好きな男がいる。
小学校と中学校、通して9年同じ学舎で過ごした相手だ。
私がその男を好きになったのは、中学三年の秋のこと。
偶然一緒になった帰り道を、ふたり並んで帰った初々しい思い出から始まる。
それまでただの友達と思っていた相手と、宿題やテレビの話をしながらただ帰り道を辿っていたのに、何故かその時に限っていつも見ている姿が違って見えた。
バスケをしているところを見ても、ギターを掻き鳴らしている姿を見ても、周りがどれだけキャーキャー騒ぎ立てても、ちっとも“特別”は降りかかって来なかったのに。
何てことはない景色に溶け込んでいる背中が、突然特別に響いたのだ。
きっかけなんて分かるはずもない。
だって私たちは、ただ帰路を進んでいただけなのだから。
すぐに忘れてしまうような世間話をちらほらと交わして、歩いていただけ。
命からがら助けてもらったわけでもなく、雨に降られて濡れ鼠になっているところに傘を差し出されたわけでもなく、おおよそトキメキを覚える素敵なエピソードなど、そこには何ひとつ存在していなかった。
どこにでも転がっているシチュエーションで恋が始まるなんて、当時の私ときたら“そんなバカな…”と思わず呆然としたものだ。
恋に夢見るお年頃のくせに、実際恋に落ちたタイミングは恐ろしく庶民じみていて、私は恋ですら一発逆転ホームラン、セレブな話題に満ち満ちて…なんてことすらないごく平凡な道筋を辿るのかと軽く絶望を覚えた。
ただ、好きになった相手だけはごく平凡から頭ひとつ分抜き出ていただけに、余計に性質が悪いのだけれど。

「じゃぁ気を付けてネ」
「うん、また明日」

腹が立つくらいイケメンだな、と思うことは多々あった。
淡々と何事もソツなくこなす様子を、嫌味ったらしいやつと思うことも同じくらいあった。
神様からの贈り物をひとつも零すことなく生きてきたら、こんな人間が出来上がるのかと思うくらいの男だった。
けれど一度も、世界が塗り替えられたように見えたことなどなかった。
なのにどうだろうか。
ついさっきまで友人だった男の去りゆく背中すら、ひしひしと“特別”を押し売りしてくるくらいだ。
とにもかくにも、こうして私の恋はありきたりな始まりを告げた。



多感な時期。
まさしくその一言に全てが詰まっているような思春期の全てを、私はその男のために注いでいると言っても過言ではない。
何か、素敵かもしれない。
そう思ったが最後、私は呆気なくトキワに夢中になった。
だからと言ってキャーキャー騒ぐことはしなかったし、今までの間柄を壊してしまうようなヘマもしなかった。
今までどおり顔を合わせば言葉を交わし、時々軽口を叩いたり、良き友人関係に徹していた。
それでも、私だって恋する乙女であることに変わりはない。
名前を呼ばれれば舞い上がり、声をかけられれば喜び勇んで振り返り、帰り道が一緒になると近い距離に心臓を煩くさせた。
日に日にどころか、一分一分、いや、一秒一秒想いが募っていく。
どんどん膨れ上がる気持ちを上手い具合に循環させ、発散させる術を子どもの私が持っているはずもなく、『容量オーバー!ちょっとこれ以上は仕舞い切れません!』と、限界を知らせる警報が頭と心臓から発せられ、これが世に言う告白をするタイミングなのではないかと焦った。
堅実に積み重ねてきたものを焦りで足元を危うくさせ、やっぱりこれ以上隠しておくことは無理なんだと焦りが焦りを生み、私は焦りに背中を押されて焦って言った。

「私、トキワが好きだよ」

トキワが部活を引退して早い時間に帰るようになり、偶然邂逅した何度目かの帰り道。
言った。
私は確かにそう、言った。
少し前を歩いていたトキワは驚きを色濃く浮かべた面持ちで振り返り、まるで聞き間違えたとばかりに首を傾げる。
焦りに身を任せてしまったとは言え、この一大事を聞き間違いやなかったことにされてしまっては、私のこの緊張も溢れ出る想いも何もかも無駄にされてしまう気がして、もう一度同じ言葉を告げれば、トキワは小さな溜息を吐き出した。
ひどく残念そうに。
何も言われなくても十分すぎる答えだった。
もちろん人としての常識を兼ね備えているトキワは、聞き間違いにもなかったことにもせず、きちんとNOを突き付けたのだけれど。
上手くいくとかいかないとか、そんなことすら考えずに突っ走った結果は、思った以上に大きな傷を残すこととなった。
拒否を目の当たりにすれば、少しはこの感情も落ち着きをみせてくれるだろうか。
持て余していたものが、静かに熱を引いて行くことだけを期待していたけれど、どうやら私にはそれすら許されていないらしい。
ごめんネ、と伝えられたにも関わらず、この想いは熱を手放すどころか加速の一途を辿った。
男女間において、好意をいう感情は通じようが通じまいが伝えてしまった時点で、その関係性を大きく変える代表格のようなものだ。
けれど私たちは、そんなに大きな変化を迎えることはなかった。
私とトキワの間に色恋沙汰のやりとりが一瞬でも行われたことは誰も知らず、そして結局誰も察することがないほど、私たちはいつもどおりだったのだ。
顔を合わせば言葉を交わし、時々軽口を叩いたり、良き友人関係に徹していた。
まるであれは夢だったのではないかと思うほど、立派に友人関係を築いていた。
それは9年、同じ学び舎で日々を過ごしていたからか、トキワにとってあの手の出来事が珍しくはなかったからか、その理由はいまだ分からないけれど。
とりあえず私たちは、何も変わりはしなかった。
そうして季節は冬真っ盛りとなり、お互いの進路が決まり、あとは卒業を待つばかりという立場になった頃、何気ない日常から始まった恋は何気ない日常を積み重ねて再び、容量オーバーを迎える。
一度失敗している手前、流石に今回は冷静にならざるを得なかった。
迷い、葛藤、色々なものを天秤にかけた。
それでもやっぱり、トキワの独壇場。
どれだけ考えたところで、既に私の中でトキワの存在は一等大きく重く、特別なのだ。
慎重に慎重を重ねても、焦った時と何ら変わりない答えしか導き出せないのだから、これ以上考えてばかりの頭でっかちでいたって仕方がない。

「私、やっぱりトキワが好きだよ」

それは卒業式の朝のこと。
上手くいくとは、思っていなかった。
焦りに乗せられた前回とは違い、今回突き付けられるNOはきっと私をどん底に落とすだろう。
そうなれば私は間違いなく泣いてしまう。
だけど卒業式だ。
今までに別れを告げ、終わりを迎え、名残惜しさや寂しさに涙する日だ。
泣いていたって誰もおかしくは思わない。
そんなところまで意地らしく打算を張り巡らせて、私は覚悟を決めた。
言った。
私は確かにそう、言った。
そして案の定、トキワは私にNOを突き付ける。
ごめんネ、とたった一言だけを。



それからはお互いの進学先に進み、9年続いた縁は呆気なく終わる。
トキワの学校が男子校であることは知っていたので、そんな些細なことにいまだ安堵を感じてしまう自分がバカらしくて堪らないけれど、離れたところで私に宿る想いが廃れていく気配はなかった。
我ながら、呆れるほどしつこい。
始まりはあんなにも取り留めのないものだったのに、どうしてこんなにも執着しているのだろうか。
何度も頭を巡るそんな疑問は、あの日のトキワの後ろ姿を思い出すだけで消されてしまうのだ。
本当に、バカみたい。
分かってはいても、どうにもならないのがこの気持ちの厄介さだろう。
トキワのいない学校生活を送る中、繋がりは意外にも消えはしなかった。
それは中学までの友人関係が、お互い相当に重なっているという環境に助けられていたと思う。
始まったばかりの新生活から逃げるように、集合をかけられることも少なくなかった。
既に気心が知れている相手と時間を共有したい、という気持ちは分からなくはないし、もしかしたらトキワが来るかもしれないと淡い期待を捨てきれずに、私はどれだけ無理をしてもその集まりには顔を出していた。
毎回ではないものの、数回に一回は私の特別を一心に背負う男がその場にいるので、どうしたって期待を止めることはできない。
大勢の見知った集団の塊でも、私はすぐにそのたったひとりを見つけてしまうし、「やぁ」と笑顔で片手を挙げるトキワに、トキメキを覚えずにはいられなかった。
古今東西どんなお国の言葉でも、どんな素敵なフレーズでも、この一言に勝るものなどない。
その一言で、私の全てがこの男を好きだと叫ぶ。
そんなことを何度も反復しながら、あわよくば隙を見て…などと物騒なことを考えていた罰だろうか、それからしばらくしてトキワはその会合にめっきり顔を出さなくなった。
何でもバスケを再び始めたらしく、今はそれに注力しているかららしい。
気楽にやってるヨ、とついこの間相変わらず淡泊な雰囲気を滲ませていたのに、掌を返したようにトキワはこの集まりを過去にして、今へと走って行った。
とうとう完全に置いて行かれてしまった立場としては、正直お手上げだ。
まぁ、やれることはやったのだから仕方がない。
そんな慰めで必死に自分の足を立たせ、その場に立ち竦むことで精一杯だったけれど。
それでもやっぱり、やれることはやったと思う。
気持ちを伝えることから逃げなかったし、会う努力だってした。
これ以上やりようがないほど、懸命だった。
それでも追い付かなかったのだから、これは神様からのメッセージだ。
もう頑張ったって意味ないよー、という思し召しというやつだ。
そうしてあっさり関わりの途絶えたトキワから、高校二年になってすぐの頃、ひょんなことで連絡が入った。
携帯の中に大切に保管されている唯一の繋がりが、震える。
恐る恐る耳に押し付けたそれは、直接鼓膜に久しぶりに聞く声を届けた。
胃が痛むほど緊張しながら着信に応えたにも関わらず、伝えられた要件は大したこともない。
共通の知人の連絡先を教えてほしいと言うトキワに、それでも私は大人しく従った。
何か久しぶりだよネ、と暢気に振る舞うこの男を、初めて心底憎たらしく思う。
だけど私は、焦がれるのをやめられなかった。

「私、今でもトキワが好きだよ」

まるで挨拶のように、軽やかに口を突いた一言は電話の向こう側どころか私自身をも沈黙させる。
シン、と広がる静けさに私がぽろりと零した言葉の重さを思い知った。
言った。
私は確かにそう、言った。
何の覚悟も決められぬまま、だからと言って焦りではなく、この世の理のごとく恋しい気持ちが、気負うこともなく転がったのだ。
もちろん考えるまでもなく今回も再びNOが突き付けられ、瞼を伏せる。
ごめんネ、と届く通話の声が、トキワの声を些か幼く響かせた。
ここまで報われないとなると、落ち込むを通り越してもはや誇らしさすら感じるのだから、一途なことはかくも虚しい。



戦歴としては三戦四敗の全敗中。
3回告白して4回フラれている。
お気付きのように、一回多くフラれている。
心持ち多めに、フラれている。
それは直接ごめんと言われたわけではなく、中学時代の女子友達と集まった際、何気ない話のひとつとして「そう言えば、トキワに彼女できたっぽいよ」と爆撃を受けたからだ。
それまでトキワ以外誰にも、この胸の内を告げたことはなかったのだけれど。
大切に育んできたものを一面焼け野が原にされてしまっては、流石に気張っていた意地がプツンと切れてしまった。
勝手にぽたぽたと零れ落ちた涙に、まるで他人事のように私はやっぱりあの男が恋しいのだと目の当たりにさせられ、友人たちにも私の想いを知られてしまうこととなった。
あくまで噂だ、と励ましを受け、私のこれまでの戦いを余すことなく吐かされ、最終的には私以外の全員があまりの報われなさに涙し、今度は私が「平気だから!大丈夫だから!」と励ますに至るという奇妙な光景が繰り広げられた。
結局噂の真偽は分からず仕舞いだけれど、私の中では今までの敗戦よりよっぽど堪えたので一回にカウントされている。
なので三戦四敗、心持ち一回多く負けているのだ。
この頃はもう、トキワとは何の接点もない毎日を過ごしていた。
こうした噂話程度でしかトキワの近況を知ることもなく、本人を目の前にするどころか声すら聞いてはいない。
それでも何とか生きいるし、これからも生きていくし、いまだ心の中にはあの男ばかりが詰まっているのだから呪わしい。
そりゃ私も華の女子高生ですから。
高校の友人からは何人か紹介も受けました。
告白なんてのも、何度か受けました。
これ以上不毛な負け戦を続けるのにも疲れていたし、新しい恋というやつも良いのかもしれない。
そう思いました。
だってそうでしょう?
何度も打ち砕かれて、それでも諦めずにコツコツ積み上げても、結局報われることが最終地点だとしたら私はいつまでたってもそこには到達できないのだから。
好かれる感覚を知ってみたい。
満たされる充実を味わいたい。
私は十分、頑張ったじゃないか。
そろそろ潮時として、見切りをつけたって誰も文句は言わないはずだ。
むしろトキワだってそれを望んでいる。
だったら、そうした方が誰もが幸せになれる。
こんな暗澹を彷徨うよりずっと、生産性に富んでいるじゃないか。
夜、ベッドに入ってそんなことを考えていても、朝、目覚めて天井を見上げれば、瞼に焼き付いた背中が目に浮かぶ。
そして私の睡眠を削ってまで費やした数時間を、簡単に無碍にする。
泣きたい気分で満たされる。

それでも私は、トキワが好きだ。

会えない時間も絶え間なく、トキワを好きでいるための時間のように私の全てはあの男を中心に回っていた。
目に入れても痛くない、そんな可愛らしい例えでは到底追い付かない。
あんなやつ、を枕詞に据えてどんなに蔑んでみても、卑しんでみても、最終的にはそこへ辿り着くように設計されている。
私の全てを、私が覚悟するよりも先に勝手に掻っ攫っておきながら、私の全てを、私が覚悟するよりも先に打ち砕きながら、それでも私の全てを、私が覚悟するよりも先に出迎えてくれる。
このまま好きでい続けるか、死ぬか、私の人生にはそれしか許されていない気分だった。
他人は言う。
それだけ人を好きになれることなんて滅多にないよ、と。
それは人生の財産になるよ、と。
もっともらしく並べながら、子どもの恋だと嘲笑うくせに。
笑いたければ笑え。
私だって大爆笑してやりたいところだ。
ほんっとバカだよねー、と他人事よろしく槍玉に上げてこの滑稽さを笑い飛ばしてやりたい。
だけど、それでも、どうしたって、私はトキワが好きで、好きで、大好きで、トキワのためなら何だってできるくらいにはトキワが好きなのだ。
いっそ都合のいい女にでもしてくれれば、万々歳(中学の友人に漏らしたらこっぴどく叱られた)。
利用?全然してくれてオッケーですけど?(高校の友人に漏らしたらこっぴどく叱られた)。

顔が、見たいなぁ。
声が、聞きたいなぁ。
名前を、呼ばれたいなぁ。
あわよくばこっちを向いて、笑ってほしいなぁ。

いつの間にか得意になったひとり相撲を、今日も今日とて繰り返し、私は一日を終えていく。
そして明日も同じようなところをぐるぐる回って、その背中を追いかける。
届くはずないって分かっていながら、走り続ける。
今ならマラソンの世界記録が出せるんじゃないかって、そんなバカな冗談でひとり笑いながら。



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