※一部単行本未収録の内容があります(2014年3月16日現在)





咥え煙草に、伸びっぱなしの髭。
てろてろで皺くちゃのシャツに、便所サンダル。
トイレ後に洗った手はいつも、ズボンで拭く。
広島カープが負けた次の日は、腹いせに練習量を増やす。
部員にはまるで友人のように接し、敬語や畏まった態度を強制しない。
部員を名前やあだ名で呼ぶ。
自分のことは“監督”と呼ばせない。
だから私も、かつてはあの人を“呼人”と呼んでいた。




卒業以来初めて訪れる母校は、大した様変わりもなく記憶しているままだ。
とは言え卒業して二年以上が経ち、頭の中だけで振り返ってみても、意外と思い出せないことも多かった。
それでもひとたび足を踏み入れれば、あの頃の何もかもが鮮明に蘇る。
制服に袖を通し、毎日この場所を当たり前に歩いていた日々はまだ色褪せてはくれなかった。
思い出すまでもなく勝手に進む足が辿る先は、体育館の非常口。
練習が一息付く時間を何となく察してしまうのは、三年間そこに携わっていたからだろう。
あの頃より伸びた髪を耳にかけ、ひっそりと柱の影から覗いてみれば案の定、思ったとおりの結果がそこにあった。
パンプスを鳴らしながら一歩ずつ、近付く。
カツン、カツン、とコンクリートを響かせるこの音はこの場にはとても不釣り合いで、あまりにも異質だ。
非常口に数段備え付けられている階段に座り込み、顔を俯けながらタオルで汗を拭う顔が聞き慣れない音に釣られて上げられた。
一瞬、目と目が合って息を飲む。
そうして徐々に見開かれる瞳に笑みを向けながら、頭を下げて挨拶の言葉を並べた。

「酒巻先生、お久しぶりです」
「おー、久しぶりだな。元気そうじゃねぇか」

二年とちょっとぶりの再会は、妙に空々しい。

「急にどうした?卒業以来だろ」
「うん、ちょっと懐かしくなっちゃって」
「おセンチになるにゃ早すぎねーか?」
「うるさいなぁ」

自分でも思ってるよ、と唇を尖らせれば、目尻に皺をくしゃりと寄せて「そりゃ悪かった」と笑う。
その変わらなさに安堵しながら、余所余所しさを拭えない自分の未熟さに嫌気が差した。
卒業式の日、最後の挨拶をした時、この人は「いつでも遊びに来いよ」と頭を撫でてくれた。
社交辞令だったのかもしれない。
だけどあの頃の私は相手の言うことを何でも真に受けるタイプで、先生はそれを良く知っていた。
適当なことを言われては簡単に信じ、何度もその反応をからかわれ、その度に「お前バカだねぇ」と笑われた。
そんなふうに私を冷やかして遊んでいた張本人なのだから、私がその言葉を真に受け、簡単に信じることくらい先生は分かっていたのだと思う。
だけど私は卒業してから今日まで、一度もここへ来ることはなかった。
それは社交辞令かもしれないと悩んでいたからではなく、この場所に私の居場所がないことを思い知りたくなかったからだ。
先生の後ろに控える扉を開けば、記憶のままの体育館が残っていて、埃っぽくこもった空気が満ちているのだろうけれど、それはもう私の知っているものではない。
漏れ聞こえるスティール音やボールの弾む音を、懐かしんでいる私がいる。
それは当たり前のことだけれど、その当たり前が私には死刑宣告と同義なのだ。
私をここに、この人に、繋ぎ止めているのはもう、思い出だけ。
耳を澄ませて聞こえる全ての音は、甘い考えの私に現実を教えてくれているようだった。

「相変わらず過酷そうだね。色々思い出しちゃうよ」
「今でもばったばた辞めてくぜ」
「良く乗り切ったなぁって、いまだに自分を褒めたくなるね」
「おう、褒めとけ褒めとけ。自慢していいぞ。俺がここに来てから三年間、マネージャー勤め上げたのは結局お前が最初で最後だ」

眼鏡を取り、塊になった汗の粒を流しながら言われた言葉に、「今、マネージャーいないの?」と首を傾げる。

「いるこたぁいるけどな、続くかどうかはまた別だ。まぁ、漫画読んでとかドラマ観てとかで適当な心構えのやつぁ一ヶ月ともたねーよ。お前も良く知ってんだろ」
「でもきっかけなんてそんなもんじゃない?私だって大層な理由じゃなかったし」
「そのきっかけをどこでどう転換できるかだな。それができるかできねーかで、後々変わってくるんだよ」

私が横浜大栄に入学した頃、酒巻呼人もこの学校でバスケ部監督に就任した。
だから私の高校生活の思い出は、この人と切っても切り離せないものになっている。
三年間、男子バスケ部のマネージャーを務めていたのだから当然と言えば当然だ。
何より、私をその道に引っ張り込んだ元凶こそがこの人だった。
怪我をして、高校バスケを諦めていた私に手を差し伸べてくれた。
一緒にてっぺん目指さねぇか、とおおよそ指導者らしからぬ風貌と態度にこの上なく怪しいと訝しんでいたはずなのに、何を考えるまでもなくその手を取ることを選んでいた。
全国大会優勝を掲げる先生の指導はユニークで、だけど真っ当で、その手を簡単に取ってしまったことを何度も後悔するほど過酷で熾烈だった。
甘えは許されない。
勝つためのチームの育成は、徹底した完全実力主義の御旗の下に既存も新規も関係なく部員を削ぎ落とし、辞めていく人たちは後を絶たなかった。
けれど、そんな毎日はいつの間にか私の胸を震わせ、諦めていた夢が新しく生まれ変わる。
この人なら、本当に導いてくれるかもしれない。
夢物語でも何でもなく、現実にしてしまうかもしれない。
選手でなくても、その高みを目指せるかもしれない、と。
わずかにでもそんな期待を抱いた者だけがチームに残り、その実力は鰻登りを見せることになる。
口先だけの適当な目標ではなく、覚悟を持って心血を注いでくれているのだと確信するには十分すぎる成果だった。
誰もが魅せられた。
圧倒的な手腕、そして信じてみたいと思わせる言葉の数々。
何より、私たちと対等であろうとしてくれるその姿勢に。
だけど現実は気持ちだけで乗り切れるような、そんな生易しいものではない。
まるで振るいにかけるような厳しい環境は、何も選手側だけに課せられたものではなかったからだ。
部員の数が減ったところで練習量が増えれば、マネージャーの仕事もまた増える。
ドリンクの消費量も、タオルの回転率も、想像を絶するものがあった。
部員がより良い環境でリズムを崩さず練習を続けるには、サポートする側にひとつの狂いも許されない。
毎日その日の予定を頭に叩き込み、刻々と変えられるメニューに対応し、求められるよりも先に動く。
頭も身体もいっぱいいっぱいだった。
何より一番厄介なのが八つ当たりだ。
全員が日々の練習で精一杯の状態では、相手が女子だからなんて気遣う気力や余裕が残っているはずがない。
立場の違いも相まって、乱暴な物言いや粗暴な態度でどうしても当たられやすくなってしまう。
上手くいかない苛立ち、後輩が簡単に追い抜いて行く恐怖、これが正しいのか分からない不安、男社会の中ではこのバランスを取ることが何より難しかった。
そのギャップに付いて行けない子は多い。
事実、私と共に入部した子たちは先生の言うとおり一ヶ月ともたずに辞めたし、毎年数人は志望する新入生がいたけれど、やはり誰も続かなかった。
おかげで私の引退と共にマネージャーはいなってしまったので、どうなっているかなぁと今でも時々思う。
新しいマネージャーは入っただろうか、その子は続けられているだろうか、と。
既に卒業して何年も経っている私は、心配する立場ではないのだけれど。

「私が続けられたのは、酒巻先生のおかげだから」
「別に俺ぁ何もしてねーよ」
「結構甘やかしてもらってたと思うんだけど」
「良く言うぜ。無茶言うな!何のための予定だ!って毎日プリプリしてたじゃねーか」
「毎回段取り狂わされたらそりゃ怒るよね」
「まぁ、文句は垂れながらもちゃんと組み直してくれるところがお前の良いところだよ」
「口うるさいやつだって思ってたくせに」
「いやー、教え子に“お前は俺のオカンか”なんて言う日が来るとはねぇ」
「だって先生だらしないんだもん」
「へいへい」
「何だかんだで良く喧嘩もしたよね」
「誰かさんの口が達者で、とうとう俺の負け越しだ」
「どれも先生が悪かったからだよ」
「そりゃお互い様だろ」
「本当にそう思う?」
「…たまには俺を立てろよな」
「私が倒れた時、先生が担いでくれたのは感謝してる」
「他人の世話にかまけて、自分が死にかけてりゃ世話ねーよ」
「洗濯機壊れた時に叩いて直したのはちょっと引いたけど」
「バッキャーロウ。家電は大体あれで一発よ」
「あの時は黙ってたけどさ、先生の靴下洗ってる時に壊れたんだよね」
「何だぁ?それも俺のせいってか」
「いくら持って帰れって言っても脱ぎっぱなしで忘れるから。放ってたらてんこ盛りになっちゃって、仕方なく洗濯したんだよ」
「そうだったかねぇ」
「しかもめちゃくちゃ臭くてさ。アホみたいに洗剤入れたせい壊れちゃったから、一応先生が原因でしょ?」
「…臭かったの?」
「うん」
「いやいや、先生そんな冗談は好きじゃないよ?人を傷付けるジョークは、先生いけないと思う」
「今更嘘言ってどうするの」
「今更だったら言わなくて良くない?靴下の洗濯よりそっと心に仕舞っておく選択の方が、俺ぁは嬉しかったね」
「足は臭いしギャグは寒いし、やっぱ先生の言うとおりだ。続けられたのは私の実力だった。思い出補正って恐いね」
「…俺のこと嫌い?」
「やだなぁ、冗談だよ。本当に先生のおかげだって思ってる。本当に足も臭かった」
「可愛かったあの頃のお前はどこ行っちまったよ」

分かりやすくいじけた姿に、在りし日の私たちを見た気がした。
そして、何年経っても変わらないやりとりは、決して縮まることのない人生経験の差なのだろう。
こうして視線を合わせて話しをしてくれても、それをひしひしと感じずにはいられない。
突っかかる私の言葉など簡単に受け流せるくせに、わざと受け止めて突っ返すのだ。
一生、敵わないのだろうなと思う。
酒巻先生は変わらないね、と呟けば、眼鏡をかけ直してポケットから煙草の箱が取り出された。

「お前に酒巻先生って言われんのは気持ちわりーな」
「先生なのに、変なの」
「在学中に一回も呼んだことねーだろ」
「言われてみたらそうかもね」
「何だよ改まりやがって」
「だって私はもう部員じゃないし。先生と一緒に上がって行ける立場じゃないからね」

今でも瞼の裏に焼き付いている。

お前らを日本一にするまで俺のことを「監督」と呼ばなくていい、一緒に上がって行こう

その言葉が、それを告げた表情が、私の三年間を彩っている。
先生の目指した“てっぺん”に結局私たちは届かなかったけれど、ここに注いだ情熱はいつまでも鮮やかに色付いて、私を生かし続けるのだろう。
届く音、感じる匂い、広がる光景、全てが私の知るあの頃と違ってしまったとしても、かつて私が先生を“呼人”と簡単に呼べていた時間が残した繋がりは、どう足掻いても根付いてしまっているから。

「酒巻監督」

手を身体の前に組み、姿勢を正す。

「全国大会優勝、おめでとうございます」

深々と下げた頭に、髪が視界を遮るように垂れた。
ジャリ、と踏みしめる音を鼓膜が捕らえれば、疲れた様子で座り込んでいたはずの姿が目の前に佇む。
ゆっくりと顔を上げ、「やっとそう呼べた」と笑って見せると、はぁと溜息交じりに乱雑に頭を掻いた。

「やめろよ、情けなくなるじゃねーか」
「どうして?」
「結局、お前を連れて行ってはやれなかった」

思い出すのは、全国大会へ行けないと決まった瞬間。
全く同じことを言って、頭を下げた姿はいまだに私の胸を詰まらせた。
だけどそれさえも、私を掴んで離してはくれない。
カチカチとライターを点ける仕草を瞼を細めて眺める。
ゆらゆら揺れて空気に流れていく煙を追いながら、ふと笑みを漏らした。

「そんなかっこいい言い方してもダメだよ。やる気出させるとか意味分かんないこと言って、部員の前で某南ちゃんの真似させられたことは死ぬまで忘れない」
「評判良かったじゃねーか。大ウケだったろ」
「おかげでしばらく南ちゃん(笑)って呼ばれ続けたからね。結構根に持ってるからね」
「さっきから後出し多くない?」

そりゃ卑怯だぞ、と言いながら先生も笑った。
慣れた所作で扱われる煙草は、まるで吸い付くように先生の指の間に収まっている。
その煙が私の方に流れないよう配慮されていることは、高校生の頃から知っていた。
いつも左手ばかりで頭を撫でられていたことに気付いたのは、卒業してしまってから。
煙草を持つ方の手では、決して触れようとしない。
そしてその右手も左手も、もう私に触れることはない。
程よい距離が置かれた態度は私を突き離すことも甘やかすこともせず、淡々とその事実を並べる機械のようだった。
これが現実だ。
私と先生の間にある、埋めようのない隔たり。
そしてそれを飛び越える勇気を持たない私には、過ぎた想いだ。
一生、叶わないのだろうなと思う。

「悪くなんて思ってないよ。だって約束、守ってくれたじゃない」
「…話があっちこっち飛びすぎだ、バカタレ」

だから、これを最後にしなくてはいけない。
伝えたいことを全て、置いていくために今日ここに来たのだから。

「私はもう部員じゃないし、生徒でもない。でもね、確かにここにいたの。ここにたくさんのものを残して行けた。連れて行ってくれたんだよ。約束したてっぺんにちゃんと、私も連れて行ってくれたの。だから優勝したって知った時は本当に嬉しかった。自分のことみたいに、喜べた。呼人のおかげだよ。ありがとう」

それはとても、とても特別な呼び方。
敬語も、畏まった態度も強要せず、対等であろうとしてくれる証。
横浜大栄高校の男子バスケットボール部の部員にしか許されない、響きなのだ。
それ以外の生徒が真似てそう呼ぶと、生意気言ってんじゃねぇ!と途端に烈火の如く怒るほど、決して安売りされてはいないもの。
嬉しかった。
その名を呼べるということが。
誇らしかった。
呼べば当たり前に振り向いてくれることが。
その全てが今でも私の宝物だ。
わざとらしく声にする“先生”よりもずっと、自然に口を突いた懐かしい呼び名は、思わず呼んでしまった私よりも聞き届けた相手を驚かせてしまったらしい。
間抜けな表情をしたかと思えば、指先にかかった火種に慌てて煙草を落とす始末だ。
その様子があんまり格好悪くて吹き出した私に、居たたまれなかったのかゴホン、と私の呼ぶ“先生”よりずっと、わざとらしい咳払いが零された。

「相変わらず大事なとこで締まらないね」
「うるせー」
「でも、呼人らしいかな」
「…まぁ何だ。その呼ばれ方が、やっぱり一番だと思ってよ」

くすくすと後を引く笑いは、その言葉でぴたりと止められる。
思わず見上げた先には、ざりざりと髭を撫でる姿。
何かを思案したり、照れ臭い時に良く見せる癖だ。
呼人、と滑り落ちそうになった声は、唐突に開けられた非常口の音のおかげで留められた。
少し小高くなっているそこから覗いた顔は、怒気混じりの表情をすぐに“変なものを見てしまった”に変わる。
しばらく戻って来ない様子に、痺れを切らせて呼びに来たのだろう。
私がまだマネージャーだった頃も、何度も同じことをした。
いつまで煙草休憩してんの!?なんて、ガミガミと小うるさく。
おかげでお前は俺のオカンか、などとげんなりさせたことも少なくない。
そういうところも変わってないね、と懐かしんでいると、「言われたメニューは消化したぜ」と汗だくの顔が些か気まずそうに要件を伝えた。

「おぅ、思ったより早ぇじゃねーか」
「次どうすんだよ」
「それよりよぉ、ヤック」
「あ?」
「俺の妄想じゃねぇって分かったか」
「はぁ?何がだよ」
「何じゃねーよったく。お前の目の前にいんのは、三年間マネージャー勤め上げたテメーの敬うべき先輩だぜ?」
「…マジで?」
「マジマジ。マジも大マジ。お前が信じなかったあの伝説の猛者だ」
「…マジっすか?」
「伝説でも猛者でもないけど、三年間マネージャーだったのは本当だね」

マジだったのかよ!なんて慌てて扉を閉めて戻った彼は、「今よぉ!外にレジェンドがいるぜ!マジで存在してんぞ!」とはばかることのない大声を響かせた。
丸聞こえだよと苦笑いを浮かべ、「私のこと何て言ってんの?」と唇を尖らせれば、「ここで三年、マネージャー続けたってのはそんだけ偉業ってことだ」と不意に伸ばされた手が、頭に触れる前で止まる。
着地地点を失った掌はそのまま、不自然な軌道を描いて自分のそれをガシガシと掻き毟った。

「すぐ頭撫でようとするとこも変わらないね」
「お前らと違って、この年になりゃそうそう人間変わんねーのよ」
「…私は、変わった?」

言葉にしてから後悔する。
先生にとって、いや、呼人にとって、私は何も変わりはしない。
どれだけ年を重ねても、立場が変わっても、私は“かつての教え子”以上の何者にもなれやしない。
いつまで経っても子どものまま、埋めようのない年齢と同じくそこにはどうしようもない関係性が成り立っている。
いつか、伝えられると思っていた。
制服を脱ぎ、新しい世界を経験し、たくさんの人と知り合い、色々なものに囲まれ、お酒も飲めるようになり、自分の足で歩けるようになればいつか、と。
だけど実際はそのいつかに近付けば近付くほど、自分がいかに無謀で無茶をしでかそうとしていたのかを目の当たりにしてしまう。
このまま無事に大学を卒業して、運良く就職できて、一人前に自分の稼ぎで生活を営めるようになった頃にはきっと、確固たる格差の前に呆然と立ち尽くすしかないのだろう。
一生、敵わない。
一生、叶わない。
口を突いた問いかけは、横たわる現実だけを浮き彫りにさせるだけだ。
でも、それで良いのかもしれない。
伝えられもしない想いをいつまでも燻らせ腐らせ続けるよりも、たった一言で終わらせてくれた方がずっと建設的だ。
この気持ちはもう、自分で諦める糸口は掴めないのだから。
だったら、方法はひとつしかないのだから。
少し顔を俯けて、なかなか届かない返事に備えれば、ざりざりと髭を撫でる音が鼓膜を震わせた。

「話し方と態度が落ち着いた。随分一丁前になったもんだと驚いたよ。まぁ、ちょっと可愛げが足りねぇけどな。あとは、そうだなぁ…軽々しく頭も撫でれねぇくらい、別嬪になった」

ああ、どうして突き放してくれない。
ここで立ち切ってくれなくては、私はこの人をもうどうしたって諦められなくなってしまう。
期待してしまう。
そうなったら、私は私を止められない。
傷付きたくなくて、恐くて、自分可愛さにあれこれ理由を付けて逃げ回っていたのに。
家族以外で初めて、深い繋がりを築いた大人の男。
初めて心の底から誰かを信じ、尊敬し、憧れた人。
色々なものを混同して、眩く見えているだけだと思った。
離れてしまえば、やっぱり勘違いだったと笑えると思った。
恋ではないと、思いたかった。
だから何も言わずに卒業して、そうなれる時を待つように何度も、何度も、確かめた。
なのに今日までずっと、私の心は絶えず叫んでいる。
それは、恋なのだと。

「呼人!」

流石にそろそろ戻らねーと、と呟きながら向けられた背中を呼び止める。
こともなげに振り返った横顔に思い知る。
傷付きたくなくて、恐くて、自分可愛さにあれこれ理由を付けて逃げ回っていたけれど、私はそんな自分よりずっとこの人のことが、呼人のことが好きなのだ。

「咥え煙草に、伸びっぱなしの髭。てろてろで皺くちゃのシャツに、便所サンダル。トイレ後に洗った手はいつも、ズボンで拭く。広島カープが負けた次の日は、腹いせに練習量を増やす。何でも叩けば直ると思ってるし、だらしないし足は臭いし、年だって信じられないくらい離れてる。叶いっこないって、相手にされるはずないって分かってる。でもそんな人をずっと想ってるの。私、バカだよね」

へらりと笑って見せれば、振り返る途中だった身体が時間を止めたように留まっている。
心臓が大きく脈打つ感覚だけが、私を支配していた。
何か、言って。
お願いだから、なかったことにしないで。
祈るような想いで拳を握ると、ざりざりと微かに届く音にゆっくりと顔を上げた。

「知らなかったか?俺ぁは今も昔も、無謀だろうが無茶だろうが真っ直ぐ突っ走るバカが、大好きだぜ」

何とか返事を絞り出そうとすれば、親指を突き出してクィっと空を切る。
それはかつて、私が当たり前にここにいた頃、私と呼人だけが知る“監督室に行け”のサイン。
倒れた私を休ませるため、呼人が抱えて連れて行ってくれた時から出来た無言の約束は、八つ当たりにめげそうになったり、疲れてふらふらになった時、見計らったように合図が送られ幾度も私を救ってくれた。
私がマネージャーを三年間続けられたのは、やっぱり呼人のおかげなのだ。
呼人がいなければ、呼人でなければ、成し得なかったこと。
数年ぶりに送られたその合図の意図は、今のところ分からないけれど。
その合図が忘れられていなかったことが、どうしようもなく嬉しかった。

「そう言やお前、酒はもう飲めるよな」
「年齢的にはね。まぁ、中身はまだまだ子どもなんだろうけど」

呼人は非常口を、私は監督室を目指しながら、擦れ違う少しの間で交わされた会話に他意はなかった。
成人したから大人だと言えるほど、自分に自信はないし自惚れてもいない。
それなのに―――

「ならそのガキをどうやって飯に誘うか頭悩ませてんだから、俺も大概良い大人にゃなれねーな」
「え?」
「俺の連敗記録も更新ってことだ」

慌てて振り返ってみても、そこはもうもぬけの殻で。
カチャン、と扉が閉められた音を見送りながら、目の当たりにした大人の狡さに頭を抱えた。
つまり終わるまで待っていろ、ということらしい。
ちょっと卑怯じゃない?と一言文句も言いたいけれど、喜んでしまっている時点で墓穴を掘りそうだ。
こうしてまたひとつ、年季の違いに打ちのめされるけれど、前へと進む足取りは軽い。
カツン、カツンと響くパンプスの音は、相変わらずこの景色には不釣り合いで、自分の存在が異質だと思い知らされたとしても、もう尻込みすることはなかった。
社交辞令だったのかもしれない。
久しぶりに会った教え子に、あてられただけかもしれない。
呼人は変わったと言っていたけれど、結局私は相手の言うことを何でも真に受けるタイプであることに変わりはないらしい。
呼人が私を良く知るように、私もまた呼人を良く知っていた。
いつだって目線を合わせて話してくれる。
からかうことは多くても、決して馬鹿にはしない。
熱意には、熱意を返してくれる。
真剣な想いを、はぐらかすようなことはしない。
そんな人だから、傍にいたくて頑張れた。
どれだけ大変でも、続けられた。
好きになった。
恋を、した。



咥え煙草に、伸びっぱなしの髭。
てろてろで皺くちゃのシャツに、便所サンダル。
トイレ後に洗った手はいつも、ズボンで拭く。
広島カープが負けた次の日は、腹いせに練習量を増やす。
部員にはまるで友人のように接し、敬語や畏まった態度を強制しない。
部員を名前やあだ名で呼ぶ。
自分のことは“監督”と呼ばせない。
だから私も、かつてはあの人を“呼人”と呼んでいた。
そしてこれからも、“呼人”と呼び続けるのだろう。
その理由はきっと、もうすぐ生まれる。
新しく目指すそのてっぺんに今度こそ、ふたり並んで立てるように。


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