※『9月19日』に連なるお話です。





『そろそろ腹を割ったお付き合いをしましょうよ』という提案が受け入れられ、それなりに彼氏と彼女の道のりを歩んではいる。
無邪気を装っては手を繋ぎ、悪戯を働くと見せかけては柔らかな髪を抓み、気付けば触れようと伸びる指先は止め処ない欲を秘め、ちっぽけな独占欲ばかりが育つ。
いつ、この生々しさを悟られるだろうか。
俺の可愛い可愛いカノジョは、普段何本も頭のネジがぶっ飛んでいるくせに、人の機微とやらには妙に聡いのだからタチが悪い。
もしかしたら既に俺の邪さを察しているのかもしれない。
それでも何の気なしに振る舞っているのだとすると、これは思っていた以上に相当恐ろしい女だ。
と思案してみるけれど、やはり考えすぎだろう。
きっと何も考えちゃいない。
カノジョ、なんて存在は健全な男子高校生をどっぷりと侵す甘美な毒だということを、こいつは分かってはいないのだ。

「今日ね、鎌先先輩に会ったよ」
「そりゃ同じ学校なんだし普通に会うだろ」
「ずっとニヤニヤしてた」
「可哀想だからそっとしといてやって」
「え、声かけちゃった」
「あーあ」
「だってすごいこっち見てたから」
「自分のこと見てニヤニヤしてるやつにお前もよく声かけられるよな」
「知らない人だったら逃げるよ」
「知ってるやつでも逃げるくせに」
「鎌先先輩だったし」
「何基準だよ」
「二口かなぁ」
「は?」
「だから基準。二口が基準」

何だそれ、と思わず口が開く。
近頃はこんなことが増えた。
俺の心を撫でるのがとにかく巧い彼女は、その言動でいちいち俺を翻弄する。
時々、何もかも計算ずくではないだろうかと疑うほどに。
それほどまでに緻密に俺だけを狙い撃つ爆撃はここのところ過激の一途を辿り、俺の理性を一面焼け野が原にしてくれる。
そのくせ少しばかりそれっぽい、つまり、恋人同士だから許される艶のある雰囲気になると、途端に丸く大きな瞳を揺らして怯えるように逃げ腰になるのだから俺としてはたまったものではない。
けれど、尻込みをしてしまう気持ちも分からなくはなかった。
友達として甘んじていた期間がお互い、長すぎたのだろう。
その頃の感覚がいまだ巣食っているせいで、何となく詰め切れずにいる距離が憎らしい。
どうにか近付くきっかけを、と画策している俺とは裏腹に、どこかで彼女は今までどおりを望んでいるようにも思えた。
軽口を交わし、適度な合間を守り、明らかに特別を謳いながら触れ合うために必要な決定的な理由を遠巻きにしていた、少し前までの俺たちふたりを。

「そういう時って何て声かけんの?」
「元気ですかーって」
「猪木かよ」

今時それはないっすわー、と小馬鹿にした俺を慣れた様子で流し、制服のスカートを翻す。
部活終わりの夜と呼ばれる時間でも、日常が溢れる俺の部屋でも、人が暮らしている場所には明かりが灯る。
絶妙と呼ぶべきか、いらぬ世話と言うべきか。
蛍光灯の噎せ返るような眩い光は彼女の横顔を浮き立たせ、姿を象り、華奢な体躯をしっかりと想像させた。
体勢を変えるたびに、プリーツの影が細い太ももの上で踊る。
まるで貞操を守るかのように深い黒を纏いながら、隙を見せつけるかのように露わになる肌の白さに何も思うなと言う方が無理な話だろう。
そんな邪な感情に蓋をしながら懸命に平静を保っている俺のことなど露知らず、俺の前で、俺以外の男の話を嬉々とする彼女は「そう言えば、」などと暢気なものだ。

「二口のこと気にしてた」
「鎌先さんが?」
「うん」
「結構な頻度で会ってんだけど」
「彼氏気取ってる二口ってどんな?だって」
「気取ってるってなに。ちゃんと彼氏なんですけど」
「うん」
「で、何て答えたわけ?」
「笑っておいた」
「ひでー。素敵な彼氏ですぅ、くらい言えよな。俺が可哀想」
「余計絡まれて話長くなるじゃん」
「うん、お前そういうとこあるよね」

普段は何を考えているのかさっぱり分からない女だけれど、時折ひどく現実的な面を見せる。

「でもやっぱ先輩だなぁって思ったよ」
「今の流れのどこにそんなもんがあったっけ」
「最後にね、肩ポンってして。仲良くしてやってくれなって言ってくれた」

再現をしているつもりなのか自分の右肩を軽く叩いて見せては、嬉しそうにはにかむ。
それが妙に面白くなくて、埃でも落とすかのようにパシパパシと払えば、華奢な身体が傾いた。

「え、なになに。痛いよ」
「知ってる?鎌先さんにタッチされたら腹筋8コに割れるって」
「そんなわけないじゃん」
「そんなわけねーよ」
「弄ばれた」
「黙って消毒されてろ」
「ひどい後輩だなぁ」
「いいんだよ。人のカノジョ気軽に触る方が悪い」
「今日の二口は素直だ」
「俺はいつも素直です」
「ハイハイ」
「扱い雑くね?」
「気にかけてもらえてよかったね」
「なー。鎌先さん俺のこと好きすぎだよな。奪われないように気を付けろよ」
「ハイハイ」

分かった分かった、としたり顔を浮かべては、ふたりきりの部屋に心地よい笑い声が広がった。
分かっているのだ。
何も考えてません、とばかりに適当さを滲ませながらも、俺の本音のところをその眼差しは見抜いているのだろう。

「まー、でも、うん。ウチの先輩ってそういうとこあるよな」

何ひとつ具体的には言わなかったというのに、彼女は細めた目で「うん」と頷く。

「っつーか鎌先さんさぁ。人の心配より自分の心配した方がいいって。マジで。独り身拗らせた見本みたいになってるじゃん。青根に注意しとこ」
「青根はならないよ。絶対。大丈夫」
「お前、鎌先さんのこと嫌いなの?」
「嫌いじゃないよ!慕ってるよ!」
「そういうとこ俺こわいんだけど」
「二口がひどい」
「俺のカノジョがキレッキレでこわいんですって今度相談しよ」
「二口のために鉄壁が建てられるね」
「むさ苦しすぎんだろー」
「攻略できる気がまるでしないんだけど」
「あの鉄壁は手強いかんなぁ」

そんな相談を本当に持ちかけたとして、『お前が悪い』と言われることは目に見えているのだけれど。
彼女の中では、守られるべきは俺らしい。
両腕を精一杯に伸ばしてコートを守る先輩たちの姿が瞼の裏に焼き付いているせいで、俺を囲って聳え立つ壁を簡単に思い描いてしまった。
シュールどころではない光景に、思わず吹き出す。
遠慮なしにケラケラと笑えば、付かず離れずを辿っていた手にひんやりとした指先が重なった。
大切なものを握り締めるようにきつく、まるで自分のものだと誇示するように堂々と、俺を見上げる瞳は力強さを宿している。
こういう時はいつも、少しばかり真剣な話題が提供されることを俺は知っていた。
だから、一方的に握られていた手に応えるよう握り返す。
ちゃんと聞くから、と合図を送るように。

「分かってると思うけど一応言っとく」
「なに?」
「二口が大事に想ってるものを私が嫌うなんてありえないよ」
「ん。知ってる」
「それからね、」
「うん」
「大好き」
「ははっ、ついでかよ」

風に舞う羽根のように軽やかに、弧を描き綻ぶ唇は透とおる声で言葉を紡ぐ。
その表情は女の子″と称すにはあまりにも艶やかで、今まさに女″に移り変わる過渡期なのだとすると、一体何が彼女を作り替えたのか。
カノジョ、なんていう存在が健全な男子高校生をどっぷりと侵す甘美な毒だということを、こいつは分かってはいない。
けれど彼女自身という存在が、俺を扇情する最たるものだということをこいつは本能で理解しているのだ。
必死に理性を掻き集める俺を嘲笑うように、細いくせに柔らかな四肢で、幼さを残しながら匂い立つ色気を滲ませて、なけなしの意地や矜持を薙ぎ払う。
このままこの手を引いて、何もかも連れ去れたなら。
俺のものだとと嘯けたなら。
合せられていただけの掌から彼女の指と指の間に自身を捻じ込んだ。
まるで彼女の自由を殺すように必要以上に時間をかけ、何かを想像させるように手の甲を撫で、俺は試している。
彼女の示す答えが寛容か拒絶かを。
彼女が苦手としているそれっぽい、つまり、恋人同士だから許される艶のある雰囲気だけが満ちる空気を、すぅと吸い込んだ。

「俺も、分かってると思うけど一応言っとく」
「なに?」
「二口堅治は男です」
「ふはっ、知ってるよ」
「だからさ、」
「うん」
「もっと、俺を入れてよ」

何本もネジがぶっ飛んでいる頭のネジ穴に、ちょっとやそっとでは開いてくれない心の奥に、劣情を掻き立てるそのスカートの中に。
直接的だけれど煙に巻きながら、具体的なことは胸の中でだけ叫ぶ。
不思議な顔をすると思った。
何言ってんの?と首を傾げられるはずだった。

「いいよ」

返って来た即答は、光より早く俺を突き抜ける。
一度も視線を外さずにそう言い切った彼女は長い髪を耳にかけ、その手を俺の胸元へ伸ばした。
刹那、重力が増す。
引かれたシャツはくしゃりと握り潰され、ボタンが軋み、しなやかで小ぶりな唇が俺のそれを食むように覆った。
何も考えてない?
俺よりもずっと俺を理解している彼女を捕まえて、どうしてそんなことが思えたのだろうか。

「二口の全部をくれるなら、いい」

ふたりきりの部屋で、青白い光の下。
衣擦れするスカートだけが、時間の経過を知らせる。

「お前の好きなだけ持ってっていーよ」

奪われるのは彼女か、俺か。
引きずり込まれることもまた、然り。
触れたい、知りたい、感じたい。
与えたい、注ぎたい、満たしたい。
相反する矛盾を内包しながら、火が灯った熱い指先で波打つプリーツの中に仕舞い込まれた彼女のとっておきの秘密を暴きたい。
そこに詰まった何もかもを手に入れたい。
不安や恐怖を押し殺してまで俺を許した彼女に、報いたい。
いくらだってくれてやる。
お前が欲しいと願うものが俺の中に詰まっているのなら、一滴残らず全て差し出そう。
男と女、俺とお前、そんな境界線なんて取っ払って混ぜ合わせて、隔絶された世界の端っこでふたり、獣になる。

(二好に捧ぐ)

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