お前すっげー寝癖だぞ、と前から聞こえた馬鹿笑いに顔を上げると、「う、うるさい!寝坊しちゃったの!」と非難の声が届いた。
ヤックが夢中でからかっている横を何気なく通り過ぎようとすれば、必死に髪を抑えて抗議する女子とわずかに目が合う。
すぐに露骨な素早さで反らされたそれを、わざわざ気にすることもなく教室の扉に指先をかけると、「いやー苗字サンその頭超ロックっすわー、斬新っすわー」といまだからかい続けるヤックの口跡に思わず手を止めた。

苗字…?

その響きを頼りにもう一度騒がしい先へ視線を投げれば、居たたまれない様子で身体を小さく丸めた姿が映る。
あいつが、と思った時、見計らったかのようにホームルーム開始のチャイムが鳴り響いた。
慌てて教室に駆け込む人の流れのまま、俺も、彼女も、自分の行くべき場所に足を進めたため、結局声をかけるには至らない。
いや、声をかける必要ももはやないのだけれど。
付箋に記した返事は、きちんと届いていただろうか。



≪Wednesday 11:35≫

ようやく顔と名前が一致して振り返ってみれば、何度か見かけたことはあったなと思い出す。
とりわけ珍しい苗字でもないけれど、何か聞き覚えがあると思えばヤックの世間話で時々耳にしていたからだろう。
何気ない景色を見渡してみると、隣りのクラスという比較的近い位置関係も相まって廊下を通り過ぎる姿や、友人と立ち話をしている様子を昨日と今日だけで数回目にしていた。
そして明らかに避けられていることには、さっき気が付いた。
ヤックが俺に教科書の貸し出しを申し出た時、隣りにいたはずの彼女は気配を消すようにそろりとその場を去ったのだ。
直接的な接触は一度もない。
やりとりは、付箋に残した短い文字の羅列のみ。
自分の性格が人に好かれるタイプではないことは分かっているが、あれだけのことで気に障ることをしてしまうほど破綻した人間でもないとは思っている。
それでも遠くにいながら、他人より少し頭の飛び出た俺を見付けるなり姿を隠され続ければ、彼女に対して何かしら失態を犯してしまったのだろう。
だからと言って今更、気にすることでもないのだけれど。



≪Thursday PM3:25≫

練習着に着替えていると、乱暴に部室の扉が開かれる。
姿を確認せずとも分かる相手は、「見事な避けられっぷりだな」と俺の肩に手を置いた。

「何か気に障ることでもしたんだろうよ」
「違う違う。ありゃあいつの病気だ」

主語がないまま話がスムーズに進むのは、部活以外の事柄でお互いを繋ぐ話題が今はそれくらいしかないからだろう。
面白半分と言いたげに絡んできたくせに、“お前は悪くない”とも取れる言い分にボタンを外す手を止めた。
基本的に俺のことは気に入らないであろうヤックが、そんなふうに擁護とも取れる言葉を口にするのは珍しかった。
取り立てて関わりのない相手だ。
多分それは、これからも変わらない。
チームメイトと親しい人間だからと言って、俺の生活に作用する立場にはならないのだから。
特に深く聞くつもりもなく、「どんな病気だよ」と奇妙な例えに対して差し障りのない返事をする。

「気まずいんだとよ」
「は?」
「ほら、お前何か紙置いてったろ。変に関わりができた分、顔合わせた時にどんな態度取ったらいいか分かんねーとか言ってたわ」

ボタンを外す作業を再開しつつ、全く共感できないながらも一応「へぇ」と応える。
シャツを脱ぎ、Tシャツに袖を通した頃、「あー今の話な、別に苗字から言ってきたわけじゃねーから」と取り繕う声色でヤックがロッカーを開けた。
そこに対して何かを思っていたわけでもなく、むしろ言われて初めてどうしてヤックがあの密かなやりとりを知っていたのかの疑問が過ったくらいだ。
相変わらず見た目や粗暴さとは似つかわしくない、細やかな観点には感心する。

「ちょろちょろしてウゼーから、俺が吐かせた」
「別に。どっちでも興味ねーよ」
「あっそ」

誰かに知られて困るやりとりでもなかったのだから、妙に気にされても困る、とすらその話を聞いた今でも思っている。
多分ヤック自身も、わざわざ伝える必要性は感じていなかっただろう。
お互い部活以外で関わるつもりはないものの、どちらも部活に重きを置く人間だ。
チームプレイをしている以上、普段の学校生活よりある意味人間性は良く見える。
それでも一応執り成すことを選んだのは、ヤックが苗字という人間を熟知している現れであり、ヤックにとってその関わりがどうでも良いものではないことも同時に示していた。

「お前も気まずいとか思ったりすんの?」
「苗字にか?」
「おー」
「ねーよ。気まずくなる要素がまずない」
「だよな!やっぱコミュ障なんじゃねーか、あいつ」

それかお前の無愛想がこえーとか?
一通り着替えを終え、荷物をロッカーに仕舞っているとそんな意見が飛んで来る。

「ヤックと話せてる時点でそれはないだろ」
「あん?」
「恐がられるなら俺よりお前の方だってことだよ」
「うっせーよ」

俺が言ったのはあくまで一般的な意見であって、それが苗字に通ずるかは知らない。
それを分かるほど、俺は彼女のことを何も知らないからだ。
むしろヤックとの仲を見る限り、当てはまらないのだろうとは思う。
取り持たない、といつか豪語していたくせに、結局世話を焼いているのだから、そういう星の下に生まれたというのはこういうことを言うのだろうか。

「ヤック、進路考えてんなら保育士目指せよ」
「は?何でだよ」
「世話焼きにはお似合いだぜ」
「うっせーよ!」



≪Friday 12:56≫

昼食を終えれば、いつもそのまま机にうつ伏せて睡眠を補給する。
休み時間は貴重なもので、特に俺たちのように部活中心の生活をしていると、この時間は足りない睡眠時間を補うために必須なのだ。
微睡みながらふと、窓の外に瞳を向ける。
あんなに咲き誇っていた桜も、今では新緑の台頭で肩身の狭そうな位置付けに迫られているようだった。
もう二、三日もすれば、その花も全て散ってしまうのだろう。
最後の春が遠退いていく。
そう思うと何となく、体育館近くのそれも見納めになるのかと思った。
心地良い転寝を押してまでする必要はないと思いつつも、気付けば教室を後にし、その足で階段を下って行く。
特別感傷に浸る性質ではないけれど、何もかも終わりになっていくのだと気付くと、何故かそうせずにはいられなかった。
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