「すぐそういう話に持っていきたがるのは、思春期だからか?」

困ったふうに苦笑いを加えて、温かい缶コーヒーを差し出す様子をぼんやりと眺めた。
そのせいで受け取るタイミングを逸脱した私に、「ほらっ」もう一度差し出したそれを、今度はきちんと受け取る。
少し熱いくらいの温度が、掌に広がった。

「ありがとうございます」
「安いもんだよ」

プシュっとプルトップを開ける音がふたつ響き、手で感じるよりも柔らかい熱にそっと口付ける。

「すみません、車谷先生にまでご迷惑をおかけして」
「別に君のせいじゃないだろ」
「実際、良く構ってもらってますし」
「そのうち収まるさ」

人の噂も何とやら、と続けて笑ったその人に「あと75日も、私はここにはいませんよ」と笑って告げれば「そうだったな」と呟く返事があった。
産休中の代理として定められた期間だけ教師をしている私に、彼は時々こうした話し相手になってくれる。
若い人間がいない職場ということと同時期にこの学校へ配属されたこともあって、色々気遣ってくれているのだろう。
ふたりで缶コーヒーを片手に話す時、彼は私に年の離れた兄のように砕けて接した。
その姿を見た生徒が面白半分か、またはありったけの妬みで流した噂がいつしか校内で持ちきりとなっていた。

車谷先生に色目使って迫ってるらしいよ。
学校に息子いるじゃん。不倫狙ってんの?
奥さん死んじゃったみたいだけど、普通はそんな相手狙わないよねぇ。
常識なさすぎ。
車谷先生は優しいから普通にしてるけど、絶対に迷惑だよ。

何となくひそひそと噂の槍玉に上げられていたことに気付いていたけれど、はっきりとした言葉で認識したのはそれが初めてだった。
そして何とも間の悪いことに、たまたまその話を聞いた時には車谷先生も隣にいた。
私たちふたりの姿を見た生徒たちは、飛び上がるようにして廊下を駆けて逃げてしまったけれど、取り残された当事者たちは何とも居心地が悪い。
“車谷先生に”ということは、悪意を向けられているのは私だろう。
けれど別に良かったのだ。
何と言われてもと蔑まされても、長く勤めるところではないし今後の人生にもこの関わりが続くわけでもない。
熱意も期待も、ありはしない。
仕事だから、ただそれだけのひどく現実的な理由だけで私はここにいる。
だから何だって構わなかった。
それ以外のことなら。

「それにしても、こんなオッサンに若い子が迫ってるなんて噂の何が楽しいんだろうな」
「楽しくはないんじゃないですか?」
「ん?」
「ただ噂話で盛り上がってる周りはそうかもしれませんけど、噂の出所にいる子はきっと気が気でないですよ」
「どう言う意味だ?」
「だってこの噂、悪意に満ちた宣戦布告じゃないですか」

その私の回答に、「女の子は難しいな」と車谷先生が溜息交じりに息を大きく吐き出す。

「先生の近くをちょろちょろしているのが、気に食わなかったんでしょうね」
「暢気だなぁ」
「平気ですよ。ずっと勤めるわけじゃないし、それこそ75日より前にいなくなりますし」
「俺が構いすぎたのが原因っていうのも後味が悪いんだが」
「同期入社のご厚意だと理解しています」
「堅苦しいこと言うなよ」
「人生の先輩じゃないですか」

すっかり冷めてしまったそれを飲み干して、一歩だけ足を前へ踏み出す。
そ空になった缶をゆらゆらと揺らしながら、壁にもたれたままの彼に向かって振り返り、ゆっくりと口角を上げ微笑んで見せた。

「缶コーヒー、ごちそうさまでした」
「もう行くのか?」
「長居して誰かに見られたら、それこそあることないこと言われますから」
「平気って言ってた割には気にしてるんじゃないか」
「私は平気ですよ。けど、車谷先生はそうはいかないでしょう?」

息子さんが同じところにいるんだから。
そう続けると顎に手を添えて思案する仕草を見せてから、「気にするタイプじゃないさ」と穏やかな表情が浮かぶ。
でも本来なら必要のない憂いごとです、と返せば、「もっと自分のことを気にしろよ」と今度は笑顔が漏れた。

「まぁ、何か聞かれてもそれとなく否定しておくよ」
「別にいいですよ、笑って流してもらえれば」
「それじゃ余計に拗れるだろ」

困ったもんだ、と言うのなら少しは困った顔をすればいいのに。
しっかりと前を向きながら、進む方向を見据えるように深呼吸を零して独り言のように呟く。

「女って恐いですね。子どもだって思ってましたけど、ちゃんと嗅ぎ分けられる勘がもう備わってる」
「君のことが気に入らない生徒がいるってことか?」
「まぁ、端的言えばそうなんでしょうけど」
「えらく勿体ぶった言い方をするなぁ」
「言ったじゃないですか。これは悪意ある宣戦布告だって」

最後にもう一度振り返り、指先で遊ばせていた空き缶の動きを殺した。

「噂の出所にいる子はきっと、先生のことが好きなんですよ」

ずっと、仕舞っておくつもりだったけれど。
困ったと言いたいのは私の方だ、と瞼を伏せる。
言葉を向けた相手は、理解しただろうか。
私が何を言わんとしているのかを、正しく聞き届けられただろうか。
確認した表情は、思ったとおり何の気もなしに不思議そうな色を映していた。

「同じ気持ちを抱えてる者同士、察するものがあったんだと思います」

屈託のなかった表情が、途端に呆気に取られるようにぽかんと口を開けた。
口を付けるはずだったであろう缶は、その間近でぴたりと止まったままだ。
あまりにも意外だと語る様子を構うこともなく、言葉を続けた。

「何度も言いますが噂は平気です。ただ不可抗力とは言え、噂なんかで私の気持ちが知られたことと噂だけで気持ちを否定されるのは気に入りません。そのくらいの意地は、私にだってあるんですよ」

もう、振り返らない。
そう決めて再び前を向き直し、足を進める。
車谷先生がどんな表情で、どんな想いで、私を見送っていたのかは分からない。
けれどひとつだけ、分かっていることがある。
彼の立場も、抱えているものも、何もかも知った上で私はきっと、あなたを責めた。

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