≪After one week:Monday 14:13≫ 人の机の中に我が物顔で佇んでいたノートを持ち主の下に戻してから一週間、今となってはあのイレギュラーもとうに記憶の片隅に追いやられていた。 珍しくドジ踏まなかったのな、と随分失礼な物言いが翌日飛んで来たので、無事本人の手元に届いたことを知った。 そんな些細な出来事が私の積み重ねた平凡な日常を揺るがす、なんてことがあるはずもなく、思いがけず降りかかった不規則は何ら私に影響を与えはしない。 同じ毎日の繰り返し。 移動を面倒臭がるヤックをせっついて選択授業を受け、また帰るのを面倒臭がる巨体のお尻を叩いて自分たちの教室を目指す帰り道。 そんな当たり前の日常の中、廊下の窓から覗く花吹雪に足を止めた。 「桜も終わっちゃうねー」 ちらほらと見え隠れする新緑の芽吹きに寂しさを滲ませれば、「そろそろ毛虫が落ちて来るから気を付けろよ」なんて情緒もへったくれもない返事に肩を落とす。 あのねぇ、と噛み付こうとした時、揺れるように動いた人影に声を止めた。 「まーたひとり撃沈すんのか。っつーか短い休み時間に良くやるぜ」 「モテるんだね」 「何だよ、気になんのか?」 「まさか。最近あそこに人いるの、良く見かけるなぁって思っただけ」 「まぁ、そういう時期ってこった」 「全部が最後になっていっちゃうもんね。みんな一生懸命だ」 これじゃまるで覗き見だな、と身を乗り出していた窓枠から慌てて踵を返した。 白石くんと女の子。 綺麗な景色の中で行われているやりとりが分からないほど鈍くはなくて、噛み合っていた会話からヤックも同じことを考えていたのだと知る。 あいつの首に毛虫落ちねーかな、なんて他人事よろしく悪戯の妄想に華を咲かせる様子に、「あのねぇ…」とさっき声になるはずだった言葉やようやく口を突いた。 離れた位置からではあったものの、あんなにまじまじと白石くんを見たのは初めてだったように思う。 たったあれっぽっちの情報でも、整った顔立ちと凛とした芯の強さを感じるのだから、秘めた想いを抱いた女の子はきっとたくさんいるのだろう。 改めて思うのは、あの時顔を合わせなくて良かったということ。 うっかりコロっといってしまう、なんてことを心配しているのではなく、ああいう類の感情を持っている女の子が数多くいる相手というのは、厄介事が付き物なのだ。 大した関わりのない私が飛び込みで面会をしていたらと思うと、今は少しばかり背筋が凍る。 適当な会話を交わしながら戻って来た教室で、ヤックはいつか見たそのままの光景を再現し、まだ戻らない隣人の席へ勝手に腰を降ろした。 私も抱えている教科書を仕舞おうとして上体を屈めれば、机の端にひらりと揺れる気配に瞼を細める。 見覚えのある付箋には、確かに私が書き残したメッセージとそれに対する返事が記されている。 まさか、と思い何度か瞬きを繰り返してみるものの、やっぱりそこには私以外の誰かが書き込んだ痕跡がありありと残っていた。 名前こそないものの、その字面は見覚えがある。 まるで教科書の文字のように整った隙のない字。 シャーペンで書かれたそれは、芯独特の光沢を放っていた。 「そういやよぉ」 「えっ!?」 「…何慌ててんだ?」 「ううん!何でもない!」 思わずそれを引っぺがし、掌の中に隠してしまった。 別にやましいことではないけれど、何となくヤックに見つかってはならない気がしたからだ。 咄嗟の行動に一番驚いているのは私自身で、冷や汗が背中を伝う。 「どうかしたの?」 「いや、白石がさ。ここの桜とさっきんとこの桜の色が違うつってたんだけど、お前分かる?」 “白石”という言葉の響きだけで跳ね上がりそうになる肩を何とか堪えて、ヤックが続けた言葉の答えを探る。 色が、違う。 すぐそこでいまだ懸命に咲き誇る花を眺め、「こっちの方がちょっと薄いかなぁ」と自信なく呟けば、「マジで?」と頬杖をついた偉そうな姿勢を崩した。 「や、何となくだよ。自信ない」 「あいつも同じこと言ってたぜ。何なのお前ら、その席になったらそんな特技に目覚めんのかよ」 口こそ悪いものの、声色や態度には些かの感心が込められていて、「俺はわっかんねーわ」とヤックが首を捻る。 ああ、もう、びっくりした。 色々なことが、一度に起こりすぎた。 顔と名前、あとはヤックと同じバスケ部で、とてもバスケが上手な人という認識しかなかったのに、律儀に返された返事付きの付箋と人づてに知ったその感性に胸がざわざわとしている。 困ったなぁ、というのが正直な感想だ。 面と向かってのやりとりをすっ飛ばし、それでも確かに言葉を交わしてしまった手前、偶然鉢合わせた時に一体どうしたら良いものか。 それからはヤックの話に何となく頷くばかりで、どんな話をしていたのか、何を言っていたのか、全く頭に入ってはこなかった。 ≪Friday 12:52≫ それからと言うもの、私の耳は敏感に“白石”という言葉を掬い上げ、目は背の高い相手を見付けると泳ぐ始末だ。 はっきりと本人を見つけてしまった暁には、こっそりフェードアウトを繰り返してエンカウンを避けるようにコソコソとしている。 そんなあからさまな怪しい態度にヤックも訝しさを抱いたらしく、あの日私が咄嗟に隠してしまった付箋の出来事を吐かされてしまった。 ヤックにしてみれば、「は?お前コミュ障かよ」の一言で済んでしまうらしい。 まったくデリカシーの欠片もない上に、細やかな配慮に欠けた男だ。 そんなこと、言われるまでもなく分かっている。 私のこの行動の全てがただの自意識過剰であり、独りよがりであることくらい重々承知している。 だからと言って、出会い頭に一体どんな顔をしてどんな態度で挑めばいいかの答えが見つからないのだから仕方がない。 別に普通でいいんじゃねーの、とこれっぽっちも参考にならない意見が更に私を困惑に突き落とした。 「ヤックはもう少し、繊細さを学ぶべきだと思う」 「お前のはただのヘタレだろうが」 飾ることを知らない男の意見は、時として非常に真っ当で言い訳のしようもないほど鋭く切り込んでくる。 まったくもってその通りです。 だけどもう少しオブラートに包んでくれても良いんじゃないですかね? そんな恨み言を零しながら、自分の席から立ち上がった。 「ちょっと頭冷やして来る」 すっかり新緑に飲み込まれた窓を背にして、足元のおぼつかない様子に流石のヤックも「大丈夫かよ」と漏らし、他の友人たちも「保健室行く?」と手を差し伸べてくれるほどだ。 けれど気分が悪いわけでもなく、ましてや体調不良でもないので、「大丈夫」を幾度も繰り返して教室の扉を閉めた。 長い昼休みを利用して、気分転換を図るために階段を下りる。 外の空気でも吸えば、少しは落ち着けるだろう。 小さな深呼吸をひとつ行い、タンタンタンとリズムを刻む。 今まさに、些細な出来事が私の積み重ねた平凡な日常を揺るがしていた。 |