共鳴する
残響の果てに


迷うことなく歩き進めて、気まぐれに振り向いては待ってくれていたり、夢中に駆け抜けてしまったり、私はいつも隣りに並ぶこともできないまま鮮烈なオレンジ色を必死に追いかけていた。
ふたりで眺めた景色は全て、彼の肩越しに映る世界。
キラキラと輝く鮮やかさと共に彩られた、賑やかな世界だった。
彼がいつか、遠くへ飛んで行ってしまうことを知っている。
こんな場所で燻っている人ではないことを、誰より理解している。
変わっていく姿を見られる喜びと寂しさの狭間で、置いて行かれることを恐れていた。
彼の特別な枠組みに入れてもらって、一年半。
少々変わった感性の持ち主なので、一般的にはどうか分からないけれど、それでも大切にされていることは伝わっていた。
でも、自分の求めるものを見付けた時、彼は他は脇目も振らずそれを捕まえるために追いかける人だ。
横浜大栄に進学することも、首尾が整った時点で聞かされた。
きちんと教えてくれただけ、一応は言っておかなくてはいけない相手と認識されていたのだろうけれど。
それでも私は、決まってしまうその前に一言言ってほしかった。
そこに行けば何があるのか、どうなるのか、私たちのこれからにとても大切なことだと思うから。
悲しきかな意気揚々に彼が語る“これから”に、私はいなかった。
頭の中はバスケのことばかりだから、仕方のないことかもしれない。
そんな真っ直ぐさに惹かれたのも本当だ。
バスケをしている彼は何よりも格好よく、素敵で、活き活きとした様を見るのが大好きだった。
それが、今はどうだろうか。
そう振り返った時に、今まで一度も考えたことのなかったことが頭を過る。
まるで真っ新な半紙に筆から滴った墨汁が広がるように、じわじわと黒く拡大していく染みはいつの間にか私を変えてしまった。
変わらない想いを抱えながら、変わってしまった自分自身を持て余し、行き先を失った感情は限界を迎える。
このままでは、彼を取り巻く何もかもを憎んでしまいそうだった。
そうなる前に、と別れを告げたのは地区予選が終わってから。
最中に言ったところで何ら問題はないと分かっていても、一応はデリケートな時期だろう。
ほんの少しのノイズも与えたくはなかった。
彼が何より大切にしているものに対して、私の最後のプライドだ。
私は強く優しい人になりたかった。
でも、なれなかった。
ごめんなさい、これからも頑張って、応援してる、そんな上っ面のテンプレートを掲げれば、意外にも彼は少しだけ慌てていた。
何で?と覗き込んだ瞳はわずかに執着を映し、腕を掴む。
すんなり受け入れられると思っていたために、具体的な断り文句は何も考えていなかった。
その問いかけに対する明確な言葉を探してみても、抽象的な答えしか辿り着かない。
決定打になることを、と焦った唇は全くの虚偽を象った。

「他に、好きな人ができたの」

その後のことは良く、覚えていない。
彼がどんな顔をしたのか、何を言ったのか、どうやって自分の家まで帰り、携帯から彼のあらゆる痕跡を消し、眠りについたのか。
面白いほど記憶が欠け落ちていた。
だけど朝はやって来るし、学校もある。
適当に身支度を整えて家を出れば、電車だっていつも通りの時間に到着する。
何も変わらない。
習慣付いていた“おはよう”のメールを、送らないだけ。
“オハヨー”と一言だけのメールが、返ってこないだけ。
そうしてそれが当たり前になり、そんなこともあったなぁといつか笑い話にするのだろう。
他の誰かを好きになり、運が良ければその人と付き合い、何もかもが上書きされていくのだろう。
ごく平凡な日常から、眩しい色が消えた。



結局他の誰かを好きになることも、付き合うこともないまま、淡々と過ぎて行く毎日を繰り返している。
思い出すことは、たくさんあった。
見せたいもの、聞いてほしいこと、共有したい数えきれない出来事を掻き集めた。
伝える術がないと知りながら、やめられなかった。
世界はこんなにも、味気なかっただろうか。
あんなにも美しいと思っていたものが、まるで別物に見える。
綺麗だね、と笑い合っていたはずなのに、何ひとつそう思えない。
カレンダーに華々しく記された『2年!』の文字が、虚しく佇んでいた。
電気も点けないまま、滴る涙に溺れる。
自由で気ままな彼を縛ってしまうことが恐くて、だけど置いけぼりにされるのはもっと恐くて、そうなってしまう前に全てを解いた。
これが正しいと言い聞かせて、望まない結末を選んだ。
そうしてようやく気付く。
私がほしかったのは、彼の肩越しに見える未来だったことを。
本当は、手にしていたのだ。
有り余る幸せの中にいた。
自由で気ままな彼が、どれだけ私を優先してくれていたのかも忘れてしまっていた。
気付いたところで何もかもが遅すぎる。
瞼を堅く閉じ、喚くように泣いても、自分で手放したくせにと散々自分をなじってみても、焼き付いたオレンジ色が離れてはくれなかった。



「で、結局じっとしてらんなくて来ちゃったと…」

他人事のように呟いた独り言は、白い息に形を変えては消えいく。
ツンと鼻が痛むのは寒さのせいだろうか。
子どもたちが遊んでいた痕跡を残す公園でひとり、ベンチに座りぼんやりと爪先を眺めた。
自販機で買ったホットミルクティーは、悴む指先には刺激が強い。
ひりひりとした熱さに痛むそれを、何度も擦り合わせた。
約束はしていない。
今日が特別な日だと思っているのは、私だけだ。
そしてこの公園が、大切な思い出の欠片だと惜しんでいるのも私だけ。
初めてふたりで帰り、このベンチに座って色々な話をし、彼の心の端に触れた始まりの場所。
待っているわけではなかった。
来るはずのない相手を、甲斐甲斐しく待てるだけ慎ましく強かであれば、そもそもこんな結果にはなっていなかっただろう。
ただ何となく、じっとしてはいられなかった。
余計なことをあれこれ考えて疲れてしまうなら、と気の済む選択をした。
一年半、色々なことがあったなと振り返る。
バスケが中心の人だったから、同じ期間付き合っている他の恋人たちほど思い出が多くはないだろうけれど、その分日常の積み重ねのような淡いやりとりですら鮮明だった。
差し伸べられた手はいつも私を引っ張ってくれ、前を歩く肩越しに見る景色を見渡していた。
乾いた掌に、少しずつ熱が帯びていく感覚が愛しかった。
普段はペラペラと良く喋る口が無口になる時は、ちょっとだけ戸惑った。
強烈な眼差しで射されたら、何も言えなくなった。
そのひとつひとつが、まるで昨日のことのように思い出せる。
すぅ、と冷たい息を大きく吸い込み、はぁ、と白い塊を作っては、手の中の温もりが弱々しくなっていく様子に潮時を知る。
風邪をひく前に帰ろう、と投げっぱなしの爪先を地面に着ければ、遠くから聞こえる砂の擦れる音にふと顔を上げた。


「豹ちゃん…?」


咄嗟に口を突いて出た名前に、男が止まった。
まさか、そんなはずがない。
どこかで冷静に制しながらも、私の視線は夜に浮かぶ鮮やかなオレンジ色を確かに映している。
私が知る限り、こんなにも奇抜な男はひとりしかいなかった。
思わず立ち上がり、恐る恐る一歩を踏み出す。
ゆっくりと近付きながら、確認する何もかもが目の前の男の正体を浮き彫りにした。

「いやいや、寒くて参るね。鼻水止まんなくて困るべや」
「豹ちゃん、どうして…?」
「俺が来たかったから来た。そんだけ」

座ろっかい、と促し、「あー…今日も疲れたっ」と豹ちゃんは勢いよく身体をベンチに預けた。

「練習、サボろうとするからだよ」
「ずらーって書かれた内容みたら逃げたくもなるって」
「それで毎回見つかって、結局量増やされてたら意味ないのに」

別れてからそれなりに経つというのに、重なる会話はあまりに自然で逆に不自然さを際立たせる。
あたかも今までそうであったように、存在する空白を感じさせないように、お互い測りかねている距離を手探りしているようだった。

「久しぶり、でいいんかねぇ」
「久しぶり、でいいんだよ」

そっか、と呟かれた言葉が身体の芯に響く。
軽やかで独特な口調は相変わらずで、残る思い出と重なった。
現実味は不思議とあった。
隣に豹ちゃんがいることを、確かに実感している。
夜でも煌々と輝く髪も健在だ。
不意に呼ばれた名前に反応すれば、「元気だった?」と浅く腰かけた彼が頭を傾けた。

「それなりに。豹ちゃんは色々頑張ってるよね。全国大会はちょっと残念だったけど」
「過ぎたことはしゃーない」
「豹ちゃんらしいね」

まだまだこんなものではない、と含まれた言葉に笑う。
たくさんの人がそれを目指して涙するというのに、ただの通過点であり、気に留めることではないとこともなげに言い放ってしまうところが豹ちゃんらしい。
あまりに言葉や感情を包み隠さないため、人とは少し違って映ってしまうのだけれど、他意はないのだ。
ただ、素直で飾らないだけ。
それは彼の育った環境故かは知らない。
出会った頃から、既にこの様子だった。
まだ幼い盛りには、彼の物言いや態度があまりに強烈で、ほとんど一目惚れだったように思う。
自分にない全てがそこに、詰め込まれているように感じた。
話せただけでも嬉しかったあの頃は、まさかこんな日が来るとは思っていなかっただろう。
自分から手放し、後悔に泣き、情けなく縋る私がいることなど。

「さっきさぁ」
「うん?」
「どーしてって聞いたけど、そっちこそ何で?」

聞き辛いという雰囲気を一滴も感じさせない声色で、ここにいる理由を訪ねられる。
そう思われても当然だ。
私からさよならをしておいてのこのこと姿を現すなど、背徳行為も甚だしい。
もうあならはいらない、と言ったも同然なのだから。
少し考えるように間を開けてから、冷たい空気を肺に送り込んだ。

「家にいてもね、考えちゃうから」

気まぐれだの何だの、色々取り繕う言い訳が過ったけれど、結局素直にそのままを吐露すれば、豹ちゃんはだらしなく座っていた姿勢を戻して組んだ手を膝に預けた。

「豹ちゃんこそ、寮なのに大丈夫?」
「まぁ、何とでもなるさ」
「そう」
「俺も、じっとしてらんなかったし」

見るんじゃなかった。
そう思った。
話している相手の顔を見るのは自然な成り行きだけれど、彼の不敵でも馬鹿笑いでもない、微笑みのような柔らかで優しい表情は私にとってとても危険なのだ。
普段容易には見せないものだと知っているからこそ、心を大きく揺さぶる。
何か、何か話していなくては。
必死に辿る違和感のない会話を求めて、冷たさを宿し始めた手の内のものを握り締めた。

「良く覚えてたね。もう忘れてると思ってた」
「俺、そんなハクジョーに見える?」
「ううん、そうじゃなくて。終わったことは振り返らない人だから」

少なくとも共に過ごした日々の中に存在する彼は、そういう人だった。
常に前を、上を見ている。
その狭まった視界から、取り零されないようにするだけで精一杯だった。
私もいるよ、と訴え続けていた。
だから今日という日を覚えていたこと、この公園を忘れていなかったこと、そのどれもが彼らしからぬものなのだ。
喜んでいいのかも分からないまま、思わぬ再会の在り方を模索する。
何が正解で、何が不正解か。
それはきっと、私たちが一緒に過ごすことを決めた時から幾度となく繰り返されて来た詰問なのだろう。
ふたりでいるということは、何とも不思議だ。
バラバラだったはずの呼吸が、次第に合わさっていく。
お互いの白い息が混じり、どちらのものか分からくなって滲む様を他人事のように見送れば、「終わってたら多分そうだったと思うけど」と囁かれた言葉に瞬きを落とした。

「納得してないのに、終わりになんてできんて」

自嘲を込めた声色で、眉を下げて豹ちゃんは笑う。

「らしく、ないね」
「そうかい?」
「私の知ってる豹ちゃんじゃないみたい」
「やっぱ相当ハクジョーって思ってるじゃん」
「え?」
「何も言わせてくれんで、さっさとどっか行かれた俺の気持ち考えたことあった?」
「それは、」
「ちゃんと言ってくれな、分からんこともあるべや」
「…うん」
「ちゃんと聞くし、考える。付き合うってそういうことじゃねーの」
「ごめんなさい。…私、嘘吐いた」
「好きな人できたってアレ?」
「うん」
「知ってるよ。そんくらい見抜けんほどニブチンじゃねーし」

ほんのりと上ずった私の声とは裏腹に、お見通しだったと告げる豹ちゃんは「っつーかウソつくの下手なの知ってるべ」と追い打ちをかけた。

「けどウソついてまで離れたいんかと思ったら、俺も何も言えんかった」

譲れないものがある。
生きるために絶対的に必要なものであり、それを抜い去ってしまったなら生きている意味がないほどのものが彼にはある。
夢中で追いかけている姿は、彼と私が同じ生き物だということを忘れさせた。
手が届かなくなる恐怖。
それに屈した私は、あの時から一歩も進めていないのだろう。
振り返っては探す、思い出の数々は決して私を満足はさせなかった。
何故なら、私はいつだって豹ちゃんの背中を見ていたから。
だから私はいつだって前を向き、足を走らせることができた。
彼が道標だったのだ。
その肩越しに見える行先が、私の進むべき場所だった。

「豹ちゃん」
「んー?」
「会いたかった」
「俺もっ」

間延びした声にへらりと笑う表情を浮かべ、鼻先を赤く染める。
あなたに譲れないものがあるように、私にもそれはあった。

豹ちゃんの未来に、私はいる?

そう問いかけるように覗き込めば、「一緒じゃないとこ想像する方が、難しいなんてこともあんだねぇ」と不意打ちを叩き込まれた。
何だ、そういうことだったのか。
納得してしまえば途端に、何て馬鹿なことをしていたのだろうと呆れてしまう。
まったく単純な生き物だ。
私も、豹ちゃんも、大事なことを言わなさすぎたのだ。
そこに、いたのね?
あなたが想像する未来の中に、私を当たり前に入れてくれていたのね?

「私、豹ちゃんに見せたいものも聞いてほしいこともいっぱいあったよ」
「俺は全国大会で活躍したとこ観てほしかったけど」
「じゃぁ来年こそ、だね」
「トーゼンっ。いいとこ見せちゃうよ」

いつの間にか寄せられた身体が、重みを預けるように傾けられる。
私もそっと頭を託せば、受け入れられた心地良さに睫毛を震わせた。
終わっていないと言った豹ちゃんは、これからをどう望んでいるのだろうか。
終わっていないのなら、新しく始めるのは何か違うように感じる。
だからやり直すのだ。
間違ったことも、後悔したことも、全部引き連れてもう一度。
新しくではなく、寄り道をしてしまったふたりで良い。
そんなふたりが、良い。
あなたの強さはこれからも変わることなく、上を見続けるのだろう。
その度に私は少し寂しくなったり恐くなったりを繰り返しながら、肩越しに臨むその先を今なら楽しみでいられると思う。
だから時々、振り返ってね。
鮮烈なオレンジ色で、私を捕らえていてね。
キラキラと輝く鮮やかさと共に彩られた賑やかな世界を、追いかけさせてね。
あなたを守る力も何も持たない私だけれど、今度こそ弱さから逃げたりしないと誓うから。

「泣き虫だなぁ」
「誰のせいだと…」
「え、俺のせい!?」
「豹ちゃんのバーカバーカ」
「待ちなや!ひどくない!?」
「私の嘘は見抜けるって言ったよ?」
「言ったけども、」
「豹ちゃん、大好きよ」

漏れ響くふたり分の笑い声に、もう振り返る必要はなかった。
その抗えない引力で、私をずっと縛り付けていてくれますか。
例え掌の缶のようにいつか冷える時が来るのだとしても、変わらない想いを覚えていてくれますか。
変わっていく私たちを笑いながら、あなたの未来に私を閉じ込めてくれますか。
少しでいい。
わずかでいい。
この真冬の寒さに、宿る温もりに、夜の祈りを愛しい掌で握り締めてくれますか。
ツン、と鼻先が痛むのは寒さのせいなんかじゃない。
あなたが、いてくれるから。
あなたが、私を導いてくれるから。

「何とか二年目に突入できた感想は?」
「そりゃーもう最高さっ」

譲れない光は、ここにある。

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