映画でも観ようか。
週の初めに、学校の友人たちとそんな話題が持ち上がった。
取り立てて予定もなく、どうせひとり悶々としていることは想像に難くなかったので、二つ返事をした。
集まったのは私を含めて4人。
観ることになった映画は、女子高生らしく人気俳優がウリの純愛もの。
感動したね、と純粋に楽しんでいたみんなに表面的には同意したものの、私はきっとその映画を観るには相応しくない心持ちで挑んでいたように思う。
上映中、捻くれた羨望で斜に構えていたのだから。
お昼過ぎには映画館を後にし、ファストフード店で適当に時間を潰している時だった。
どのシーンが良かっただの、どこが感動しただの、そんな論議が飛び交う最中、普段はほとんどうんともすんとも鳴らない携帯が、鞄の中で震える。
どうせメルマガが何かだろうとスルーを決め込むけれど、メールの着信にしては長く主張を続けるそれに仕方なく手を伸ばした。
ひょいと拾い上げて確認した画面には、思わぬ文字の羅列に胸が閊える。

着信:トキワ

この一年、全く活用されていなかった番号と共に表示されていた。
何で今更、と思いつつ恐る恐る画面に指を置いたところで、その着信がぴたりと止まる。
それでも尚持っているものが小刻みに震えているのは、私の手が、身体が、震えているからだ。
尋常ではない動揺を滲ませた私に、友人たちが「どうかした?」と心配してくれるけれど、その温かな気遣いに上手く立ち回れやしない。
どうしよう。
かけ直すべきだろうか。
いや、でも、連絡をくれる理由なんてあるはずがない。
きっと間違えてかけてしまったのだろう。
だったらこのままそっとしておくべきじゃないか。
そうだ、そうしよう。
まるで借金取りから逃げ回るような心境で臭いものには蓋をすることを選べば、「かけ直さなくていいの?」と迷い迷いの私に友人のひとりが声をかけた。

「うん、多分大丈夫」
「結構な長さで鳴ってたけど」
「間違えたんじゃないかなぁ。最近全然関わりないし」
「でも大事な用だったかもしれなし、一応かけ直してみなよ」

ね?と妙に気圧されて、仕方なく携帯を片手に店内を出た。
深呼吸を繰り返す。
何度も、何度も、繰り返す。
そうしてようやく意を決し、通話のマークに指を這わせた。
不必要な力を込めて押されたそれは、簡単にあの男へと繋がる。
けたたましい心臓を持て余しながら、呼び出し音の空々しさに眩暈がした。
何を言おう。
何を言えば良い?
久しぶり?元気?どうしたの?何かあったの?
そんな矢継早な質問を飛ばしていいものか、考えあぐねていると電子音が途絶えた。

『ハイ』

機械を通して聞く声は、記憶しているとおりの声色で響く。

『やぁ、久しぶりだネ』
「うん」
『元気だった?』
「まぁ、それなりに」

私が投げかけようとしていた質問は全て、トキワから投げかけられてしまう。
数少ないボキャブラリーのページを必死に捲りながら、何とか声の震えを抑え抑えに答えを紡ぐ。
電話してくれたみたいだけど、とようやく本題へ踏み入れると、『あ、そうだったネ』と屈託のない笑みが漏らされた。

『あのサ、今から時間ある?』
「…は?」
『ちょっと頼みたいことがあるんだヨ』

頼みごと?私に?
顔の見えない相手に訝しく眉間に皺を寄せれば、『何人か友達誘って来てくれないかなァ』などとのたまった。

「え、今から?」

着信元がどういった人物かを熟知している立場としては、何とも似つかわしくない言葉だと驚く。
合コンでもしようと言うのか、と探るように尋ねると、『ちょっとした労いってところだネ』と良く分からない返答に首を傾げた。
とりあえずこれからどうするかを思案していたところなので、ダメもとで彼女たちに提案してみれば、意外にも乗り気だ。
みんなが良いと言うのなら、と伝えられた場所に足を運ぶと、真っ黒なジャージ姿の集団がそびえるように佇んでいた。
同じ格好の中に紛れるように立っているのに、私の目は迷うことなくひとりを見付ける。
まったく、嫌になるよ。
自嘲気味に溜息を漏らせば、私たちに気付いたトキワが近付いた。

「急にムリ言ってゴメン」
「丁度何するか困ってたところだから、それはいいんだけど」
「うん」
「まぁでも、ちょっと驚いたよね」
「そうだよネ」

唐突な呼び出し、しかも女の子を連れて来てくれというらしくない頼みごと、ちょっとした胸騒ぎみたいなものを覚えて駆けつけた場所には、トキワのチームメイトだという男たちがいた。
向こうの人数に対して明らかに頭数の足りないこちらとしては、巨体の群れに思わず慄いてしまったのだけれど。

「助かったヨ。ありがとう」

隣りに並んだトキワが、苦笑いを浮かべる。
色々聞きたいことはあるけれど、見知らぬ集団の中に友人を誘った以上気配りは当然必要で、些かおっかなびっくりな彼女たちを気にかけていると、「みんな良いヤツだから」なんて私の憂いを汲み取るように言った。

「トキワのチームメイトなんだから、そんなの心配してないよ」

そんなこと、ちっとも疑ってはいない。
ただ知らない相手のところに突然放り込まれたら、誰だって戸惑うし距離感に迷う。
おまけに選りすぐったとも言わんばかりの大きな身体に、威圧的に映るお揃いの黒、そんな集団から探り探りに接せられているのだから、連れて来た手前責任がある。
友達の反応が気になっただけだ、と伝えれば思ってもみない答えだったのか、一瞬呆けてから笑顔を咲かせた。
正直、勘弁してほしいと思う。

顔が、見たいなぁ。
声が、聞きたいなぁ。
名前を、呼ばれたいなぁ。
あわよくばこっちを向いて、笑ってほしいなぁ。

そんなことばかり考えていたのに、何年も繰り返してきたのに、再会して数分の間に全て叶ってしまうなんて明日この世が終わります、と言われても驚かないくらいだ。
当たり前に話せていた頃は、どんなふうにしていたっけ。
記憶を手繰り、不自然さを感じさせないよう、「で、急に呼び出された理由は?」ともっともらしく尋ねれば、トキワが周りを見渡した。

「うち、男子校だろ?」
「そうだね」
「女の子が全くいないよネ」
「そうだろうね」
「だからさ、いつも女の子呼べって言われても今までは適当にはぐらかしてたんだけど」
「今日はそうしなかったんだ」
「うん、まぁ…電話でもいったとおり、今日くらいは労いってことで協力してもいいかなってサ」

お前しか女の子を呼べない、と迫られ、今日は致し方なく私に連絡を入れたので、この奇妙な集まりが実現したらしい。

「話は大体分かったけど…」
「うん?」
「何で私なの」

顔は前に向けたまま、ちらりと瞳だけをトキワに注いだ。
ツテなんて、いくらでもあっただろう。
共通の友人の中には、こういったことに非常に長けている女の子もいる。
その子に頼めば、この人数に見合う頭数だって揃えてくれたに違いない。
それなのに、対極にいるような私に白刃の矢が立ったなど、どう考えても不自然だった。
だからそう尋ねたのだけれど、トキワは「んー…そうだなァ」と答えを探った。

「言われてみればそうだネ。でも他に誰も、思い付かなかったんだヨ」

困ったふうに頭を掻く様子に、毒気を抜かれてしまう。
そしてそんなその場を収めるだけの言葉にすら、喜びを感じずにはいられない自分が恥ずかしかった。
晴れて都合のいい女になれたわけだ。
願ったとおり、がっつり利用されて本望。
そのくらいに思っていなければ、期待と虚しさで胸が押しつぶされそうだった。
挫けそうになったことなんて、数えきれない。
その度、諦めたくて蓋をした。
何度も、何度もだ。
だけど結局蓋ごと溢れて流れ出る感情に、私はいつだって振り回されてばかりで。
大所帯で陣取ったファミレスでは、私はあえてトキワの近くを避けた。
ご飯を食べ、ドリンクバーで粘りながら色々な話をしていると、友人のひとりが「今日も部活だったの?」とそのジャージ姿を指摘した。
何とか出来上がった和気藹々とした空気が、途端にピンと張りつめる。
もちろんそれに気付かないほど空気の読めない私たちではなく、何の気なしに尋ねた友人は“いけないことを聞いただろうか”と焦りを滲ませた。
何とも言えない雰囲気を分け入るよう、場の空気を乱さない配慮を滲ませて「今日試合で負けちゃってよー。楽しいことでもないとやってらんなくてさ!」と黒ずくめのひとりがおどけた調子で告げた彼らの今日の出来事に、私は息を飲んで瞼を伏せるしかなかった。
泣き真似すら披露する姿は、この時期に負けるということが何を意味しているのかを知っている私に、重く圧し掛かる。
その言葉に含まれる意味を深くは汲み取れない友人たちは、同じような調子で「じゃぁ発散しなきゃね!」と返した。
でも、それで良かったと思う。
湿っぽい雰囲気になってしまっては、彼らのせっかくの気遣いが台無しになるからだ。
何の気なしに接せられる方が楽な時もあるのだろう。
明るく取り持つ役割は友人たちに任せ、ドリンクバーで注いだオレンジジュースを吸いながら、私はずっと何か相応しい言葉を探し続けていた。
そうしていると、空がすっかり黒に包まれる。
どこからともなく解散の兆しが漂い始め、同じ方面へ帰る者同士でそれぞれ集まり、最終的には私とトキワのふたりきりになった。
願ってもない立ち位置のはずなのに、こんな日が来ることを心待ちにしていたはずなのに、今にも逃げ出したい気持ちでいっぱいになってしまうのは何故だろうか。
エナメルバッグを揺らしながら、隣りを歩くトキワを見上げた。

「試合終わりなのに、あんなに騒げるなんてどんな体力してんの」
「毎日しごかれてるおかげかナ」
「映画観ただけで私なんて結構ヘロヘロだよ」
「それはちょっとマズイんじゃない?」
「分かってますよぅ」
「前から体力ある方じゃなかったもんネ」
「普通だよ、普通。部活やってない人はそんなもんだよ」
「そうかなァ」
「…残念、だったね」
「うん」

ぽつりと零した言葉に手短な返事が届けば、波紋を広げるように沈黙が流れる。
結局気の利いた言葉のひとつもかけられないまま、随分直接的に投げかけてしまったのだけれど、トキワは取り立てて気にしている素振りも見せずに静けさの中を歩いていた。

「何か懐かしいネ。良くふたりで帰ってたっけ」

思いがけず重い空気になってしまったことを気にしてか、話題を変えるために投じられた言葉に心の内側がわだかまる。
私に対してそれを言うのは一体どういう了見だ、と問い詰めたいと思いつつ、そうもできない腰抜けさを嘲笑うように、ここであった出来事は欠片ほどもこの男に残ってはいないのだと目の当たりした。
私はこの数年、トキワに対する想いをどこに収納したものかと悩み続けているのに。
少しずつ整理しなければ、とやっと大きな棚に仕舞い込もうとしていたのに。
この男ときたら無遠慮に棚の取っ手に手をかけ、何の躊躇いもなく開けてしまうのだ。
ひどく無神経な言葉を囁きながら。

「お互い、あんまり良い思い出でもないでしょ」

やっとの思いで絞り出した言葉は、あまりにも可愛げがなく墓穴ばかりを掘り進める。
それでも私は、口が裂けても懐かしいなどと言えるはずもないのだ。
留まっている感情は、今だにトキワを求めている。
思い出話でも何でもなく、現在進行形で生き続けているそれを、かつてあったもののように扱われるのはあまりにも虚しい。
うっかり立ち止まってしまった私に、少し先を進んでいたトキワの背中も止まった。
あの頃より、随分逞しくて立派な背中だ。
ああ、いいなぁ。
わだかまったままでも、私はそう思ってしまう。
どこまで行っても、報われない。
いつまで経っても、救われない。

「まぁ、迷惑かけてるって自覚はあったし。何より私、相当しつこかったもんね」
「そんなこと、思ってないヨ」

じゃなきゃ友達を続けられるわけないでショ。
喜んでいいのか悪いのかすらも分からないまま、曖昧に笑って見せればトキワも困ったふうに笑った。
友達、かぁ。
いや、そうなのだけれど。
友達として大事と、女の子として大事と、そこにどれだけの差があるのだろうか。

「通算三戦四敗中。この粘り強さ、就職とかで評価されないかな」

結構な頑張りでしょ?と含ませれば、トキワが恭しく首を捻った。

「…一回多くないかい?」
「そうだね」
「俺、何かしたっけ」
「彼女ができた」

白々しく吐き捨てると、トキワは反対側に再び首を捻る。

「バスケばっかでそんなのいなかったけど…?」
「去年くらいに、そう聞いた」
「いや、でも本当にいないから」

顔の前に出した片手が、ナイナイと振られる。
私があれだけ悩み、涙したことを一瞬で否定され、思わずぱちぱちと瞬きを繰り返した。

「…私が打ちのめされた意味とは」
「知らないヨ。こっちだって身に覚えないし」

まるで変な噂に飽き飽きだとばかりに溜息を漏らしては、「噂なんてあてにならないヨ」とごもっともなことを言う。
そんなことは改めて言われなくても分かってはいるけれど、接点を失っていた時期にはそれこそが頼みの綱だったのだ。
地元の友人たちに知れ渡ることになってまで流した涙は、どうにも無駄玉だった感は否めない。
はぁ、と今度はこちらが盛大な溜息を零せば、トキワが夜に溶けるように微笑んだ。

「ほんとはサ、来てくれるって思ってなかったんだ」
「呼びつけておいてそれはないんじゃない?」
「だよネ。俺もそう思う」
「ちょっと神経疑ったよね」
「でも来てくれた」
「…困ってそうだったし」
「うん」
「好きな相手の役に立ちたいって思うのは、普通のことでしょ」

もともと大きな黒目が、丸く育ってくるりと揺れる。
今更そんな気があるなんて知らなかった、などと無神経なことを零そうものなら、美しく整ったその顔面に拳をひとつ捻じ込んでももはや誰も私を責めやしないだろう。
だけどそんな言葉を本当に向けられたなら、複雑に入り組んだ感情のせいで動けなくなることも分かっているのだ。
何より、私がトキワを殴るなんてできやしない。
こんな面倒な想いが宿ったあの瞬間から、私はこの男に触れることさえままならないのだから。

「好きだよ。今でも選んでほしくて必死だよ。ずっと、ずっと、変わらずトキワが好きだよ」

本当は、さっさと次の恋なんてものを始めたかった。
その恋は、どっぷりとトキワに染まった心を軽やかに攫ってくれるような、そんな劇的で抗いようのない運命を感じる、決して庶民的な滑落ではなく小説みたいな陥落で、次にトキワと会った時は「あの頃は迷惑かけてごめんねー」なんて笑って言い退けてやろうって、そう思っていた。
こっちから、ごめんねを言ってやろうって。
だけど顔を見てしまったら、結局ダメなのだ。
ふたりで歩いた帰り道、その時覗き見た横顔、笑った目元、黒く真ん丸な瞳、柔らかな声、広い背中、無条件にそこに佇むその姿全部が、私を振り出しに戻してしまうのだ。
好かれたい。
選ばれたい。
愛されたい。
心がわだかまり、ひりつくほど、その想いは強くなる一方で。
整理整頓したはずの想いを、引っ張り出しては抱き締めた。
これを失くして生きてはいけない。
培われた想いは結局仕舞い込めずに私の心を握ったまま、見渡す限りトキワで埋め尽くされている。

「顔面に群がるそのへんの女と一緒にしないで。私は、あんたの背中に惚れたんだから」

何てことはない光景だった。
むしろ、良く目にしているものだった。
いつも見ていたはずのそれが突然特別に映ったあの日から、私はその背中に焦がれてやまない。
淡々としながらも、本当は誰よりも熱いものを持っていることを知っている。
窮屈なことは嫌いだと言いながら、託された想いに応えたいと必死に足掻いていることを知っている。
適当にやっていてもそこそこの成果は得られるのに、あえて困難な方を選んでしまう不器用さを知っている。
知っているから、好きになった。
あの日、あの時、トキメキを覚える素敵なエピソードはもちろんのこと、人気俳優がウリの純愛映画のように感動と涙の一大スペクタクルもなければ、目が眩むようなドラマもなかった。
万人受けする事件も、誰もが共感する出来事もない。
だけど私には特別で、鮮やかで、珠玉の物語だった。
始まりだった。
まだ本人すら気付いていないトキワ自身を、私はずっと見ていた。
唐突に降って湧いたものではなく、なるべくして私はトキワを好きになったのだ。
些細な、それこそ取るに足らない日常の積み重ねが、私をそうさせたのだと今なら思う。
命からがら助けてもらったわけでもなく、雨に降られて濡れ鼠になっているところに傘を差し出されたわけでもなく、おおよそ劇的な恋の訪れではなかったけれど。
魔法をかけられたようにふわふわと夢見心地の足取りで、トキワの隣りを歩いていたのは他の誰でもない、私なのだ。
例えその魔法がピンポイントで私にしか施されなかったものだとしても、私はどうしたってこの男が好きなのだから仕方がない。
色々なことを中途半端にしかできない性分でも、気が多くてあれこれ手を出しては痛い目を見るタイプでも、分かっていながらその悪癖を取り立てて直そうともしないダメ人間でも、トキワに対する想いの深さと一途さだけはどこの誰にでも、何なら地球を飛び越えてNASAが血眼で探しているであろう宇宙人にでも、胸を張れると自負している。

私は、トキワが好きだ。

三戦四敗(内一敗は完全に噂に踊らされた空回りの痛み)を今後どれだけ記録更新しても、いずれ私が妥協という得意技を駆使して身の丈にあった男と出会い、そこそこの付き合いを経て結婚し、子どもを授かり、「まだ死なないのか、このババアは」と家族に思われるほど長生きをして天寿をまっとうし、人生を振り返ったなら、私はきっとトキワを思い出すのだろう。
それが諌められることだとしても、タイタニックのかの名台詞をパクって「女の秘密は海より深い…」など最後の一言を残し、この想いを正当化してやるくらいの気概もある。
決して恥じることではない。
改めて“好き”を声に乗せた刹那、そう思えた。
だから俯かなかった。
きちんと、その瞳に視線を合わせた。

「あー…もう。そこまで必死に想ってもらえて、嬉しくないわけないヨ」

帰る途中の閑静な道の真ん中で、トキワがしゃがみ込んでで頭を抱える。

「参りました。降参です」

そして両手を小さく掲げ、私を見上げる顔は満面の笑みと言っても過言でないほど、晴れやかな表情を見せた。

「喜んでもらえて何よりだけど、私はあんたを喜ばせたくて言ったわけじゃ…」
「うん、分かってる」

満足気に口元を綻ばせながら、すっと手が差し出された。
引っ張り上げてくれ、ということだろうか。
やっぱり疲れていたんじゃないか、伸ばされた左手を握るために右手を選んだ。

「とりあえず、手でも繋ごうか」

予想もしていなかった言葉と共に、親切で差し伸べた手に重みが走る。
踏ん張るバランスが取り辛くなったのは、左手ではなく右手が預けられたからだ。
言いたいことは色々あった。
確認しなければならないことも、同じくらいにあった。
なのに、何もかもを都合良く飲み込んで簡単に繋げてしまうのだから、結局先に好きになった方が損をする世界なのだ。
私がずっと伝え続けていたことに言葉では応えてもらえていないくせに、嬉しくて泣きそうだなんて、“恋は病”と言った過去の偉人に賞賛を讃えたい。

「手、堅いね」
「毎日ボール触ってたらこうなっちゃうんだヨ」
「顔には似合わない手だけど」
「ひどいなァ」
「でも、トキワらしくて好きだよ」

右手と左手、指と指を絡めて近付いた距離が、トキワの表情を良く伝えてくれる。
頬を掻きながら、「物好きだネ」と些か照れた様子が手に取るように分かってしまうので、これはこれで少し考えものなのかもしれないけれど。

「私、トキワにだったら何されても喜べるもん」

物好きと評されたことに全くの本心でそう返せば、何故かこっぴどく叱られた。
トキワがガミガミ言うのは珍しい。
その横顔をじっと見つめると、ふいと顔を反らされる。

「そういうの、男相手には反則だから」
「…そんなつもりで言ったんじゃないんだけど」
「分かってる。分かってるヨ。でも勝手に脳内変換しちゃうんだヨ」
「何だ、トキワでもそういうとこあるんだね」
「そりゃあるサ。当たり前だろ」
「うん」
「幻滅した?」
「まさか。逆にちょっと安心した」
「いや、だから…」
「トキワを、身近に感じた気がする」

追いかけ続けた背中は何度も見失った。
その度に馬鹿らしくなって、諦める理由をいくつも作るのに、結局振り出しに戻って思い知らされる。
これからもきっと、そんなことの繰り返しなのだろう。

「トキワ」
「ん?」
「ううん、何でもない」
「えー、気になるなァ」
「諦めなくて良かったって、思っただけ」

顔が見たくなったり、声が聞きたくなったり、名前を呼ばれたくなったり―――でも、こっちを向いてくれるから、笑ってくれるから。

トキワが好きだ、誰よりも。

そんな確認を今日も今日とて繰り返し、私は一日を終えていく。



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