「久しぶりに、良い降り方してるなぁ」

渡り廊下の途中で足を止め、しとしとと穏やかに降り続く雨を眺める。
後ろを通り過ぎる気配からは「雨ウザッ。早くやめよなー」と間延びした低い声が聞こえるけれど、私は心の中でそっと、まだやまなくていいよ、と密かに呟いた。
雨は、嫌いじゃない。
むしろ好きなのだと思う。
傘は荷物になるし、髪はごわつくし、足元は濡れて汚れるし、制服は湿り気を含んで重くなるし、良いことは何もないのだけれど、雨が運ぶ埃っぽい空気や微かな光を受けて輝く間を眺める時間が、好ましい。
見上げる空は一面鼠色で、この雨がまだしばらく降り続ける予感だけを孕んでいた。



この学校で、同じ性別の生徒は全学年掻き集めても両手の指以下だ。
工業高校となれば女子の人数が極端に少ないことは珍しくないけれど、極端にその頭数を減らしている理由は悪評の他ならない。
何より評判という噂上の話だけではなく、事実柄の悪さはこの辺りでは頭ひとつ飛びぬけて有名な不良学校なのだから、好んでここへ通おうとする物好きな女子なんてものは言わずもがな、なのだ。
それでも事情があり、ここへ進学を決めた珍妙な人間が僅かながらにいる。
私もそのひとりだ。
一言で言えば、家庭の事情。
こんな学校でも一応は工業と名乗っているおかげで、その気になれば必要な資格を得る間口は開けている。
だからわざわざ、ここを選んだ。
数少ない女子はひとつのクラスにまとめられてはいるけれど、貴重な同性だからと言って親しくなれるかというと話は別で。
男の巣窟、しかもいまだケンカや煙草がステータスという狭い世界の中を肩で風を切って歩いているような連中の潜窟となれば、それらに媚びるかそうしないかに別れる。
そして大体が圧倒的に前者なのだ。 
頭数が少ない環境でそうなれば、そうではない立場など私しかいない。
こんな学校で過ごしていると、女という性別だけで厄介事はひっきりなしに舞い込むのだけれど。
あえて品行素行正しく過ごしていると、面倒がられて誰も寄りつかなくなった。
そんな過ごし方も三年目となれば、これが当たり前でこんな学校でも些か愛着は湧いてくるのだと知る。


ぴちゃん


ぴちゃん

朝から長く降り続く雨でできた水溜りに、屋根を伝ってできた大きな雫が落ちる度、雨音とは異なる響きが聞こえて来る。
いい音だなぁ。
ふと瞼を下ろして、耳を澄ませる。
擦るように歩く偉そうな足音も、口の悪い言葉遣いも、近くの体育館から届くこの学校には似つかわしくない掛け声やボールの弾む音も、雨音に紛れる様々な音は不思議と不協和音とはならずに鼓膜を濡らした。

「お、まだ降ってら」

はっきりと、どんな音にも紛れず届いた声色に慌てて瞼を開け、視線を向ける。
Tシャツの襟口で汗を拭いながら、鼠色の空を見上げる巨体に思わず目を見張ってしまう。
あまりに無防備だったことも手伝ってか、全く気配を感じなかった。
零された言葉はどうやら独り言だったらしく、私を気に留める様子も見受けられないのでそのまま受け流し、私も同じように再び顔を上げた。
どのくらい、そうしていたかは分からない。
何せ雨の日は、時間の流れが緩やかに感じるから。
5分だったかもしれないし、1分だったかもしれないし、体感では計り知れない穏やかな時間を背格好の厳つい男と並んで感じているというのは些か奇妙だけれど、何故か悪い心地は感じていなかった。


ぱしゃん

一際大きな滴る音に瞳を地面へと向けると、音同様一際大きな波紋が水溜りの水面に広がる。


「「あ、」」


そして重なる声の響きに、喉がきゅっと閉まる感覚に苛まれる。
恐る恐る顔を向ければ、同じく探り探りの様子でこちらに注がれる視線同士が絡みあった。
途端に心地悪さや居たたまれなさが全身を巡り、足早にこの場を去る方が良いとどこかで冷静な自分が囁いているのに、私の足はまるで根っこが張っていると錯覚してしまうほど重くて鈍い。
タイミングが全く見計れない中、顔に焦りを出さないよう努めていると「雨、好きなのか?」と三度目になる男の声が象った問いかけに、数回瞬きを繰り返した。

「割と好き、かな」
「へぇ。この学校にもまだそんな物好きがいたんだな」

問いかけには応えるという行為が、自ずと定められている。
だから、応えた。
既に視線は雨へと向けられながらも、ここから見える横顔が柔らかく目尻を下げた瞬間を私は見逃さなかった。
どこかのどかさすら感じる雰囲気に、「あんたも好きなの?」と今度はこちらから問いかける。

「そうだな、割と」
「確かに物好きかもね」

どちらからともなく漏れる笑みは、雨音を縫うように微かに届く。
降って湧いたような居心地の悪さはその瞬間、溶けるように消えていったような気がした。
それからまたしばらく、無言のまま何の変化もない外を眺めては肌に纏わりつく水気が層を厚くしていく。
不思議な感覚だ。
身体の中は温かいのに、表面だけがひんやりと冷たい。
そんな感触もまた気持ち良くて、結局この場を離れることなどできないままだ。

「今日の雨はいいな。こういう降り方じゃねーと、雨って感じがしないっつーか」
「あ、分かる。ゲリラ豪雨だっけ。あれはダメ」
「だよな。あれ見てると修行してる坊さんの気分になんだよ」
「何それ。修行したことでもあんの?」
「いや、ねーけど」

おどけるでも、ふざけるでもなく、淡々とした受け応えが印象的だった。
何せこの学校の連中は、突っかかるような物言いが基本なのだから、ごく“一般的”なものがこの場では非常に珍しく映る。
そこに三年近く所属している私も、とうにその“一般的”から遠退いてしまっているのだろうけれど、それらの類をいまだ遠巻きに見られるくらいには常識が残っていると信じたい。
その微かに残っているものが、探していた何かを見付けたようにしっくりと染み渡る、そんな様変わりな雰囲気を覚えさせた。
つい今しがたまでただ同じ学校に属していただけの相手に、感じるものではないのだろうけれど。
感性の一端に重なるものを感じると、途端に距離が縮まるような気がするのだから現金な話だ。
だけど、誰かにこんな話をしたのは初めてだった。
自分の感じているものが、他人とは相容れないものだということは幼い頃から何となく察していたから。
常識的感覚がずれていることが露呈すると、多数に混じって生きていくのが極端に難しくなる。
誰に迷惑をかけるわけでなくとも、“おかしい”とレッテルを貼られてしまえばずっとそれが付き纏う。
取り立てて鈍感ではない分、そういったことを嗅ぎ分ける能力はそこそこ備わっていた。
だから誰にも、言わなかった。
“おかしい”“変だ”と思われるほど厄介なことはないと、知っているから。
それなのに、何をぺらぺらお喋りしているんだか。
心の片隅でそう嘲る私が確かにいるのに、何故か心安さが尾を引いてしまう。

「言葉もダメだよね。ゲリラ豪雨って、上手いこと言ってるとは思うけど情緒がないし」
「あんな降り方したら、情緒もクソもないだろ」
「そういう意味じゃ的を射てるってことかぁ」
「かもな」

隣り合うその肩は、くつくつと喉を鳴らすように笑う。
落ち着いて笑う男だと、思った。
そしてまだそんな人間がこの学校にもいたのだと、感激にも似た感情が兆す。
世間じゃありえないと一蹴されることが当たり前に起こる日常で、久しぶりに平穏を肌で感じたからかもしれない。
心地良さの理由は、きっとそうに違いない。
とっとと退散したいと既に欠片も考えていない原因をそう証明付けて、しっとりと潤いを宿す唇を開いた。

「こういう雨も悪くないけど、夕立が一番好きかな。雲の隙間からちょっとだけオレンジ色が滲んでて、雨粒が色付くのが綺麗でさ」
「分かる気はする」
「夕立って大体急に降るでしょ?慌てて折り畳み傘を差すんだけど、面積が小さいから爪先がはみ出るんだよね。そこからじわじわ雨が染みてくる感覚が何とも言えないっていうか…家帰ってからはびちょびちょ加減にうんざりするんだけど、いつもの帰り道が少し特別に感じるのが好きなんだと思う」

掌を上に向ければ、屋根に弾かれた雨粒が着地する。
冷たさすら感じないほど僅かな切れ端を握り締めた。
徐々に強まりを見せる雨足に、さんざめく音が一層賑やかになる。
それが何だか嬉しくて、小さく弾む胸に密かに口角を上げれば、「それ、ウチの監督には言わない方がいいぜ」と微笑を交えた声色に顔を上げた。

「聞かれたらロマンチスト呼ばわりされんぞ」
「…されたんだ?」
「うるせーよ」
「変人、じゃないだけ良いんじゃない?」
「そっちのがまだマシだ」

首の裏側に手を当てて、ふぅと溜息の音。
途絶えた会話の隙を突くように、体育館からは少しの間止まっていた活発な響きが再開された。
キュッと摩擦音、ダムッと跳躍音、「マグミはどこ行ったんだよ!?」と怒号。
ちらりとその横顔を覗いたのは、どこへ行ったと探されている当人がここにいることを私が知っているからだ。
私に届いていたのだから、この男の耳にもこの空気に似つかわしくない声は聞こえているのだろう。
それでも、様子は変わらない。
相変わらずぼんやりと外の様子を眺めては、和らいだ表情を浮かべていた。

「薄っすらと暗い教室とか窓に付いた雨粒とか、そういうのも好きなんだけど。体育館の中はまた違った雰囲気なんだろうなぁ」

快活な音が溢れるその場所を視線で辿ると、追いかけるようにその男もまた同じところにそれを投げる。

「薄暗いのは同じだな。ただ、音が違う」
「音?どんな?」
「屋根を叩きつける音がすげー響いてんだよ。床に足付けてるとその振動が伝わってくるっつーか」
「そうなんだ。いいね、心惹かれるよ」

両手を軽く合わせ、瞼を閉じながら唇に寄せる。
まるで新しい玩具でも見つけた子どものように逸る想いが、必死にその感覚を想像させた。
鼓動のように微かなものなのか、太鼓のように激しいものなのか。
私はその感触を知らない。
だから分からない。
けれどきっと、素敵なもののようには感じる。
うずうずと育つ好奇心を抑えていると、ぶはっと一際大きく隣人が吹き出した。

「やっぱお前、相当物好きだな」
「そう?」
「まぁ、俺も人のことは言えねーか」

琴線に触れるとこは似てるみてーだし、と色々な意味でまさかこの学校に在籍している間で聞けるとは思ってもみなかった言葉に、瞳が丸まる。
大きな身体が一歩、後ろに下がった。
流石にそろそろ戻らなければと思ったのだろう。
今度は肩を用いて顔の側面に僅かに残っていた汗を拭うと、身体を体育館側に向けながら視線だけをこちらに寄越した。

「もっと無口で無愛想なやつかと思ってたけど、案外良く喋んのな」
「私のこと知ってたの?」
「そりゃ、数少ない女だし」
「その貴重な女が、とんだ物好きで残念だったでしょ?」

少し皮肉った物言いに、「いや」と笑みを携えた表情が瞳に焼き付く。
思わず追いかけてしまいたくなるほどの強い興味を惹きながら、既に背を向けている後ろ姿に釘付けとなっていた。

「面白い女だと思ったよ」

変わらない雨音の中に、遠ざかる足音がひとつ。
背中は見送らなかった。
今生の別れでもあるまいし、この狭い世界の中ではどうせすぐに顔を合わせるだろう。
だけど少しだけ、名残惜しさのようなものが残っていた。
それは今日が雨だからだろうか。
それとも、と思案に入ろうとする思考を無理矢理留め、ふるふるとひとり頭を振った。

「間久見芳武、か」



ぱしゃっ

落ちた雫に、波打つ輪の広がり。
興味を抱くものに出会うのはいつだって、雨の日だったなと思い返す。
雨の日の体育館の心地は知らないけれど、この情感なら知っている。
微かに根付くそれはまるで、地面に弾かれた雨水がひたひたと爪先を浸してゆくような、あの感覚に似ていた。



(title by 誰花)

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