今年初めて降った雪は、見慣れた風景を白く染めた。
寒さのせいか少し潤みを含ませた瞳が、俺を見上げている。
初雪の名残りが、ちらちらと舞っていた。


1.

彼女はクラスメイトで、二年になって初めてその声を知った。
その時交わした会話はバレーに関すること。
やけに詳しいな、と思ったので印象深い。
聞けば中学時代はバレー部に所属していたという。
そんな彼女の言い分に、最初は半信半疑だった。
あまりにも華奢な身体つきを見れば、誰だって“まさか”と思うだろう。
けれど彼女が提供するその手の話題は、ボールに触れ、コートに立ち、ネットの先を見ていた者の響きを持ち、経験者なのだと納得するには十分だった。

「自分がやってたのもあると思うけど、セッターが一番好きなんだよね」

そう言って瞳を細めた笑みが、何故かとても、強く瞼に焼き付いた。
綺麗な表情だと、思ったからかもしれない。


2.

「赤葦ー!辞書のアレかしてくれー!」

初冬を向かえ三年が引退した後も、この声は身近にあった。
休み時間の雑踏を一蹴する声の主に、はぁと溜息が漏れる。

「わざわざ二年の階まで来なくても」
「誰も貸してくんねーし」
「自業自得ですよ。木葉さんの電子辞書壊したの、木兎さんじゃないですか」

今思い出しても気の毒でしかない。
反応がおせーから連打してたら何か取れた!と豪快に笑いながら差し出されたかつて重宝されていたであろうそれは、それきりウンともスンとも言わなくなったらしい。
それ以降木葉さんはもちろん、“分かってたけど。今更だけど。壊されて困るもんは木兎に貸すな”が三年の暗黙の了解になり、その度にこうして二年の教室まで足を運んで来るようになった。

「学年違うだけで何でこんなに遠いんだ?」

それはあんたが忘れ物をしなければ感じる必要のない距離ですよ、という言い分は心の中に仕舞っておく。
この手の意見が木兎さんの面倒臭いスイッチを入れてしまうことを、俺も熟知しているからだ。
普段なら、仕方がないと所望されたものを差し出すのだけれど。
生憎、今日はその持ち合わせがなかった。

「すみません木兎さん。昨日宿題で使ったから、俺も家に忘れて来たんですよ」
「マジかよ!?お前しかアテないんだけど!」
「諦めて素直に怒られてください」

先輩相手に言う言葉ではないだろうけれど、この人相手だと途端にそれが成立するのだから不思議なものだ。

「赤葦…お前はヒドイやつだな…」
「何言ってるんですか。もとはと言えば忘れた木兎さんが悪いんでしょ」
「そらそーだけどよぉ」
「もう戻らないと遅刻で更に怒られますよ」
「やっぱお前はヒドイやつだ!」

どでかい図体を萎ませて肩を落とした木兎さんに、もう一度溜息を吐く。
何とかしてあげられればと思わなくもないけれど、こればかりはどうしようもないのだから仕方がない。
木兎さん、と踵を返すよう催促すれば、「あの、」と間近から声が漏れた。

「私ので良かったら貸しますよ?」

そうして差し出されるシルバーの長方形に、木兎さんの背筋がピンと伸びる。

「ホントか!?」
「無事に返してもらえるなら」
「約束する!優しく扱う!」
「普通、借り物は誰のでもそうするもんです」

木葉のは事故!と事も無げに言い退け、それを受け取った木兎さんは何度も「ありがとな!」と大声で繰り返し、慌ただしく駆け抜けて行った。
毎度のこととは言え、まったく嵐のような人だと思う。

「巻き込んでごめん」
「何で赤葦が謝るの?私が勝手に貸したんだよ。変なの」

彼女は細い肩を揺らして笑う。
木葉さんの電子辞書破壊事件は、確か彼女にも話したことがあった。
その時も、「いいね、バレー部。すっごい楽しそう」と声を上げて笑っていた。
だから木兎さんに何かを貸すリスクは分かっているはずだ。

「いつも赤葦伝いに楽しい話聞かせてもらってるからね。ちょっとしたお返し」

声には乗せなかった俺の疑問を察したように、答えが返る。
そんなものだろうか、と思っていると、授業開始のチャイムが響いた。


3.

ほとんど見ず知らずの相手に借りた物を、流石に乱暴には扱わないだろう。
そう分かっていても心配が勝るのがあの人らしい。
そんな俺の危惧は杞憂に終わり、彼女の手元へ無事に帰還した電子辞書を見て安堵した。
散々心労を与えてくれた当の本人は、借りた最新の電子辞書の機能に興味が尽きないらしく、「あれスゲーな!また借りていいか?」などとのたまった。
それは流石に、と呆れる俺とは裏腹に、持ち主は「忘れちゃってどうしようもない時ならいいですよ」と寛容な態度だ。
社交辞令やお世辞というものは、木兎さんには存在しない。
相手の言葉をそのまま受け入れ、木兎さんが発する言葉もまた裏表がない。
彼女の返答にどこまで『先輩相手に角が立たない返事』が含まれていたかは分からないけれど、ありのまま受け取った木兎さんは電子辞書を忘れるたびに彼女を頼るようになった。

「迷惑してない?」

ある日、そう尋ねた俺に彼女は不思議そうに首を傾げた。

「あの人、遠慮ないから」
「全然!むしろ色々話してくれて嬉しいくらいだよ」
「だったら良いんだけど」
「木兎さんって面白くて良い人だね」
「まぁ…」

歯切れの悪い俺の返答に、「どうかした?」と彼女が覗き込む。
思わず慄いてしまったのは、その時一抹の不満が、ぽたりと心に落ちたからだ。


4.

休み時間、自販機前で出くわした木葉さんは「何がいい?」と小銭を押し込む。
どうやらおごってくれるらしい。
その言葉に甘えて、点灯するボタンを押した。
取り出し口から持ち上げたものを見るやいなや、「前から思ってたけど、お前の味覚ってジジくさいよな」などと失礼なことを言う。

「普通ですよ」
「そうか?学校でブラック飲んでるやつなんてお前以外で見たことないけど」

カラカラと笑いながら、自分のものを選ぶ木葉さんに「いただきます」と告げる。
返事の代わりに軽く掲げられた掌へ、気持ちばかりの会釈を返した。
プルトップを開け中身を仰ぎ、ふと考える。
聞いてもいいですか?とひとつ前置きをすると、「おー」と気のない返事が届いた。

「木葉さんは、羨ましいって思うことあります?」
「何だよ急に」
「いえ、何となく」

相当奇妙な質問だったのか、訝しそうな眼差しが突き刺さる。
けれど本当に何となく、誰かに聞いてみたいことだった。
自分への問いかけに対して明確な答えが準備できないことがどうにも、収まりが悪いのだ。
相対的な感覚が掴めない。
きっと、確認をしたいのだと思う。
誰もが持っている感覚だと、漠然とした常識がほしい。
木兎さんではなく木葉さんに向けて投げかけたのは、それが理由だろう。
とは言え、あまりに唐突だったせいか求めるものが引き出されるより前に頓挫してしまいそうな雰囲気に満たされる。
取り立てて無理強いをするつもりはない。
このまま流されるのだろうと、再び缶を傾けた辺りで「俺はやっぱ、木兎だろうなぁ」と木葉さんが呟いた。

「身近にあんなのがいたらそら思うだろ」
「それもそうですね」
「お前でもそう思うことあんの?」
「なくはないです」
「へー、意外だな。そこんとこ上手いこと折り合い付けてるイメージだわ」
「ああなりたいとは思いませんけど、ズルいって思うことはありますよ」

壁にもたれた木葉さんは、通り過ぎる通行人をぼんやりと眺める。
視線を右から左へ、何度かそれを繰り返して「そりゃ厄介だな」と息を吐き出した。

「赤葦。お前のそれは“羨ましい”じゃねーよ」


5.
口の中がずっと苦い。
缶コーヒーのブラックなんて、飲み慣れているはずなのに。


6.

「あの子、すげー良い子だよな」

久しぶりにかつてのレギュラーが勢揃いした昼休み。
木兎さんは焼きそばパンにかぶりつきながら、唐突にそう言った。
主語の足りない話しぶりも、いきなりの話題転換もいつものことなので、今更誰もそこには言及しない。

「あの子って?」
「赤葦のクラスの女子!」
「はぁ?赤葦の?」
「木兎さんに辞書貸してくれてんスよ」
「それ危険じゃん。木葉のアレが再来したらどうすんの」
「あれは事故だっつってんだろ!」
「事故って言ったら何でも許されるわけじゃねーかんな?」
「まぁ、何か貸してくれたらいい子ってあたりが木兎らしいよな」
「それだけじゃねーよ?」

ごくん、と豪快に喉を鳴らした木兎さんは、慌ただしくスポーツドリンクを流し込む。
周囲はそこから続くであろう言葉を待つように、食事の手を止めていた。
何となく、聞きたくないと、そう思った。
だから少しでもあの溌剌とした声色を眩ますため、ひとり咀嚼に勤しむ。
例えば?と誰かが促した。

「色々あるけどとにかく話が合う!すげーだろ!」
「小学生かっ」
「そんなことだろうと思ってたけど」

先輩たちがカロリー摂取を再開すると同時に、今度は俺の手が止まる。
小手先の誤魔化しを突き抜け届いた声に、あの時不意に感じた不満の理由が、ひどく稚拙な正体だと目の当たりにした。
俺は、面白くなかったのか。
木兎さんと彼女の距離が、自分の与り知らぬところで近付いていくことが。
気付いてしまえばあっという間だった。


7.

そうか、これは嫉妬だ。


8.

「最近木兎さん来ないね」
「部員以外に迷惑かけんのはって、先輩が小うるさく言ってるみたいだから」
「じゃぁ忘れずに済んでるんだ」
「多分」
「そっかぁ」
「何か残念そうだけど」
「え、そんなことないよ!」
「そう?」
「まぁ…でも、そうなのかな。なかなか関われる人じゃないし、木兎さんと話すのは楽しかったから」
「俺は、」

「俺は木兎さんが来なくなって、良かったと思ってるよ」


9.

その日、東京で初雪が降った。
冬に雪が舞うのは頻繁でないにしろ、毎年一度や二度はあることだ。
取り立てて珍しいことでもない。
けれど朝から延々と降り続いているそれは、明らかに『例外』だった。
どんどんと色が失せて行く景色に、急遽部活動の禁止が言い渡される。
交通機関が麻痺してしまう前に、と考慮された結果だろう。
こうしたイレギュラーに弱い街だと、改めて思う。
終礼も早々に切り上げられ、どのクラスもどの学年も、急いで帰宅するよう促されているせいで廊下や校門は生徒でごった返していた。
幸い下校する頃には降雪は勢いを削ぎ、ちらほらと舞う程度にまで天候は回復していたので、傘のない状況では有難い限りだ。
それでも、しばらく降り続いたそれは地面にしっかりと白い絨毯を敷き詰めていた。
一歩踏み出せば、足元は簡単に水気を吸い上げ冷たさと重さを孕むのだろう。
じわじわと育つそんな憂鬱を押し込め、意を決したところで「赤葦も今帰り?」とマフラーに埋もれた顔が覗き込んだ。
一緒に帰ろう、という言葉を交わすこともなく、彼女は俺の隣りに並び、そのまま駅までの道のりを進む。
ただでさえ細い肩は、寒い寒いと嘆くたびに竦められ、更に頼りなさを増していく。
声を発するたびにはっきりと棚引く息が、今日の寒さを物語っているようだった。
彼女が話し、俺が返事をする。
俺が話し、彼女が返事をする。
互いのそれが重なり合い、ゆっくりと外気に溶けていく様が、言いようのない感情を急き立てるようで、コートのポケットに仕舞い込んだ手を堅く握り締めていた。
違和感のない光景は、実のところ綻びだらけだ。
つい数時間前、口を突いた暴言は彼女の表情を凍りつかせ、その場を瞬く間に翻させた。
動揺させてしまったのは明らかで、弁解を急くもこんな時に限って取り繕う言葉が見当たらない。
随分と意地の悪い言い方で、手前勝手に彼女の純粋な好意を塗り潰しと分かっていながら、俺はそれを否定することができなかった。
何故ならあれが、あれこそが、俺の本心だからだ。
寒々しい間が落ちる。
そんな居たたまれなさの中、「先輩にそんなこと言っちゃダメだよ」と懸命に衒いのない態度を見せる彼女に、自己嫌悪が唸りを上げた。
すぐに謝れば良かったのだ。
ごめん、ただ一言、そう告げるだけで済んだ。
けれど、言えなかった。
俺はきっと、あの時見た表情が、笑顔が、忘れられなくて、いつしかそれをもう一度見たいと思うようになっていたのだろう。
だけど実際は、不恰好に歪んだ笑みを浮かべさせてしまった。

「ごめん」

零すように、今更そう呟く。

「ごめん」

繰り返し告げた俺に、何に対しての謝罪なのかと困ったように彼女は眉を下げた。

「八つ当たりした。だから、ごめん」

彼女が足を止めた。
ゆっくりと白い息を吐き出しながら、見上げる顔のラインに淡い陽の光が滲む。
すっぽりとマフラーに覆われていた表情が露わになり、仰ぎ見る双眼は焦げ茶色を濃くした。
寒さに赤らむ鼻先で、どうして、と視線が語る。
仕舞い込んだ拳をもう一度きゅっと握り、悴む唇を緩やかに動かした。

「取られるって、思ったから」

まるで駄々っ子のような言い分だ。
自分の思い通りにならないことに苛立ちを隠せず、加えて彼女をまるで自分のもののように位置づけていたことに唖然とする。
見るに堪えない失態を晒した。
もとより、彼女に当たった時点で既に付ける格好など残ってはいない。
みっともないのはもう、随分と前からだ。
今更どう取り繕ってみても本質は変わらない、変えられない。
俺は、こんなにも色々と下手くそだっただろうか。
向けられた言葉を上手く飲み込めていない彼女に畳み掛けるよう、言葉を続けた。

「木兎さんといつも、何話してたの?」

視線が忙しなく動いたかと思えば、今度は顔を俯ける。
しばらくして、髪の隙間から覗いた耳がじわりと赤く染まった。

「…聞かないでよ」

俺はそこまで自意識過剰ではない。
自分に対する評価も、そう高くは見積もらない方だ。
彼女が零した言葉も、声色も、それらに込められた意味も、いつもの俺なら間違いなくあの人を連想していただろう。
ああ、やっぱり。
そう思って密かに肩を落としていたに違いない。
でも今は、どうしてもそこには行き着かない自分がいる。
恐る恐る見上げる瞳が、大きくゆらりと揺れた。
ああ、そうか。
雑踏に消え入りそうな囁きを反復し、脳裏に残るやりとりを掘り起こす。


「自分がやってたのもあると思うけど、セッターが一番好きなんだよね」
「色々あるけどとにかく話が合う!すげーだろ!」


納得が、ストンと腹に落ちた。
言葉より先に仕舞い込んでいた指先を、凍える空気の中に伸ばす。
外気に晒されっぱなしだったせいか、そっと触れた彼女のそれは温もりを宿してはいなかった。
唐突な出来事に慄く仕草を飲み込むよう、冷えた手を覆う。
その行為は紛れもなく俺の心だった。
僅かな自惚れと期待に背を押され、剥き出しのそれを押し付けて、返る答えを待ちわびる。
卑怯なやり口だと分かっている。
随分情けない様だということも。
それでも、今を手放すことなど到底できない。
これが恋を言うものか。
こんなにもままならないことが、誰かを好きになるということなのか。
駆け足の鼓動を持て余しながら、祈る想いで見つめる。
はっ、と息を飲み込んだ。
戸惑いに力んでいた華奢な指は、たおやかに俺の形をなぞっていた。

「赤葦は分かりにくいよ」
「…俺、相当焦ってたんだけど」
「うそだー。全然そうは見えなかったもん」
「今も結構テンパってるし」

握り返された手に、恭しく力を込めた。
探り探りなのはお互い様なのだろう。
確かめるように何度も、掌を擦り合わせる。
言葉なき会話を繰り返しながら一際強く手繰られれば、綻ぶ表情に目を見張った。

「あ、それは分かるかも。指先がすごい脈打ってる」

いつか見た瞼に焼き付く表情で、それはもう一度見てみたいと切望したもので、彼女は一際綺麗な笑顔を浮かべて見せた。
思わず声を詰まらせ、今度は俺がマフラーに顔を潜ませる。

「どうしたの?」

純粋な心配を含んだ声に、ジンと鼻が痛む。

「…聞くなよ」

今の俺を見ても、分かりにくいと彼女は言うのだろうか。
白い景色の中でふたり、凍えるように繋いだ手をいつまでも放せないままだった。


10.

「電車止まったらどうしよう」
「これくらいじゃ止まらないよ」
「何だかんだで毎年一回は積もってない?」
「まぁ、確かに」
「降ってる時はちょっと嬉しいけど、積もると後が大変だよね」
「足元がすげー悲惨なことになるよな」
「私、もうなってるよ」
「俺も」
「確実に体温持ってかれてる…」
「既にそういう感覚すらないんだけど」
「珍しく手も冷たいもんね」
「こんな日にポカポカしてんのは木兎さんくらいじゃない?」
「それ、褒めてる?」
「羨ましいとは思う。今だけは」
「あ、褒めてないんだね」
「ってか手袋は?」
「ん?あるよ」
「あんの?してないから忘れたんだと思ってた」
「いいの。今日は特別だから。耐え忍んでみせる」
「…いや、雪のせいで特別寒いんだから付けなよ」
「言ってる意味、ほんとは分かってるくせに」
「…」
「結構分かりやすいよね」
「よく言うよ。分かりにくいって言ってたじゃん」
「一年前の話でしょー。あの頃はまだ初心者だったし、大目に見てよ」
「初心者って何の」
「京治の」
「…」
「あ、照れた」
「言った方も照れてどうすんの」
「うわー、筒抜けだ」
「お互い様だよ」
「そういうとこ好きだなぁって思う」
「…それこそ、お互い様だって」

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