「またかよ」

呆れを通り越していっそ感心しているような物言いで、「そこまでいったら才能だな」と刺した。
いつまでこんなことを続けるつもりだ、と暗に仄めかす言い分は、誰かと繋がっていなくては自分の形を保てない私のことを遠慮なく侮蔑する。
誰かの所有物になり、もういらない、と置き去りにされ続ける私が、そこかしこで何と呼ばれているかは鎌先も知っているだろう。
頭の軽いバカ女。
真面目に関わろうと思う人間がいかに殊勝かは、考えるまでもない。
陰で囁き軽蔑に嗤う方がよっぽど真っ当だ。
分かっている。
これが愚行でしかないことを。
分かっていながら繰り返すのは自信のなさの表れで、断らないのはそうすることで初めて私の輪郭が象られる気がするからだ。
誰かの指が私をなぞる。
その行為だけが唯一、他人に求められる術であることを知ってしまった。
だってそうでしょう?
腫れぼったい瞼は瞳を抑圧し、鼻はぺしゃりと低く、色の失せた唇は薄っぺらい。
お世辞にも整っているとは言えない部位の集合体が、美しい造形であるはずがない。
化粧で彩ることでようやく平均点に至る顔立ちと寸胴な身体つきは、コンプレックスの他ならない。
それらが捻じれに捻じれて育まれた中身に、価値が生まれるはずもない。
大きくなればきっと、なんて浅はかな望みが絶たれたのは中学の頃。

「ブスのくせに!」

吐き捨てられたその言葉は、この世の尺度を私に見せ付けた。
私はきっとほしいものを手に入れられない人間なのだろう。
それでも何も得られないということはないはずだ。
だったら、得られるものをなけなしの持ち物で手繰り寄せるしかないじゃないか。
そうでなければ誰が好き好んで不名誉を着るものか。
私に執着などない男たちに、誰が好き好んで。
空っぽの女には空っぽの男がお似合いで、そんな男にも簡単に見放される私に得られるもなど本当は何ひとつなかったのかもしれない。
がらんどうの関係でも捨てられる度に何かが欠けていく。
落ちていく。
疲れちゃったなぁ、と嘯いた声は小さく震えて溶けた。

「知るか。自業自得だろうが」
「相変わらず優しくないよね」
「今までお前が選んできた男は優しかったのかよ」

椅子に座ったままの私と、それを見下ろす鎌先の視線は絡まない。
何度となく同じ状況、同じ立ち位置で私たちは言葉を交わしてきた。
見上げた先にはいつも、不自然にめくれ上がったシャツの袖と呆れ返ってへの字に曲げられた表情がある。
今日は一度も、それらを瞳に映すことはなかった。
俯いた姿勢を私が頑なに守っているからだ。
私がそうしてしまうのは、届くはずの怒号混じりの正論が似合わない皮肉に打って変わり、聞き慣れているはずの声はワントーン低く鼓膜を揺らすせいだ。
一方的に注がれる眼差しは、思い付く限りの誹りや罵りよりずっと雄弁に私を否定しているようだった。

「選んでなんかないよ」

私の意思など、一体何の役に立つというのだろう。
選んだことなんて、選ばれたことなんて、一度だってあるものか。
ただの一度だって、取捨選択の権利が私に与えられたことはない。
ぽつりと呟いた本音は、窓を突き抜ける突風に攫われ、はためく生成りのカーテンが一層大きくうねりを上げた。
景色に沿った物音は不意に広がる静寂を際立たせ、途端に孤独が爪先からじわじわとにじり寄る。
真っ向に立たれるのは、苦手だ。
ましてや、真っ直ぐに見つめられるのはもっと。
浅くなる呼吸を繰り返しては、視界の端で遅れて揺れる鮮やかなネクタイを傍観する。
ふわり、と動くたびに伴う影が近付いた。
隣の机にもたれていた身体が直立する。

「告白、されたんだってね」

何かを言われてしまう前に、咄嗟に口を突いた言葉は今選びうる限りで最悪の羅列だった。
でも、言わせてはいけないと思った。
鎌先が何を言おうとしていたのかは定かではないけれど、聞きたくない、ではなく聞いてはいけないと当てにならないカンが囁く。
どんなものでも良かった。
鎌先の意識が紡ごうとしていた言葉から反れるならば、何だって。
私の卑怯な手法は大いに有効だったらしく、距離を縮めようとしていた立派な体躯が寸でのところで止まる。
知ってる。
知ってるよ。
背が低くて、華奢で、何の施しをせずとも可愛らしい顔立ちで、いつもニコニコ笑ってて、誰もが口を揃えて良い子だと感嘆するあの子は、熟した林檎のように真っ赤に染めた頬であんたの前に立っていたんでしょう?
そして言ったんだ。
好きです、って。
きっと、汚れのない綺麗な響きで。
女子の頭数が絶対的に少ないこの学校でも、彼女は一等目を惹く存在だった。
そんな彼女が鎌先に告白をしたという速報は、瞬く間に校内に広がり目の前の男は時の人と相成ったのだ。
バレー部の後輩からでさえしょっちゅう「だから鎌先さんはカノジョできないんスよ」とからかわれ続けた男の結末が、劇的な逆転劇で幕を閉じるなど誰も想像していなかったのだろう。
だけど私は、鎌先にこそ相応しい終幕だと思った。
ぶっきらぼうで、粗暴で、頭の中身まで筋肉でできているようなこの男が仕上げる課題の数々はいつも繊細で、細やかで、潔白だ。
肉刺の潰れた堅い手が作るそれらこそ、鎌先の本質を表している。
だからこそ選択を間違えてしまう彼が、私にはもどかしくて仕方なかった。

「断っちゃうなんてバカだね。もうないかもよ?そんなオイシイこと」

随分と軽い挑発を込めた言い分は、“いつも”の鎌先を取り戻したいからだ。
怒号という手段で雷を落とす愚直なまでに曇りのない彼の真っ直ぐさが向けられるたびに、私は密かに安堵していた。
今日に限って姿を潜ませるそれをどうにか引き出そうと画策する私を嘲笑うように、鎌先は静かな佇まいを崩そうとはしなかった。
風は吹いていない。
それなのに揺れるネクタイは、着用している彼が動いたから。
目前に迫るそれは、視界を覆う。
夕暮れよりも鮮烈なオレンジに堪らず顔を上げると、やれやれといった様子で溜息を吐いた。

「どっかのバカが、寂しい寂しいって泣いてるからよぉ」
「…言ってないし。泣いてもないし」

ムッとむくれて見せるけれど、その表情には息が詰まるほどの真面目さばかりが浮かんでいた。
下ばかりを眺めていた世界は、いつの間にか広がり一変する。
淡く滲むような温かな色に包まれる教室で、膨らむ予感は加速の一途を辿った。

「くれよ」

はっきりと、短い言葉が私へ落ちる。

「お前が捨ててきたもんも全部、俺にくれ」

言わせてはいけないと思った。
聞いてはいけないと、思った。
だから遠ざけたのに、そんな遠回りもまどろっこしさも全て薙ぎ払い、鎌先は迷いなくきっぱりと己の選択を振りかざす。
私は、選んだことなど一度もない。
差し出されたものに手を伸ばすしか、私に許された権利はなかった。
だからずっと、そうしてきたのだ。
それなのに、選んだことはないと言った私に、あんたは選ばせるのか。
自分から差し出してみせろと、言うのか。

「やめときなよ。悪趣味だって笑われるよ」

今更まともぶって何になる。
繰り返してきた愚行を思えば、忠告できるだけの説得力など私に備わってはいない。
私が私自身を貶め卑しんできたのだから。
それでも、今に勝るものはない。
こんな残酷で侘しいことがあっていいはずがない。
誰もが羨むあの子ではなく誰にも見向きもされない私を、どうして。
いや、誰にも見向きもされない私だからだ。
捨て猫を放っておけないように、爪弾かれたものを見て見ぬ振りができない。
私が猫だったなら、擦り寄って甘えてじゃれて、その逞しい腕にひっかき傷のひとつくらいつけることも許されただろう。
それすらも可愛いの一言で愛される理由になる。
残念ながら、私は人間だ。
目に見える傷を負わせることはなくとも、こびり付くような消えない呪いを内側に刻み付けるに違いない。
癒えない痛みを残すのだ。
彼にも、私にも。
この不毛な終着地点が、大団円であるはずもない。
後悔を背負えるほど立派ではなく、後悔を恐れないほど無謀でもなく、私たちは所詮目の前のことで精一杯の子どもで。
鎌先の言うことは常に正論だった。
正しい道を、正しい術で歩んできた証のように真っ当で美しい。
そんな男が何故、最後の最後に正しさを見誤るのだろうか。
目の前に幸福への片道切符を差し出されたというのに、どうしてわざわざ面倒の塊のような場所に駆け寄るのか。
どう考えても、誰が考えても、それが過ちであることだけは明白なのに。
雑然と交差する思考の端々をなけなしの良心で繋ぎ留め、踏み止まれと言い聞かせる。

「これ以上惨めな気分にさせないで」

睫毛を下げ、精一杯の懇願を告げる。
彼を正しい場所へ帰さなくてはならない。
そのための手段は、一層私に仄暗い自己嫌悪を見せ付ける。
既に分かりきっていることを反復される苦々しさなど、あんたはこれっぽっちも分からないのでしょう?
私の声はきっと、鎌先を責めていた。
それでも尚、揺れ動くオレンジが追い立てるように私を離さない。
ぐっ、と頭を押さえられる。
慌てる間もなく視界は暗転する。
ままならない呼吸から微かに汗の匂いが肺を撫で、シャツ越し伝わる体温はひどく熱い。
引き寄せられた胸から、死んでしまうのではないかと気が気でなくなるほど速まる鼓動が響いていた。

「ごちゃごちゃうるせーんだよ!黙ってさっさと寄越しやがれ!」

まどろっこしいやりとりに、遂に短気の堪忍袋の緒が切れたらしい。
それでも、もういらない、とは言わない鎌先に我慢比べの勝敗がこの瞬間に決してしまった。
鎌先の手が、宥めるように髪を梳く。
器用なはずの無骨な指先が、この時ばかりは慣れない仕草にぎこちなさを滲ませていた。
何度も、何度も、ゆっくりと、凝り固まった私のどうしようもなさを解くように繰り返される優しい行為は、同時に恐ろしさを育てる。
遠くないいつか、みっともなく縋って執着を露わにする日がきっと来るのだ。
捨てないで、と喚く時が。
私という存在が鎌先の価値を失わせることよりも、私は私のために希う。
今が、そうであるように。
いつかきっと、そうなるのだろう。
そんな私の言い知れぬ恐怖や不安を掬い上げるように、「腹括って諦めろ」と鎌先は諭した。

「俺だってなぁ、後ろ指さされんのも笑われんのも覚悟してんだ」
「ひどい言われよう…」
「自業自得だつってんだろアホ!やったことは全部テメーに返ってくんだよ!」
「うん」
「でもそんなもん、お前を諦めるほどのことじゃねぇ」

だからもう、諦めて大人しくもらわれとけ。
いっそ清々しくそう言い放った鎌先が、恭しい手付きでそっと輪郭をなぞるから。
正しくないと知りながら私は、その手の渇きに身を委ねてしまうのだ。
何度も考えた。
私の瞳があと少し大きかったなら、私の鼻があと少し高かったなら、私の唇があと少し鮮やかだったなら。
こんなにも卑屈で愚かな私にはなっていなかっただろう。
素直な好意を澱みのない言葉で、声で、伝えることができただろう。
健やかで綺麗な彼女のように。
決してそうはなれない私を、この男は丸ごと引き受けるとのたまった。
もし、私に巣食う後悔も後ろめたさも何もかもが、私に触れるこの手を手に入れるために必要だったものならば、この醜い浅はかさですら意味があったのではないかと思う私はやっぱりどうしようもない。
同情でもいい。
可哀想だから、不憫だから、気の毒だから。
何でもいい。
この男が私のために注く情ならば、何だって。
私は本当に、愚か者だ。
そんな私に手を焼くこの男も、また。

「バカみたい」

そう零して、垂れるネクタイを手繰る。
崩れたバランスを立て直そうとする身体にしがみ付き、せがむように唇を寄せた。
ゴクリ、と間近で鳴らされた喉に睫毛が震える。
輝かしい金色の髪が眩く揺らめき、透ける光は柔らかに瞼の裏にまで届くようだった。
チカチカと点滅する光源に眩暈がする。
ろくでもない私をしっかりと抱き留める両腕は痛々しいほどに丁寧で、悲しいほどに心地良い。
染み渡る温もりを覚えた僅かな瞬間、名残惜しさに胸が掻き毟られた。
鎌先がこうして与えてくれるように、与えられるものが私にどれだけあるのかは分からない。
分からないけれど、寄越せ、とこの両腕を確かに差し出してくれたのだ。
私たちはきっと、過ちを犯しているのだろう。
例えこれが刹那の幸福だとしても、逸る鼓動に噎せ返りそうな今を否定できうるものはどこにもなかった。
全部、全部、ここに置いていけたらいいのに。
真っ白なこの気持ちのままではいられない。
だったら、今この時のために私に残る綺麗なものを全て。
そんなことを言ったならきっと、この男は億尾もなく残さず持って行くなどと言うのだろう。
当たり前のように。

「お前みたいなバカには、俺みたいなバカがお似合いってこった」

鎌先のあけすけな笑顔に、睫毛が留めきれなかった涙が零れる。
琥珀色に彩られる箱庭で孤独にも似た充足に浸されながら、ふたりのカタチを確かめ合うように背中に腕をきつく回した。
この優しくない世界で決してはぐれてしまわないように、決して溶けて消えてしまわないように、自分自身を互いに刻み付けるために。


(title by 誰花)

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