緑間真太郎。
私は、その男が恐かった。
隣りの席で日々珍妙な持ち物を机の片隅、または傍らに置いていることも、すっと伸びた背筋すらも恐ろしかった。
ただひとつ救いだったことは、その男が好んで誰かと関わろうとしないことだろうか。
隣りの席になってから、挨拶すらまともにせずとも成り立っている。
誰もがこの男との接し方には四苦八苦していたし、こうして遠巻きにしていることが正解という雰囲気が既に出来上がっていたので、私もその風潮に則った態度を取っているのだけれど。
どれだけ恐ろしかろうが、実害がなければ取り立てて困ることはない。
そのまま何事もなく、私は私の学校生活を送るのだろう。
ただ、その冷やかなその均衡は思っていたよりもひどく脆弱だった。
挨拶すらまともにせずとも成り立っていたはずのものは、呆気なく形を変える。

「すまないが、その髪留めを今日一日貸してもらえないだろうか」
「…はい?」

それが、初めての会話だった。
今日のラッキーアイテムなのだよ、と堂々と威厳に満ちた眼差しで訴えられたところで、私としては“だから何だと言うのだよ”である。
はぁ、と随分間抜けな返事をした私を見兼ねて、懸命に笑いを堪えながら様子を伺っていた高尾が手を差し伸べた。

「真ちゃんさぁ、おは朝占いの信者なのね。んで、今日はバレッタ?っつーの?それが蟹座のラッキーアイテムなんだけど見つからなくてさ。それ貸してやってくんねーかな」

無理を言ってるのは分かっている、でもそれがないと一日無事に過ごせそうにない、人助けだと思って貸してほしい。
延々とそんなふうに頼まれ続け、ふたりして頭を下げられてしまっては、私も引くに引けなくなる。
無理難題ならまだしも、髪を留めている安物に対して男がふたり雁首揃えて大袈裟なことだ。
考えるのも、これ以上目立つのも面倒臭くて、髪からそれを抜き取り「どうぞ」と差し出した。
おかげさまでその日一日髪が邪魔だったけれど、緑間の机の片隅に大事そうに置かれているそれが視界に入る度、安物だったはずのバレッタがとても価値のあるようなものに感じて、少し居たたまれないようなくすぐったいような、不思議な気分だったのを覚えている。
それから、そのラッキーアイテムとやらが女子の守備範囲だった場合、良く声をかけられるようになった。
毎度毎度ふたり揃って頭を下げるので、それはもう仕方ないと諦める他なかった。
香り付きの消しゴム、ピンク色のペン、キャラクターもののキーホルダー、果てはリップグロスまで。
持ち合わせで貸せるものは全て与えた。
そして貸したものはきっちり、翌朝必ず手渡される。
恭しい手付きで、感謝の言葉と共に。
最初は迷惑に感じていたけれど、しばらくすれば自分のものが他人に丁寧に扱われるという異様な光景にも慣れ始め、「今日は何?」と苦笑いを浮かべられるようになるのだから分からないものだ。
挨拶すらまともにせずとも成り立っていたはずなのに、いつしか挨拶をすることが当たり前になり、物の貸し出しにも違和感を感じることはなくなっていた。
そんな思わぬやりとりが続く中、色めきだった話題を常に求めているようなクラスメイトたちが私と緑間を勘繰るようになった。
絵面だけを見れば、あの堅物で誰とも馴れ合おうとしない男が、あろうことか熱心に女子に話しかけているのだから、恰好の獲物だろう。
どうなの?とひそひそ尋ねられては、「そんなんじゃないよ。ラッキーアイテムの貸出係なだけ」と困ったふうに笑って見せる。
そうしていれば、とりあえずは丸く収まるのだ。
何よりそれが事実なのだから、それ以上に言いようもなかった。
何度も何度も、笑顔を貼り付けて同じことを繰り返す。
馴れ合いの中でしか生きてはいけないから、そこから爪弾きにされないために思ってもない言葉を口にし、何にでも笑い、適度な愛想を振りまいて可愛げがあるように振る舞う。
自分を取り巻く何かが少しばかり変わったからと言って、私が私であることに変わりがないように、私の日常もまた、大して変わりはないのだ。
緑間真太郎が、変わらず隣りで背筋を伸ばしているように。

思いがけずそこそこ良好な隣人関係を築いていたのだけれど、唐突に始まったものは唐突に終わる可能性を秘めており、私と緑間の関係においてもそれは例外ではなかった。
友人のひとりが、気恥ずかしそうに指先を弄りながら「わたしね、緑間くんのこといいなぁって思ってるんだ」と告げた。
最初こそ得体の知れなさで扱い方が分からず遠巻きにされていたけれど、高尾が絡むことによって見え隠れする面白さに、最近では好んで緑間と接しようとしている姿をちらほら見かけるようになっていた。
それにもともと、見てくれは整っている男だ。
きっかけさえあれば、自分を変えることもなく周りを巻き込む魅力が備わっているのだろう。
だからいつかこんなことが起こるのでは、と思ってはいたけれど、まさか自分の身近な存在から湧き上がるとは流石に予想外だった。
ただひとつ分かっていることは、私と緑間を繋ぐラッキーアイテムとやらの貸し出しに対して彼女には思うところがあるということだろうか。
そしてそれは牽制の他ならない。
ただ席が隣りってだけでしょ、と見える本音がとても馬鹿馬鹿しくて、だけど無碍にはできなくて、何より私は模範的な回答を心得ていた。

「分かった。バトン回すからさ、ラッキーアイテム貸してあげなよ。おは朝占いの蟹座、それチェックして準備してたら外さないと思うよ」

頑張るね、と意気込みながら安堵の表情が垣間見えたのは、私の対応が正しかったことを物語っている。
それ以降、私は徹底して貸し出し申請をする緑間に「ごめんね。それ持ってないから友達に聞いてみるよ」を貫いた。
友人は喜び勇んでそれを緑間に差し出し、翌朝緑間は友人に借りたものを返す。
いつも私がしていたことを、友人が肩代わりするようになった。
ただそれだけのことで、私の日常は結局のところ大して変わっていないのだけれど。
何度持っていないと徹しても、友人を引っ張り込んで貸し出させても、緑間もまた徹底してまず私に持っていないかを尋ねる。
何度も何度も繰り返している内に、最初こそ物の貸し借りで満足していた友人も「どうしてわたしに聞いてくれないのかな」とぼやく始末だ。
けれどやっぱり私は、模範的な回答を心得ていた。

「今まで借りてた手前言い辛いんじゃない?ほら、義理堅そうな感じだし。でも毎回断るのはちょっと申し訳ないと思ってたから、それとなく言ってみるよ」

ありがとう!と喜びながら期待を孕んだ表情に、またもや正解を引き当てたことを確信した。
そうして緑間に、「あの子に直接聞いてみた方が手っ取り早いと思うよ」と微笑み混じりに提案を掲げた。
とある放課後のことだった。
日直で、お互いしか残っていない教室で、日誌を書きながらそう言った私に緑間はしばらく何も応えない。
ふと顔を上げてみても相変わらずの物静かな表情で、何を考えているのかさっぱりな涼しい瞳をこちらに向けながら、一度だけくいっと眼鏡を押し上げた。

「迷惑だったか?」
「ううん、そうじゃなくて。わざわざ聞いてくれてるのに毎回断るのも申し訳なくて」

努めて明るく、嫌味を感じないように選ぶ言葉運びで、あくまで“緑間のためを思って”と言う体を取り繕う。
だから私を通さなくても別にいいんだよ、と極め付けの一言を呟けば、緑間が立ち上がった。
開けっ放しのままの窓へ足を進めると、整った所作で鍵を閉める。
返事はない。
この場合、大抵は肯定だ。
私の役目は果たされたと胸を撫で下ろすと、次の窓の鍵を閉めた緑間は「迷惑でないなら、これからもまずはお前に聞くのだよ」とこちらを見ることもなく言い退けた。
思わぬ返事に、シャーペンの動きが止まる。
その言葉の何がそんなにも、私を追いたてたのかは分からなかった。
だけど確かに何かが、私を大いに揺さぶった。
ようやくこちらを振り返った緑間は真っ直ぐな眼差しで私を直視し、濁りのない瞳の色がとても綺麗で、美しくて、途端に私は息の仕方を忘れてしまったように息苦しくてたまらなくなる。
ああ、これだ。
そう思った。
私が最初にこの男に恐怖を抱いた正体が、そこにはあった。
ほとんど書き終わっている日誌を乱暴に閉じ、机の横にかけてある鞄を持って緑間に背を向ける。
唐突な私の動作は、流石の緑間も違和感を感じたらしい。
何をしている、と近付く足音に「来ないで」と一言、自分でも驚くほどの低い声で拒絶を示した。

「分かった。はっきり言う。本当は迷惑なの」

ぴたりと止まった足音に、追い打ちをかけた。
背中を向けているから、緑間がどんな表情でその言葉を聞き届けたかは分からない。
重たく落ちる沈黙。
それを食べるように、「では何故、さっきは迷惑ではないと言った」と緑間が言った。

「誰だって好き好んで波風立てようとはしないでしょ」
「では、本当に迷惑だったのだな」
「そうだよ。おかげで噂までされてさ、私にだって立場があるの。他の誰にでも務まることなんだから、別に私じゃなくても良いじゃない」
「そうか」

良く分かったのだよ、とだけ言って、カチャンと鳴る金属音に鍵を閉める作業を再開したのだと知る。
緑間にとって、こんなことは何でもないのだ。
誰に何を言われても、自分を貫き通せる強さを持っている。
誰にも左右されない、流されない、その姿勢が物語る信念が背中からでもひしひしと感じられた。
けれど私とて譲れないものがあるのだ。
友人と緑間を天秤にかけたところで、圧倒的に友人が振り切れることなど当たり前だろう。
ここでいつものようにヘラリと笑い、何の悩みもなく順風満帆な日々を送っています、友達だって数えきれないほどいます、誰とでも仲良くなれます、毎日楽しくて仕方ないですと言わんばかりに愛想を振って緑間を立てたところで、友人のためになりはしない。

「私、あんたみたいなのが一番嫌い」

それだけを言い残して、教室を後にした。
あの男のことだ。
そんな言葉はこれっぽっちも意味を成さないだろう。
ここまで言わせておいて、それでも尚私に貸し出しを願うなら、それは私の努力の及ばぬ話になる。
そうしてふりだしに戻り、挨拶すらまともにせずとも成り立つただの隣人は、相変わらず日々珍妙な持ち物を机の片隅、または傍らに置きながら、背筋を伸ばしていた。



関わらなければほとほと無害な男を、何故必要以上に恐れていたのか。
それは緑間真太郎が、私とは正反対の人間だからだ。
クラスメイトや友人に、私がどんな人間かを尋ねてみたとする。
恐らく美人だの、気が利くだの、明るいだの、話しやすいだの、おおよそ好意的な意見が出るだろう。
これは見栄でも強がりでもなく事実であり、何も自慢しているわけではなく、そう思われていて当然なのだ。
何故なら、そう思われるために私は努力という対価を払い続けている。
綺麗に象られた顔、人当りの良い振る舞い、気さくな対応、そのどれもが私の弛まぬ尽力の賜物だった。
誰も中学時代の私を知らない遠い学校を選んだおかげで、通学だけでもかなりの時間を要する。
それでも毎朝家を出る一時間半前に起き、厳しい校則をすり抜ける程度の化粧で最大限自分の顔立ちが引き立つよう色を重ね、髪を軽く巻いて華やかさを欠かさない。
どんな風貌が女子から反感を買うことなく受け入れられるか、羨まれるかを計算し尽くした段取りがこの外見には張り付いているのである。
決して見下されないよう、だからと言って嫌味に感じられないよう成績は中の上をキープしているし、誰に話しかけられても、何を言われても、笑顔で明るく切り返すことを怠らない。
誰もが“良い人”と言うであろう私になるために必要なものは何でも取り入れ、不必要なものは何でも切り捨てた。
その不必要には、中学時代までの私が含まれている。
ありのまま、思うままに過ごしたそこには苦く辛い思い出しかなかったから。
飾らない自分が私を孤独にしたのなら、飾りたくって美しく見せる自分でいるしかなかった。
もう、あんな想いはごめんだ。
だから私は私というキャラクターを作った。
他人に、自分に、好まれるための私になる必要があったからだ。
それは本音とは対極に位置するものなのだから、嘘を吐いていると同義だろう。
そしてそれを維持するためには嘘を吐き続けなければならず、嘘に嘘を重ねて私という人間を構築していかなくてはならない。
粗を見せてはならない、綻びを作ってはならない。
どこにいても、誰といても、常に気を張り続けている以上疲弊していくことは免れないのだけれど。
そんな憂き目を見ても尚、取り繕うことを是とした。
私が他人に愛されるために。
何より、私が私を愛するために。
これだけ努力と犠牲を叩いても、他人から好かれるかどうかはその時の状況や相手の心情、運という結局自分の頑張りでは及ばないフィールドの作用も大きい。
だから他人から好かれなかったとしても、私が私を嫌いにさえならなければそれで良かった。
それだけは払って来た努力と犠牲、自分の頑張りを裏切ることはないのだから。
けれど結果を見ればどうだ。
状況や相手の心情、運が上手く作用してくれたのか、思い描いているよりもずっと素敵な高校生活が私には注がれた。
誰もが私を好いてくれ、そんな私をとても誇りに感じている。
思った以上の成果である。
例え張りぼての取り繕いで成り上がったものであっても、誰もが美しいと認めるならそれは“美しい”のだ。
羨まれれば自尊心は満たされ、好意の眼差しはとても心地良かった。
何より私は私を好きになれた。
とは言え、私もまだ幼気な高校生なのだから、どれだけ細心の注意を払っていても背伸びをし続けていれば無理も出るし、不安や苦悩も皆無ではない。
迷うこともあれば、これで良いのだろうかと思案もする。
けれど作り上げた自分を維持することがどれだけ大変だからと言って、余裕がないからと言って、それを誰かに八つ当たりしたり、悲劇のヒロインぶって見せたり、ましてや誰かのせいにしたりなど、到底したいとは思わない。
そんな無様でみっともない様を晒してしまうことなど、私の望むところではないからだ。
それでは私は私を嫌いになってしまう。
本末転倒も甚だしい。
今までの弛まぬ尽力の賜物が、無意味になり無価値になることなどどうして望むことができようか。
美しく、綺麗で、潔く、誇れる自分でありたい。
だから自分を貶めることをしたいと思うはずがないのだ。
確かに時には疲れ、くたびれ、倒れ込みたいと思ってしまうけれど、この努力に見合う報酬は既に受け取っているのだから、今更弱音など必要はない。
私は確かに他人から愛されているし、私は私を愛しているし、その結果に満足以上の達成感を感じている。
私の願望そのものが、既にこの手中にあるのだから楽をしたいなんて、おこがましいだろう。
私は私というキャラクターを作るために、自分という人間を良く把握していた。
人にはそれぞれ分があり、それ以上を願えば不相応と判断されて目には見えない世界の理に爪弾きにされることもまた、良く知っていた。
私はその分別を弁えているつもりだ。
世の中には何の対価も必要とせずそれをやってのける人もいるけれど、私はそんな特別な人間ではないのだから。
私に楽は許されない。
与えられるためには努力をし、与えられ続けるためには努力を続けなければならない。
裏を返せば努力を続ければ与えられ続けるのだから、こんなにも分かりやすいことはないだろう。
だから不満はない。
満ち足りていると言っても良い。
私は私に満足している。

なんて、そんなものはただの理想論だ。
羨ましい、そんなふうになりたい。
羨望の眼差しを注がれる度に、本当は腸が煮えくり返っていた。
そういうところが好き、ずっと一緒にいたい。
好意を向けられる度に、腹の中では大笑いしていた。
口先だけで言葉を並べている相手を見下し、馬鹿にし、嘲笑し、虐げている。
私はお前たちが惰眠を貪っている時間に起き、容姿を磨いている。
私はお前たちが流行の曲を聞きながら悠長に登校している間、教科書を開きノートを開き必死に成績の維持に努めている。
私はお前たちが誰かの悪口を不細工な顔で語っている時も、口角を上げて笑顔を崩さないよう貫いている。
私が必死に、涙ぐましい努力で積み上げた偽物を、お前たちは愛していると嘯いている。
己の愚鈍さを棚に上げ、誰かを貶めることでしか自分の優位を保てもしない連中が、私を羨むなど馬鹿馬鹿しい。
見せかけに捕らわれ、甘い言葉を並べることしかできない能無しが、私を好きだなど笑わせる。
こんな滑稽なことがあるものか。
取り繕うほど虚しさが増し、慕われるほど不信になり、好かれるほど疑心になった。
満足など、しているはずがない。
美しさなど、綺麗さなど、潔さなど、誇りなど、どこにもありはしなかった。
私の中に、そんなものは欠片も残ってはいない。
モラルも、自尊も、羞恥も、おおよそ人間が持つ良心たるものを全て投げ捨てて出来上がっているのか今の私だった。
私こそが己の愚鈍さを棚に上げ、誰かを貶めることでしか自分の優位を保てもしない人間であり、見せかけに捕らわれ、甘い言葉を並べることしかできない能無しなのだ。
嘲笑っていたものこそが、私の本質だった。
私が友人と緑間を天秤にかけた時、迷わず彼女を選択したのは大切な友達だから、なんてお綺麗な話ではない。
その絆を守るために意図して悪役になったわけでもない。
私にとって友人も、緑間も、心底どうでも良かったのだ。
彼女の恋がどうなっても興味はないし、緑間が変わらず私にラッキーアイテムの所有の有無を尋ねて来ても構わなかった。
私が本当の意味で天秤にかけたのは、これからの私のためになるかどうかだ。
彼女の想いを知りつつ無碍に扱えば、このクラスで私は簡単に亡き者にされるだろう。
どれだけ好かれていても、誰かひとりが声を上げれば簡単に人は掌を返すことのできる生き物だから。
その点、緑間は何にも属さず、何にも流されず、確固たる己というもの持っている。
嫌われることにさえ興味がない。
得てして自分を貫ける強さを持つ人間は、自分の信じているものが揺るがなければそれで構わない。
誰かをこき下ろすことも貶めることも必要としない。
だからいつも私が振り撒いている愛想が、笑顔が、言葉が、偽物だったと知ったところでいちいち誰かに言いふらすなんて低俗なことはしないと踏んだ。
何故なら、緑間にはそんなことをする必要性がないからだ。
そして、いつものように不必要な方を切り捨てた。
私を守るために八つ当たり、悲劇のヒロインぶり、緑間のせいにした。
まったくもって下劣で卑しく、下賤で浅はかな女だ。
けれど呵責する良心など既に私の中には残っていないのだから、結果的に私は私を守り切れたのだ。
そんな自分を、好きでいられるだろうか。
愛せるだろうか。
好きでいられるはずも、愛せるはずも、ない。
本当はこの世の何よりも私は私が嫌いで、大嫌いで、軽蔑していて、嫌悪している。
だから私は、緑間真太郎が恐かった。
私の全てが打算の上に成り立っている砂の城なら、緑間は簡単にそれを飲み込む波なのだ。

馴れ合わず、確固たる己を持ち、それを貫ける強さを持っている。
それを体現しているかのように澱みのない瞳で全てを見通し、恥じることなどないと言わんばかりに真っ直ぐに背筋を伸ばしている姿は、私が渇望した美しさそのものだった。
生まれ持った資質、絶対の自信、ブレない姿勢、何もかも欲しくて、欲しくて、欲しくて、得るために努力を繰り返したのに、私はいつの間にかその対極に立っている。
笑い話にもならないだろう。
だから私はとても恐怖した。
この男には、私の卑しいひとり相撲を見透かされている気がしてならなかった。
眼鏡の奥から澄んだ眼差し、低く真っ直ぐな声、丁寧な所作を漂わせる指先、それら全てが私の醜さを浮き彫りにしているようだった。
だから、関わりが消えて良かったのだ。
誰ひとり態度を変えない状況を見る限り、私の判断は正しかった。
打算に狂いはない。
緑間は私に貸し出しを申し出ることはなかったし、これでめでたしめでたしだった。
どれだけ私の中が真っ黒でドロドロとしたものに満ちていても、私の日常は変わらない。
それで良い。
そうするしかない。
隣人が相変わらずでも、友人が「最近緑間くんから貸してって言われないね」と落ち込んでいても、既に私には関係のないことだ。
いつもどおり笑顔を綻ばせ、思ってもない言葉を並べ、“良い人”であり続けた。
私は、砂の城を守り切った。



「今日の真ちゃん、様子おかしかったっしょ」

帰り際に呼び止められ、高尾は唐突にそんなことを尋ねた。

「さぁ。私にはいつもどおりに見えたけど」

嘘だ。
ずっとそわそわと珍しく落ち着きに欠いた様子を、本当は朝から気付いていた。
けれど今更私に話しかける権利もなければ、そんなものがいまだあったとして、それをする役割は私ではない。
首を傾げ、さも何の話かさっぱりですと見せれば、「まぁ、簡単には腹ん中見せるわけないか」と高尾は練習着の袖を肩まで捲り上げた。

「あんたと緑間の間に何かあったって個人的にゃどーでも良いんだけど、ラッキーアイテムはあいつの死活問題なのよ」
「そう」
「部活に支障出まくりだからさ、仲直りしてくんない?」

このとーり!、と両手を合わせて頭を下げる高尾に、溜息を漏らす。

「喧嘩なんてしてないよ」
「マジで?真ちゃんが頑なに誰にも借りようとしねーなんて初めてなんだよ。いつものルート使えば?って聞いたら、それはもうできないのだよ…なんてアンニュイな顔すっから、てっきりモメたんだと思ってたわ」

髪を掻き上げながらちらりとこちらを覗き見た瞳は、私の言葉を何ひとつ信用していない。
緑間が何か言ったのか、それとも聡いこの男が何かを察したのか。
恐らく後者なのだろう。
静かな攻防戦の決着は、きっとつかない。
どちらも譲る気も、深入りする気もないからだ。
少しだけ瞼を伏せる。
足元、足、胴体、と辿るように高尾を見上げ、「ねぇ、」と零した。

「緑間って、どうしてあんなに正しく綺麗でいられるんだと思う?」

こんなこと、聞くつもりなんてなかったのだけれど。
どこかでずっと、知りたいと思っていたこの疑問の答えを持っているのは、高尾だけだと思っていた。
ふたりで話す機会なんてものは、そうそう訪れない。
素直に言ってくれなくとも、一度くらい尋ねてみる価値はあると思った。
どんな言葉が返ってくるかと待ち構えれば、高尾は今にも倒れ込みそうな勢いで笑い転げていた。

「真ちゃんが正しい!?綺麗!?マジで言ってる!?」
「や、何か真っ直ぐでブレないって感じしない?」
「そりゃ良いふうに捉えたらそうだろうけど。知ってる?あいつ、監督からワガママは一日三回までって決められてんだぜ」
「わ、わがまま?」
「しかも我が強すぎて先輩かもしょっちゅーキレられてっし」
「そう、なんだ」
「意外?」

こてん、と首を傾げる高尾に、「まぁ…」と曖昧に返事をすれば、ニッと歯を見せた笑顔が向けられる。

「緑間ってさ、ああ見えて案外人間臭いやつだぜ。変人だけどなっ」

そろそろ戻らねーとやべーから行くわ。
そう言って傍を通り過ぎた背中に、思わず手を伸ばした。
掴んだTシャツがツン、と張る。

「今日のラッキーアイテム、何だったの」
「ん?確か日焼け止めだったと思うけど」
「そのくらいどこでも売ってるじゃない」
「でもそっちの守備範囲じゃん?」
「じゃぁこれ、渡しておいて。私からって言わなくて良いから」

鞄の中から取り出した小さなボトルを手渡すと、再びこてん、と首が傾げられる。

「や、助かるけど。返す時どうすんの」
「中身ほとんど残ってないからもういらない」
「でもさぁ」

高尾のことだ、適当な言い訳などいくらでも並べられるに違いない。
取り立てて私から受け取ったと言わなければならない理由も、この男にはないはずだ。
それでも引かない姿勢に、顔を俯けた。

「合わせる顔、ないの」

呟く程度の声色が、空気に溶けた。
誰もが通り過ぎる往来で、そんな声が届いていたかは分からない。
だけど高尾は受け取ったボトルを指先で遊ばせながら、「真ちゃん、多分怒ってねーよ?」と言ったけれど、私は何も応えることはできなかった。



ようやく帰れる。
下駄箱からローファーを取り出し地面に置こうと身体を屈めると、すっと差した影の濃さに指先からそれが滑り落ちた。
顔を上げなくても、何となく誰かは分かる。

「高尾といい、あんたといい。そんなにほいほい部活抜けて来て大丈夫なの?」
「今、話さねばならんと思ったから来たまでなのだよ」

ろくに確認もせず放った言葉には、思い描いたとおりの声が返って来た。
上履きを脱ぎ、納めるべきところに置く。
そして足を皮の冷たさの中に滑り込ませれば、さっき高尾に渡したばかりのボトルを握った緑間が佇んでいた。

「これはお前のものだろう」
「高尾から聞いた?」
「いや、以前これを使っているところを見たことがあった」

思いもしない返事に、瞳を丸くする。
随分些細なことを良く覚えているものだ。
わざわざそれを言いに来たの?と問えば、長い指先が眼鏡を上げる。
緑間の瞳を隠すように、逆光がそれを白く滲ませていた。

「あれから色々考えていた」
「この間のことなら気にしないで。私もちょっとらしくなかったから」
「そういうわけにはいかないのだよ」
「私が勝手に怒って、勝手に八つ当たりしただけだよ。緑間は悪くない」
「だがここできちんと向き合わねば、何がお前の気に障ったか結局分からないままなのだよ」
「別に困らないでしょ?」
「困るからわざわざ来たのだろう」

私を見るために俯けられた顔は、相変わらず真面目な表情を浮かべていた。
逆光を反れたせいで、今度ははっきりとその瞳が映る。
真っ直ぐで、澱みがなくて、綺麗な色。
高尾は馬鹿にしたように笑っていたけれど、やっぱり私には正しさだけがそこに詰まっているような気がしてならない。
その瞳に映る私は、一体どんなふうに見えているのだろうか。
いっそ、美しいものしか見えなかったら良いのに。
そうしたらこんなにも居たたまれない想いも、自分の醜さも、知らずに済んだだろう。
ひどく滑稽な対峙に、私は既に成す術がなかった。
だから、この男は恐い。
嫌いとまで言い放った相手に、ここまで普通に向き合えるだろうか。
気後れもなく、接することができるだろうか。
できるのだ、この男は
緑間真太郎だから、できるのだ。
いっそ清々しいほど嫌味ったらしい真っ直ぐさに、瞼を伏せた。

「オレはどうも人の機微というものに疎いらしい。高尾にも良く言われる」
「うん」
「だから今、お前が何を思い、何を考え、何に表情を曇らせたかも分からん」
「うん」
「だが、何度も物を借りておいて口で礼を言うだけで済ませていたことは、人事を尽くしていなかったと反省している」
「え?」
「それも含め色々考えたのだが、こればかりはお前の好みが分からない以上人事の尽くしようがない」
「ちょっと待って。別に何かもらうほどのことなんてしてないし。それであんなこと言ったわけじゃないよ」
「分かっている。しかしそれではオレの気が収まらん」
「そこは収めてくれる方がありがたいんだけど」
「やはり迷惑、だろうか」

そして今度は、緑間がその長い睫毛を伏せた。
伺うような物言いで、まるで恐る恐ると言わんばかりに注がれる視線は、心細さすら感じるほどで。
どうなのだよ、と返事をせっつく様がなんと似合わないことか。
気付いた時には、コンクリートの床に次々と染みが広がっていた。
それが私の涙だと分かるまで、時間がかかった。
私より先にその異変を察した緑間は、慌てて手持ちのタオルを顔に押し付ける。
何だ、どうした、とあたふたする様子は、隣りの席で日々珍妙な持ち物を机の片隅、または傍らに置いて、背筋を伸ばしながら座っている緑間とはかけ離れていた。
覗き込む瞳がゆらりと揺れ、はっと息を飲む。
細い髪の一本一本に光が透け、視界を奪い、思考を滲ます。
まるで心配しているような表情が、胸を突く痛みを覚えさせた。
口先だけで簡単に並べられる言葉でもなく、上っ面のその場を乗り切るための仕草でもなく、そこにはただ純然たる想いの丈が見える。
私は何故泣く。
何故、胸が痛む。
私にはおおよそ良心と呼べるものは残っていなくて、誰かを僻んだり、妬んだり、見下したり、馬鹿にしたり、そうすることでしか自分を保てないほど、腐り切ったものしかこの身体には詰まっていない。
なのに何故、どうして、この男を美しく思う。
綺麗に思う。
そんなものを感じる心すらも、いつの間にかなくしてしまっていたはずなのに。

「私は、あんたが恐い」
「そうか。身長のせいか良く言われるのだよ」
「違う。そんな話じゃない」
「では何だ」
「あんたの、緑間の、その正しさが恐い。綺麗さが恐い。私を、どこまでも追い詰める。自分の汚さを思い知らされる」

自分に嫌悪しても尚、私が私として私を受け入れられたのは、もう後戻りすることができないからだ。
認めてしまわなければ、仕方なかったからだ。
作り上げた自分を、私を、これで良いのだと、これで良かったのだと、慰めなければどうにもならなかったからだ。
けれど緑間の瞳は、姿勢は、言葉は、私が深く、深く、沈めて腐らせたものですら、また美しくなれるかもしれない、綺麗になれるかもしれない、と期待を生む。
それは今までの私を簡単に否定し得るもので、私から全てを巻き上げる引力だ。
だから私は恐ろしい。
この男が恐ろしい。
時間をかけて積み重ね、固め、形を整えた砂の城を、たった一度の波が全てを崩してしまうことを、知っているから。
惨めな女と思うだろう。
惨めな女は、憐れでしょう。
両手で顔を覆うのは、せめてもの私のプライドだった。
いつだって綺麗に整えていたそれが、崩れているところなど誰にも見られたくはない。
それなのに、この男が頭の上からタオルをかけたりなんてするから、泣き顔を晒さずに済む配慮など払うから、まったくこの善良で正しくて美しい男は、私を追い詰めるのが本当に上手い。
私は綺麗でありたくて、美しくいたくて、願えば願うほど正反対にしか進めなかった私ですら、緑間の澄んだ瞳の前ではなくしたはずのものが痛むのだ。
まるで、まだ残っているとその存在を主張するように。
何もなくしてなどいないと期待させ、錯覚させる。
このずるずるに爛れた顔を晒しても、緑間はきっと笑うことも馬鹿にすることもなく、私を私として見るのだろう。
見て、くれるのだろう。

「タオル、汚してごめん」
「洗えば済む」
「うん」
「お前は、自分を汚いと言ったな」
「いいよ。何か言ってもらいたかったわけじゃない」
「汚れてしまったのなら拭けばいい。拭いても落ちなければ洗えばいい。タオルと同じだ。簡単な話だろう」
「…案外、人間臭いこと言うんだね」
「人間だからな」
「そういう意味じゃないんだけど」
「だから気にもするのだよ。嫌いと言われたらな」
「気に、してたの」
「当たり前だろう」
「…ごめん」
「で、その八つ当たりとやらで気は晴れたのか」
「晴れなかったね」
「それでは俺は当たられ損ということか」
「うん、ごめん」
「まぁ良い。それで今日のラッキーアイテムの貸しは返したのだよ」

笑みを含んだその声に、まだそんなことを気にしていたのかと力が抜ける。
途端に何だか馬鹿らしくなって、「撤回する。やっぱ変人だ」と肩を震わせれば、フンっとひとつ鼻が鳴らされた。
タオル越しにでも感じるあの真っ直ぐな眼差しを注がれて、逸る心臓の音に瞼を閉じる。
私は変われない。
このままでしか、生きてはいけない。
どれだけ綺麗事を並べられても、人は変われると諭されても、それを笑顔で聞き流すことはできても心に響かせることはない。
より一層、強固な砂の城を築き続けるのだ。
いつか、その見せかけの虚城が跡形も残らず攫われるまで何度も、何度も。
滑稽でも、下劣でも、醜悪でも、そうとしか生きられない私に、どうか手など差し伸べないで。
振り返らないで。
恐れてやまないものの正体を突き止めようと無様にもがくこの様を、痛みの理由を知りたいと乞うこの姿を、暗く冷たい醜さの中精一杯伸ばすこの手を、汚れ切ったこの私を見ていて。
その綺麗な瞳に、美しい生き様に、清らかな心に、私を映して。
そうして私を、生かして。
ねぇ、緑間。
何にも汚されないその高潔さで、この胸の痛みを知らしめて。













(title by 誰花)

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