「もう、ここには来れない」 気が向いた時にかどうかは知らないけれど、時折姿を見せるこの男が格別変わったことを言ったのは今日二度目のことだった。 一度目は私の作るトマトソースパスタが食べたい、と言った時。 もともとトマトソースパスタが好物だというのは、何度も聞いた話だ。 けれど度々私の手料理を平らげるこの男に、それを作って出したことは一度もなかった。 ただのトマトソースパスタが好きというわけではなく、何より大事に思っている“弟が作るトマトソースパスタ”が好きなのだから、それを私が作ったところで好物にはならない。 実際何が食べたいのかと尋ねてみても、一度だってそれを求められたことはなかったのに、今日に限ってこの男は「君の作るトマトソースパスタも、一度食っておきたいんだ」と眉を下げて言ったのだ。 それを作れるだけのトマトのストックがなく、わざわざ買いに出向いてまで作ったものを口に運ぶと「やっぱり味は違うもんだな」と笑った。 「それは悪かったわね」 「ルドガーの作ったものとは違うが、もちろん美味いさ。こんなことならもっと食っておくべきだったかな」 「大袈裟よ。そのくらいいつだって、」 カラン、と中身のなくなった皿にフォークが置かれ、私の声が途切れた。 そしてようやく何かがおかしいと気付いた私にユリウスは静かに唇を動かし、淡々と今日で最後なのだと告げる。 それがこの男が格別変わったことを言った、二度目のことだった。 「困るじゃない。トマト、沢山買っちゃったのに」 「君ならすぐに良い男が釣れるさ。まんまと胃袋を掴まれた俺が言うんだ、説得力があるだろう?」 「残念。次に好きになる人はトマト嫌いの予定なの」 そして私を置いては行かない人よ、と付け足せば逆光で光る眼鏡が彼の表情を教えてはくれなかった。 「幸せになってくれ」 三度目の格別変わったことを言い残し、部屋を後にした男は知っていただろうか。 本当は、私がトマト嫌いなことを。 いつ訪ねてくるかも分からない待ち人のために、それを絶えず置いていたことを。 これからひとり、買い溜めてしまった嫌いなものを食べ続けなければならないことを。 これからもキッチンには、熟れた赤いそれが置かれ続けることを。 「その言い方じゃまるで、今まで幸せじゃなかったみたいじゃない」 私が、確かに幸せであったことを。 (140413) |