誰もいない静かな教室が物語る外の景色を耳と肌で感じながら、椅子に座ったままの男と手首を握られたままの女がふたり。 甘酸っぱさも温かさも存在しない空間で確か私たちは、とりとめのない世間話にそこそこ花を咲かせ、それなりに笑い合い、尽きた話題に自然と帰宅を促す雰囲気が漂う中に彷徨っていたはずだった。 そろそろ帰るね、と先手を打ったのは私。 ダメ、と濁りのない拒否を示したのは及川。 「ダメだよ、帰っちゃ」 「及川…?」 「帰らないで」 さっきまで意気揚々と話題を提供していた唇が震えているような気がした。 微かに漏らされる掠れた声はそう懇願し、そして私の手首を強く握ったまま離さない。 そのくせ“どうしたの?”と尋ねることを許さない姿勢に、「及川、」と私はただ彼の名を呼ぶことしかできずにいる。 「ここにいてよ、お願いだから」 私の知る及川徹という男は、こと甘えるという点において他の追随を許さない才能を持っている。 そしてそんな彼を甘やかしたい、甘えさせたいと願う女の子は見渡せばそこら中に存在していて彼にはその匂いを的確に嗅ぎ分ける能力が備わっているはずだ。 必要に応じて甘える代わりに、女の子には甘やかすという贅沢を与える。 そんな男が今、私に何かを見せようとしていた。 甘えでもなく、弱さでもなく、苦しみでもなく、痛みでもない。 複雑に織り交ざった感情の一端を私に、私だけに、開いて晒している。 「雨、強くなってきたね」 「うん」 「及川は傘持って来た?」 「天気予報見てなかったんだよ」 「私も」 「じゃぁ、帰れないね」 「うん、帰れない。及川も、私も、帰れないよ」 掴まれたままの腕を翻し私もまた、しっかりと逞しい“男”を感じるその手首を手繰り寄せた。 窓と壁を隔てた廊下から誰かの話し声が届くけれど、及川も私もお互いの存在だけをただ握りしめながらこのボタンの掛け違った世界の中、呼吸を繰り返しては湿った酸素を身体へ招き入れる。 他人の笑う声、足音、正しい宇宙への扉はすぐそこにあるはずなのに、堅く隔絶された狭く息苦しい世界を選んだのだ。 この冷たく尖った世界に、及川をひとりにしてはいけない。 劈く音が更にふたりを隔離する。 雨はまだやまない。 しとしとと全ての音を奪いながら降り続ける。 私を、ひとりにしないために。 (131106) |