保健室には、私の秘密がいくつもある。
保健委員長として留守を預かることは少なくない。
職務を全うしなければ、と意気込んでいたのは最初だけで、放課後の保健室などほとんど誰も近寄らないのだと学んだ頃にはすっかり自室の気分で過ごしている。
奥にあるほとんど使われていない戸棚には退屈を凌ぐための何冊もの文庫本や、空腹を紛らわせるための甘いチョコレートが仕舞ってあった。
先生だって知らない、私だけの秘密だ。
いつもなら椅子に座って本を読み、持ち込んだお菓子を食べて適当に過ごしているのだけれど。
今日はそのいつも″を行う前に、やっておかなくてはならないことがあった。
手当てを要する生徒が座るための長椅子で、脱ぎ散らかした靴下は冷たい床の上に横たわっている。
勝手知ったるテリトリー内を物色するように、乱雑に荒らす手はトレーの中。
そんな私の振る舞いを目撃したのは同じクラスの花巻で、ここは委員長の私が留守を任されている保健室だ。



「どしたの?怪我でもした?」
「いや、うちの絆創膏切れたから取りに来た。つーかお前こそどうしたよ、それ」
「ちょっと挫いちゃってさ。湿布貼ろうとしてたらあんたが入って来た」

だからこれは不可抗力です、と示した私に花巻は大した興味もなさそうで「ふーん」と気のない返事を寄越し絆創膏の空箱を差し出す。
私も特に何を言うでもなくそれを受け取った。
三年間それなりに保健室の恩恵に与っているなら、どこに何が仕舞われているかは大体把握している。
花巻も例に漏れず、目的の品の所在を熟知していた。
真っ直ぐに窓際まで足を進め、白い塗料がところどころ剥げ落ちている戸棚と対峙する。
上から二段目の引き出しを開き、当然のように真新しい箱を取り出した。
不正な持ち出しを防ぐために空になった箱と交換すること、持ち出されたものは記録票に残すことがルールとなっている。
在庫の管理をするためだ。
小手先の手当てしかできないとしても、それなりに薬品も揃えられているので色々と管理体制が小うるさい。
あれもこれも記録記録って面倒よね、が先生の口癖になるくらいに。
だから先生が職員会議だ何だとここを留守にする時は、保健委員長が代行を務める。
今の委員長はジャンケンで負けて選出された私なのでそのお勤めの最中ではあるけれど、足首の痛みのせいで長椅子に座り込み、靴下さえも投げ打っている私を見越してか、事務机に転がったままのペンを持ち、花巻は『物品持ち出し票』の上にそれを走らせた。

「ああ、ごめん。ありがと」
「どーいたしまして」

そういう、ささやかな気遣いが上手な男だと思う。

「両足?」
「まさか。左だけ」
「何でどっちも脱いでんだよ」
「ひとりだし、誰も来ないと思ってたからちょっと解放的な気分で。靴下嫌いなんだよね。窮屈だもん」

目的の品は既にその手中に収めているにも関わらず、花巻は長椅子の前へやって来た。
晒し出された私の素足を眺めながら、「ちょっと腫れてんな」と囁く。

「湿布貼ってればすぐおさまるよ」
「部活もしてないのに捻挫するやつ初めて見たわ」
「階段ってさ、割と凶器だよね」
「なに、突き落とされでもしたわけ?」
「もう一段残ってると思って踏み出したら床だった。勢い余ってこう、ぐにゃって」
「ただのドジじゃん」
「仰るとおりで」

全く優しさの欠片もない、遠慮もない、そんな物言いを好ましく思う。
いや、それは多分、花巻だからこそなのだろう。
思わぬ遭遇に止めていた指先を動かし、湿布の捜索を再開した。
穏やかな室内には不釣り合いのガチャガチャと擦れる金属音。
なかなか探り当てられない苛立ちを覚えた頃、同じ場所へ注がれた指先に思わず視線を上げる。
私が見つけられなかったものを簡単に手にした男は、些か呆れ顔といった表情で絆創膏の箱を空いている私の隣りに置いた。

「横着すんなよ」
「見えないと難しいんだって」
「ん」
「え?」
「自分じゃやり辛いだろ。足出して」

長方形の白を両手で広げ、跪く。
何をしているのか、何を言っているのか、咀嚼するには時間を要した。
私の理解を待つ気はないらしい花巻は乾いた掌で触れ、ゆっくりと膝を伸ばした。
無防備な踵は花巻の太ももに置かれ、ジャージのザラつきが伝わる。
これは、手当てだ。
何度もそう繰り返してはこの光景を正当化し、上昇を促す体温が決して悟られないように浅くなる呼吸を潜ませた。

「つっめた!」
「そうそう、ちょっとヒヤっとすんぞー」
「そう言うのはやる前に言うんじゃないの!?」
「忘れてた」

悪びれる様子もなくケロっとそんなことを言いながらも、湿布を貼り付ける手付きは恐ろしく優しい。
丁寧に、私の形に添って、緩やかに巻かれる仕草はいちいち私を刺激した。
早く終わってくれないだろうかと願うと同時に、もっとこの時間が続けば良いと願う浅はかな自分に嫌気が差す。
親切だけで時間を費やしてくれているであろう花巻に、私はそんな馬鹿げたことしか返せないのだ。

「女の裸足ってエロいよな」
「は?」
「他人の裸足見るってそうそうなくね?」
「や、あるでしょ。夏場なんてそこら中裸足の女の子が歩いてるじゃん」
「サンダルとかそう言うのなしで。まんまの裸足ってこと」
「海に行けば見放題だよ」
「だからそう言うんじゃねーの。海だったら靴下履き込んでるやつの方が気になるわ。そんな裸足で当たり前なところじゃない普段っつーか日常の中っつーか」
「なに、あんた変態?」
「たぶんな」

それはつまり、今まさにというこの状況のことを言っているのだろう。

「身の危険を感じた方がいい?」
「さぁ」

お互いにはぐらかしたのか、それとも―――
触れかけた核心をそのままに、手を離して知らぬ振り。
大丈夫、得意技だ。
宙ぶらりんの心を引っ提げて、浮き足立つように白い部屋の中での騙し合いは相当私に分が悪いけれど。

「なんか、偉くなった気分」

時間をかけて貼られた湿布の上に、手厚く包帯がくるくると巻かれる。
少々大袈裟すぎないだろうかと思いながらもされるがまま、身を任せて注がれる行為を甘んじて受け入れた。
慣れた所作はもともとの器用さだろうか。
無駄のない振る舞いを見せ付けて、長く節立った指が動かされるたびにびくつきそうになる足先に力を込める。
恭しく撫でられる素肌の感覚を誤魔化すように叩いた軽口に花巻は、「そういう趣味がおありで?」と笑った。
お前も大概変態だな、なんて皮肉も忘れずに。

「苦しゅうない、近う寄れ。なんてね」

だから私も聞きかじった程度の時代劇のお決まり文句で交戦すれば、花巻は自身の太ももに乗せられていた踵を払うように退ける。
預けていた体重が反らされた私は当たり前にバランスを崩し、本日二度目のドジを踏まないために本能的に前のめりになった。
払われた足は勢いを殺せずに宙を泳ぎ、綺麗に巡らされていた包帯は空気に溶けるようにすり抜け解けてゆく。
文句を並べようとした唇は、両脚の間に割って入った男によって阻まれた。
するりと伸びた手が髪を掻き分け、露わになった後頭部を覆う。
逃げ道をなくされた私は顔を伏せようとなけなしの抵抗を試みるも、そんなものはこの男にとっては何の障害にもなりはしなかった。
膝を折っているにも関わらず、椅子へ座った私に簡単に届いてしまうこの巨体に適うはずもない。
酸素を奪い、思考を攫い、私を食らう花巻の吐息の激しさが、この行為の執拗さを物語る。
多分、きっと、いや、間違いなく、私の息も荒いのだろう。
乱暴にするのなら、最初から最後まで貫き通してほしい。
私に罵る機会を与えてくれたって罰は当たらないだろう。
無理矢理だと、理屈付けさせてくれてもいいじゃないか。
何の情緒もなくぶつかり合っただけの、粘膜を擦り合わせるだけの熱量なら、平手打ちのひとつでもくれてやれたのに。
激情の間に挟まれる啄ばむような仕草が、なだめるように撫でる頭に回された掌が、腰が砕けそうな私を支える腕が、情を満たす証のようで私は繰り返されるこの無秩序な営みを全く手酷い仕打ちには感じられなくなってしまっている。
絆されているのだろうか。
ぼう、と滲む頭の片隅で現状を洗い出してみるけれど浮かぶ答えは否定しか生まない。
違う。
そうじゃない。
これは、私の望んだ結末だ。
この男が欲しかった。
ずっとずっと、私のものになればいいのにと渇望していた。
そうして与えられた答えに何の不満がある。
これが、これこそが、私の欲望だったろう。

「急に、何てことするのよ」

そっと離れた唇に、悪態にも満たない言葉をようやく紡げた。
掠れるほど微かな声色になってしまったのは、言うまでもない。

「なにって、近付いていいってお許しが出たから?」

やはり悪びれる様子もなくケロっとそんなことを言い、私の肩に頭を預けた。
首に触れる色素の薄い短い髪は、思いの外柔らかい。
冗談だと、分かっていながら乗っかったこの男の真意など、もはや私には必要なかった。
時折走る足の痛みが今を現実と思い知らせてくれるから。
力が抜け、だらしなく垂れる足首に指先が這わされる。
思わずびくりと震えた身体に、尚もそれはじりじりと下降していった。
そうして到達した私の素足。
撫でられるくすぐったさに上体を捩れば、離れた身体が解けて落ちた包帯を手繰り寄せる。

「さっきの裸足がどうこうって話、ちょっと分かったかも」

もう一度器用に巻かれる包帯を眺めながら、そう呟く。
学校で、保健室で、こんなことをしていながら今更どの口がと自分でも思うけれど。

「素顔とか裸見られるよりよっぽど、剥き出しって感じがする」
「じゃぁ、試してみる?」

きゅっと端を結び、最後の仕上げを終えた花巻が挑発するように、試すように、下がり気味の瞳に私を映す。
何を、と尋ねるには私はもう色々なことを知りすぎてしまった。
上手な返事を選びかねている私をそのままに、花巻はいつの間にか転がり落ちていた絆創膏の箱を拾い上げる。
そしてそのまま背中を向け扉から出ようとしているその時、少し振り返った横顔が柔らかな笑みを浮かべた。

「終わったら迎えに来るから。ちょっと待ってて」



保健室には、私の秘密がいくつもある。
奥にあるほとんど使われていない戸棚には退屈を凌ぐための何冊もの文庫本や、空腹を紛らわせるための甘いチョコレートが仕舞ってあった。
そして今、新しい秘密が増える。
私と花巻だけが知る、ふたりきりの密室の秘め事。
律儀に直された包帯はきっと、そう遠からず再び解かれるのだろう。
窮屈だから、と投げっぱなしにしていた靴下を横目に、それよりよっぽど窮屈に巻かれた白を撫でた。
この秘密に満ちた水槽の中で裸足のまま、まだか、まだか、と待ち人に焦がれる。
痛みでひとりでは歩けない足を揺らしながら、歩き方を知らない魚のように。

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