自分勝手に想いを伝えたあの日から、必要以上の関わりはなくなった。
当たり前の話だ。
時折行われていた校舎裏での密かな同期会も、あの出来事を境に行われてはいない。
事の発端である噂は、関わりが薄れれば面白いくらいに為りを潜め、今では静かで穏やかな日常だけが任期を減らしていく。
とうとう今日で、私はこの学校へ来る必要はなくなるのだ。



「短い間でしたが、ありがとうございました」

受け持ちの授業の終わりと終業の頃合いに同じ決まり文句を告げて、私の仕事は終わった。
まるで噂など最初からなかったように、擦れ違う生徒と別れの挨拶を交わし校門から一歩外へ出れば、私はもうこの場所と何ら関わりのない人間になる。
門の前で立ち止まり、振り返った。
短い時間だったけれど、それなりに思い入れはあったのかもしれない。
結局あの校舎裏には、あれから一度も足を運ぶことはなかった。
随分な勝手をしたのだ。
車谷先生の事情を知っていたのに、自制心の弱さと拙さに負けた。
それが何より恥ずかしくて、情けなくて、軽蔑されても仕方がないと思えるほど私は自分勝手だった。
最後に挨拶くらいしても良かったかもしれないけれど、それもまた自分勝手だろう。
振り切るように前を向き直し、ゆっくりと一歩を踏み出す。
これでおしまい。
言い聞かせるように心で唱え、肩にかけていた鞄を背負い直すように揺らして帰路に着けば、塀に腰をかける姿が視界の端に映った。

「お疲れ」
「お疲れ、さまです」

そしていつもの缶コーヒーが差し出される。

「こんな目立つところで何してるんですか?」
「ここで待ってないと行き違いになるだろ」
「私はもう関係なくなりますけど、噂に火が点いて困るのは車谷先生ですよ」
「同期の送別会に噂も何もないさ」

そうは言うものの、まだ生徒たちが下校する時間帯にかつて噂になっていたふたりが佇んでいる、となれば好奇の的に逆戻りだろう。
現に擦れ違う生徒たちは、何かしら意味を含んだ眼差しで私たちを見ていた。

「確かに居心地良くはないな。場所を変えようか」

強引な姿勢は珍しかった。
バスケ部員たちには大層鳴らしていると聞くし、不思議な説得力を宿した言葉で乗せられてしまうことは度々あったけれど、こちらの意見を尋ねることもなく促されたのは初めてだ。
いや、有無を言わせない何かを感じるのは、私に後ろめたい部分があるからだろうか。
差し出されたままのそれを受け取り、従う意志を示す。
背中を向けた彼の後ろに続いて歩いた。
何を言われるのだろう。
怒りをぶつけられても、軽蔑を告げられても、私はそれをショックだと思う権利はない。
この背中を見られるのも、この缶コーヒーを差し出してもらえるのも今日が最後だと思えば、それさえも嬉しいと思う自分がひどく惨めだった。
どんどん進む背中は遠くて広い。
周りの景色が変わっていく中、会話はひとつもかわされることはなかった。



「寒くない?」
「大丈夫です」

そして辿り着いた公園は、街灯の光だけが頼りというくらいに暗闇と静寂が支配している。
腰をかけたベンチは、ひんやりと冷えていて体温をじわじわと奪っていった。
さっき受け取った缶コーヒーの温度は、いつもより熱が去ってしまっている。
同じタイミングでプルトップを開く音が、この静けさでは際立った。

「改めて、お疲れ様」
「ありがとうございます」

乾杯を促すように缶を高く掲げた車谷先生に応えて、私も手の中のそれを小さく傾けて応える。
半分無理矢理に缶と缶を合わせられ、接触音と感覚が鈍く伝わった。

「これからどうするかは決めてるのか?」
「ええ、まぁ」
「そうか。寂しくなるなぁ」

微笑むように吐き出された息は、白く形を作っては空気に滲んで消える。
思っていたよりも穏やかな時間に、気張っていた力が抜けていくのが分かった。
少し距離を開けて座っているその人は、顔を夜空に向けている。
倣うように視線を上げ、「長野は、もっと綺麗なんでしょうね」と漏らせば「妨げるものがないからね」と懐かしみを帯びた声色が耳に残った。

「突然呼び出して悪かった」
「いえ、特に予定もありませんし」
「なら良かったんだが」
「それで、要件は?」

触れるタイミングを伺うかのような当り障りのない会話に、先に痺れを切らしたのは私の方。
分かっていることをわざとはぐらかして相手に投げる術は、いつから使えるようになっただろうか。
大人になるほど、賢く生きていくことが上手になる。
何事もないように振る舞いながら、それでも指先の震えを感じるのだから、私はまだ大人になりきれてはいないのだろう。
相変わらず夜空へ向いている彼の顔は、見られない。
言葉がかけられるのをただただ、待っていた。
そして零される声に、ゆっくりと耳を傾ける。

「この間のことなんだが、ゆっくり話すタイミングがなかっただろ?」
「すみません。困らせてしまいましたね」
「まぁ、そうだな。素直に言うなら困ったかな」

言葉を飾ることなくそう言った車谷先生の声には、苦笑いの色が見える。
そうだ、間違いなく困らせたのだ。
もう一度「すみませんでした」と今度は目を見て告げれば、「謝ってほしいわけじゃないよ」と両肘を両膝の上に乗せた彼が微笑む。

「分かってます。でも奥さんを亡くされたばかりなのも、高校生になる息子さんがいらっしゃることも知ってる上で困らせたんです。謝るくらいはさせてください」
「なら、素直に受け取っておくとしよう」
「本当は、伝えるつもりはありませんでした。任期が終わればさっさとどこかへ行く身ですし、このまま何事もなく綺麗な思い出にするつもりだったんです」
「うん」
「けど、あんな噂で否定されて平気なほど簡単な想いじゃなかったのは、確かです」
「それで思わず口を突いたってところかな」
「まだまだ修行が足りませんね」
「そりゃぁまだ若いんだし」
「そうですね、車谷先生よりは」
「こらこら」
「ほんと、嫌になりますよ」

すっかり冷め切った缶コーヒーを口に含み、喉を鳴らす。
不意に落ちた沈黙は、気まずいというよりは居心地が悪いと言った方が似合っていた。
責められた方が、心の持ちようもあったのだけれど。
車谷先生の真意を計れないまま、時間だけが一定のリズムで過ぎていく。
ふたりの何もかもが平行線のままでは、どうにもならなかった。
私が投げかけたきっかけも結局は状況を変える一手になることはなく、淡々とした空気の中で切り返したのは車谷先生だった。

「空に聞かれたよ、噂のこと」
「そうですか」
「あんな綺麗な人と噂になるなんてズルイってさ。我が息子ながら言ってくれるよ」
「…素敵なご両親に育てられた証拠ですね」

面影が色濃く受け継がれているその小さな姿を思い返し、切ないような嬉しいよな複雑な感情が芽生える。

「君も言ったように、俺は妻を亡くして日が浅い」
「はい」
「情けないことを言うようだが、ようやく前を向けるようになったところなんだ」
「はい」
「バスケ部の監督を引き受けたのは、その影響なんだと思う」
「はい」
「それに俺には、妻に…由夏に託された大事なひとり息子もいる」
「はい」
「その息子が必死に追いかけてる夢に俺も賭けてみたいんだ」
「はい」
「自分の感情だけじゃ動けない」
「…はい」

諭すような物言いはひとつひとつが丁寧で、私は頷くことしかできない。
分かっていたことを改めて思い知らされるそれらに、私は睫毛を伏せた。
もう会うこともない人間なのだから、そのまま放っておいても良かっただろうに。
律儀なその返事に、泣くに泣けないなと苦笑いを零す。
最後に送られるであろう言葉に備え覚悟を決めると、「この年になって、こんな経験するなんてなぁ」と軽やかな声が届いた。
ふと顔を上げると、飲み干された缶が少し離れたゴミ箱へ綺麗な曲線を描いて落ちていく。
静寂には似つかわしくない音が大きく上がった後、再び訪れた音のない世界で彼の声色が低くなった。

「待てる覚悟はある?」
「え?」
「また誰かとそういうことになるなんて考えたことがなかったことも含め、俺には抱えていることが多いのが現状なんだ」
「ちょっと待ってください。それって、期待をもたせるってことですか?」

語尾に毒気が含まれているのは、私の悲鳴だったのかもしれない。
いっそ何の希望も持てないほどに刺してほしかったのだ。
物語にはハッピーエンドしか存在しないと信じていた頃の私はもういない。
世の中思うようにいないことばかりだということも知っている。
その最たる極みを、私は自分に突きつけたのだ。
自殺行為にも似たその鈍い痛みは、私の深いところを抉ることもなくただ慢性的に体を巡っていた。
消えるはずだった何かはまだ、ここにありありと存在している。
虚ろになる思考の中、先生を捕えたままの瞳の中で揺れる影が近付いた。
息がかかるほどの近い距離。
少しでも動けば体のどこかが触れるそれは、案の定私を微動だにさせない。
すう、と吸い込まれる呼吸音だけが鮮明だった。

「今の俺の一番は空の成長を見守ることだ。それが由夏との約束で、今の俺が由夏のためにできるたったひとつのことだと思ってる」

飲まれた影に吸い込まれたまま、動けない体と心が織り交ざる感覚を覚える。

「空が独り立ちするその時まで、君は待てる?しかもその頃には俺は文句なしのオッサンだ」

そっと広げられた両手は、ゆっくりと空を切る。
自嘲気味な言い分とくつくつと漏らされる笑い声に、思わず上げた視線に絡む漆黒の瞳はそらすことを許さないとさえ感じるほど力強く、この夜の闇のようだった。
覚悟を探るような視線が刺さる。

それでも待てるのか。

試すような口ぶりとは裏腹に、その言葉に込められた重みは良く分かっていた。
彼の立場を知っている、彼の子どもを知っている、けれどそれ以外のことは何も知らない。
どれだけ奥さんを想っているのか、奥さんの闘病生活をどんな想いで見守ってきたのか、この人の根幹を成す彼女が一体どんな人だったのか。
それすらも知らない私に、なんて難題を突き付けてくれるのだろうか。
待てるのか、に含まれる様々な真意を掴みきれないまま、いまだ言葉を紡ごうとする彼の息遣いに集中する。
ゆらりとたじろぐような風が、ふたりの間を吹き抜けた。

「ふたつ、約束してほしい」
「何ですか?」
「ひとつは、意地にならないこと。君はまだ若い。この先いくらでも将来有望な男と出会う機会があるだろう?一緒に生きたいと思える人と出会えたら、俺のことは気にせず自分の幸せのために時間を使ってくれ」
「…もうひとつは」
「もし縁があったとするなら、何があっても俺より長く生きてほしい。見送る役は、もう十分だ」

悲しいのか辛いのか、眉を下げてそう言った彼の顔を覗き込むように見つめると、困ったような苦笑いが浮かぶ。

「安心してください。私、あなたよりずっと年下ですよ」

私の答えはきっと正解ではないのだろう。
誰にだって、明日のことは分からない。
車谷先生も、奥さんも、息子さんも、家族との惜別をこんなにも早く味わうことになるなんて、思っていなかったのだから。
それでも私に言える精一杯の回答を、彼は「そうだな」と静かに頷いてくれた。

「私からもふたつ、約束をしてもらっていいですか?」
「無茶なことじゃないことを祈ってるよ」
「大丈夫です。簡単なことですから」
「なら、聞くだけ聞いてみるか」

どうぞ、と催促のように掌を差し出した先生のそれに、片手を預ける。
思わぬ私の行動に指先がぴくりと震えたけれど、構わずそのまま言葉を続けた。

「ひとつは、私が待っているからと言って無理に折り合いをつけないでください。心の在り方は誰にもどうにもできません。待っているのは私の勝手です。応えてもらえないからといって駄々をこねられるほど、子どもではありませんから」
「もうひとつは?」
「もしご縁があった時は、最期に思いきり悲しませてください」

そうして見開かれ、揺れる瞳に今度は私が力強く向き合えば、「気の長い話しだな」と目尻に皺が寄せられる。

「冷めちゃってましたけどおいしかったです。ありがとうございました」
「安い餞別で悪かったかな」
「いつも奢ってもらってばかりでしたね」
「そのくらい年長者を立ててくれよ」
「そういうことにしておきます」
「その憎まれ口も聞けなくなるんだよなぁ」
「すぐに慣れますよ」
「それでも寂しいと思うさ」
「そうですか」
「新しい仕事、頑張れよ」
「ありがとうございます」
「もう暗いし送ろうか?」
「いえ、大丈夫です。名残惜しいのは苦手なので」
「そうか」
「最後の同期会、楽しかったです」

乗せていた手を落とすように手放せば、温もりを感じていたそれはすぐ冷たい空気に溶けるよう体温を逃していった。
どこまでが現実で、どこまでが幻か分からない不思議な夜は静かに幕を落とす。
この先に、彼はもういない。
でもそれで良かった。
これは私の覚悟であり、ケジメなのだ。
冷たい酸素を肺に満たし、一歩を踏みしめた私の腕に重みが走る。
思わず振り返れば、握られた手首に血の通った温かみが広がった。

「桜を、一緒に見てくれないか」
「…先生?」
「毎年その季節を由夏と楽しみにしていた。これからは…いや、これだとまるで身代わりをしろと言ってるようなものだな。すまない、忘れてくれ」

伏せられた顔には、失言だったと申し訳なさが色濃く滲む。
身代わりなんて、誰にも務まらないことはあなたが一番分かっているくせに、と両手を伸ばして柔らかな髪へ指先を忍ばせた。
その心に広く染み渡っている人を、あなたは生涯切り離すことなんてできないし、する必要もないのだと想いを込めて、ゆっくりとその表情を手繰り寄せ、こつん、と額同士を擦り合わせた。

「今年はいつ頃、満開になるんでしょうね」

目を見張る様子を間近で感じながら、「綺麗なんだろうなぁ。来年も、きっと」と告げれば、密かに肩が震わされた。
恐らく、誰にも見られたくはない姿だったろう。
だから見て見ぬ振りをして、私はただ額から伝わる生きている証に瞼を閉じた。
先生、未来の話をしましょう。
願いを、希望に変えるために。

「楽しみに待っています」

今はまだ冷たい指先のままでも、いつかその手を握られるのならそれで構わない。
深く沈む悲しみや何に変えても守り抜きたい夢をあなたが、納得できるものに磨き上げるその時まで、私は誰に愚かだと謗られてたって厭わない。
わずかな約束を理由に、愚鈍に生きる私を馬鹿な小娘だと笑ってください。
失う感触も知らぬ、浅はかな女だと。

「待って、いますから」
「ありがとう」

私があなたに差し出せるものなどたかが知れているけれど、望んでくれるのならいつだって全てを捧げてみせよう。
私の日常から遠退くあなたを覚えるように、その言葉を刻み付けるように、ささやかな星空の下で誓うから。
あなたにとって不自然なまでのこの平穏が、いつかあなたの充足に繋がるその時にもう一度、あなたが好きだと伝えても、いいですか?

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