「お、これお前が観たいって言ってたやつ?」

そう言って勝手に人の雑誌を捲っていた指先が、とある一部を指す。
“オススメ映画特集!”と題打たれたそれにちらりと視線を上げ、「うん」とだけ言葉を返した。
放課後に、これからどこ行く?なんて話に花を咲かせているカップルなら、それはそれは微笑ましい青春の一ページなのだろうけれど。

「もう公開してるってよ」
「へー」
「こんだけ特集組まれてたら混んでるかもな」
「そうだね」
「素っ気ねー」
「今、私の目の前にあるものが何かご存じか」
「テスト前に居眠りぶっこいた罰?」
「という名の地獄」
「だから俺も残ってやってんだろ」

チャリン、と見せびらかされるのはこの教室の鍵。
そして目の前で私のなけなしの集中を削ぐことに勤しんでいるこの男は、今日が日直だと言う。
あとは俺がやっとくから、なんて胡散臭い笑顔を貼り付け、相方を早々に帰らせると、プリントの束に頭を抱える私の席の前に座った。
本来、家でコツコツやるために課せられた試練なのだろうけれど、先生は何も分かっていないと思う。
部屋の机に、10分と座っていられた覚えはなかった。
それもそのはずだ。
自分で選んだもの、自分の好きなもの、それらを並べるための空間で誰が苦痛のために時間を割けると言うのだろうか。
到底、無理な話なのだ。
だからと言って、この憎き束を放置すれば自身の立場が危うくなることも十分承知しているので、私は考えた。
学校でやってしまえば良いのだ、と。
自分の頭の出来くらいはある程度把握しているので、簡単にことが進むとは思っていなかったけれど、私をからかう悪癖を如何なく発揮するこの男が、黒尾が、わざわざ日直という立場を振るってまで居残るというのは些か予想外の展開だった。
おかげで予定していたよりもずっと、ペンの走りは悪い。
教科書を片手に眉間を寄せる私などお構いなし、と言わんばかりにくつろいでいる表情が今は心底腹立たしかった。




「黒尾さん黒尾さん」
「おー、ひとりで頑張れよ」
「…まだ何も言ってないんですけど」
「ロクなことじゃねーのは分かってっから」
「どうせ分かるなら、この問題を分かってもらいたかった」
「どれ?」
「もはやどれとも限定できないほど言葉と数字の暴力だと思ってる」
「素直に教えてほしいって頼めよ」
「私にもプライドと言うものがありまして」
「あっそ。ひとりで頑張れよ」
「教えてください。お願いします」

仕方ねーなぁ、と覗き込む顔がプリントに影を落とす。
逆向きで問題を読んで行く器用さを見せながら、惜し気もなく近付けられる横顔を覗いてみた。
これが妙に整っているのだ。
とは言え、そう思うようになったのは最近なのだけれど。
一年の頃からそこそこ近くにいたせいか、友人としてならいくらでも語るものは持ち合わせてはいても、“男”としての値踏みはしたことがなかった。
少し見方が変わってしまった理由は、自分でもどうかと思う。
係で資料室を訪れた時、棚の上の荷物を取ろうとした時のことだ。
思っていたよりも棚は高く、その上に置かれてある目的の品は手を伸ばしても随分遠い。
何度か背伸びで頑張ってみても、少しも距離は縮まらなかった。
仕方なく埃の被った椅子に手を伸ばそうとすると、「これか?」と不意に響く声と共に、あんなに遠くにあったものが易々と取り上げられてしまった。
声だけで誰かくらいは分かる。
棚と黒尾に挟まれるという何とも珍妙なシチュエーション、少女漫画かよと思わず大声で叫びたくなるような気恥ずかしい光景に、私はついうっかりこの親しい友人を“男”として見てしまった。
この男の背が高いことなど今更の話で、その特徴を今まで散々利用してきたのに。
あの日から度々真っ当な目で見られない時があり、それは多いに私を困らせる。
そして今も、涼しい表情を覗かせながら問題文を辿る指先に視線を注いでしまうのだ。

「お前なぁ、これ今日やったとこじゃねーか」
「え、うそ」
「教科書108ページの公式」
「あー!ホントだ!」
「流石は寝坊助だな」
「解説以外は口を開かないで」
「じゃ、お疲れさん」
「うそ!うそです!ひとりにしないでお願いします!」

遊ばせていた鍵を机の上に置き、鞄に伸ばされた手を咄嗟に抱えて懇願すれば、すぐに椅子に落とされた腰にほっと安心をする。
黒尾の維持の悪さなら、今まで浴びるように受けて来た。
馬鹿にされたり、おちょくられたり、からかわれたり、それこそ数えればキリがないほどに。
でもそれと同じくらい、面倒見の良さや気遣いに助けられていることも知っている。
だから帰ると言いつつ、本当は欠片もそんなことを考えていない黒尾を知った上で帰らないでと頼み込んだのだから、私も大概意地が悪いと思う。




「いいの?」
「何が」
「テスト前だし時期も時期だし色々あるじゃん。何もこんなアホみたいなことに付き合うことないよ」
「引き止めたやつの言うことか?」
「私はいてくれると助かるから頼んだけど、予定あるなら無理にとは言えないし。部活がないなんてこんな時くらいでしょ。もっと有意義に過ごせばいいのになぁって」
「割と有意義だと思ってるけど?」
「…変なの」
「邪魔か?」
「や、だから私は助かるって」
「じゃぁ余計なこと考えてねーでさっさとそれ終わらせろよ。その方がお前には有意義だろ」

ぺらり、と捲られた雑誌の弱々しい風が前髪を揺らす。
一向に進まないペンをくるりと回しながら、意味不明な文字の羅列に嫌気はピークに達していた。
有意義?これが?この状況が?
どう見ても退屈そうな面持ちに変なことを言うものだと頭を傾げれば、「また分かんねーの?」と雑誌に視線を落としたまま尋ねられた。

「もうどこが分からないかも分からないくらいに」
「受験生の自覚、そろそろ持とうな」
「危機感なら人一倍持ってる自信あるよ」
「威張ることかよ。さっさとしないと日が落ちるぜ」
「分かってるんだけど目標がないからかなぁ。いまいち進みが悪いんだよ」
「お前の場合それ以前の問題じゃね」
「黒尾って基本冷たいよね」
「一緒に残ってやってるやつにそれを言うところがすごいよな」
「すみませんでした」
「おー、素直だねぇ」
「もうそれしか取り柄ないし」
「同感だな」
「あー…やる気でないー」
「出させてやろうか?」

プリントに顔を埋め、うだうだとだらける私に黒尾が提案を掲げる。
なに?と見上げた黒尾の瞳は、雑誌ではなく私を映していた。

「教えてやっから、さっさと終わらせてデートしようぜ」

ニィ、と口角を上げて笑う時は大抵、私の反応を面白がる時の悪癖だ。
やる気を出させてくれるんじゃないの?と白けた眼差しを向ければ、プリントの上に雑誌が広げられる。
例の“オススメ映画特集!”を指差しながら差し出された携帯には、近くの映画館の上映スケジュールが打ち出されていた。
私が観たいと零していた、あの映画だ。
何気ない世間話、駅で見かけたポスターの前で「これ観たいなぁ」と一言、呟いただけのことを良く覚えているものだ。

「黒尾ってさ」
「おい、そこ間違ってる」
「え、どこ」
「そっちじゃねぇ。こっち。計算間違い」
「どうも」
「んで?俺がなによ」
「意外と無邪気だよね」

背が高くて、しっかりとした身体つき、黙っている時は少し近寄りがたさも感じる落ち着きが、時折見せる年相応な表情を引き立てる。
馬鹿笑いをしたり、悪ノリに便乗したり、楽しそうにしている黒尾を見るのは意外と悪くない。
いや、多分安心するのだ。
ユニフォームを着て、チームの主将をしている黒尾がとても遠いことを知っているから。
資料室の棚の上に置かれていた荷物のように、手を伸ばしても背伸びをしても、届きっこないところに行ってしまうから。
だから同じ制服を着て同じ教室にいる姿に、身近に感じられる黒尾に、安堵していた。
ふたりだけの空間。
手を伸ばせば届く距離。
角張った手、筋の通った腕、深く濃い瞳、柔らかに動く唇。
たったあれっぽっちの出来事がこんなにも、私の見る世界を変えてしまった。
揺らぐことはないと信じていた日常が、簡単に色を照らす。

「そりゃ、俺もただの男子高校生ですから」
「何それ」
「好きなやつといて、浮かれんなっつー方が無理な話ってこと」

折り畳んだ雑誌を取り上げ、机の上には現実が広げられるけれど、瞬きひとつで再び世界が創り変えられてしまう。
トン、とプリントに指先が落ち、「お前間違いすぎ」と黒尾が笑った。

「…浮かれてたの?」
「つーわけだから、ホイホイ付いて行っていいか良く考えた方がいいぞ」

頬杖をつき、まるで試すような物言いで、私を見つめる眼差しは静観している。
間違いを指摘された問題を眺めながら、考える振りをした。
睫毛を伏せ、カチカチとシャーペンの芯を押し出し続けると、残り少なかったそれがぽろりとプリントの上に転がった。

「この映画に興味なんてないくせに」
「別に。お前と行けんならどこでも良かったし」

そうさらりと言い退けられてしまうから、横たわる心配事などこの芯のようにか細く弱々しく思えてしまうのだ。

「そういう意味じゃ、俺も結構お得だろ?」

パキン、と音もなくそれを指のはらでへし折り、いとも簡単に砕かれてしまえば、ホイホイ付いて行くことしか考えられなくなっている自分に笑ってしまう。
それはとても単純で、明快で、幼くて、拙い。
それでも迷い迷いでしか進めないのは私も黒尾も同じで、私たちは確かに近付こうとしていた。
変わってしまえば戻れない、一世一代の賭けの舞台に。

「やけにストレートだね」
「お前の素直がうつったかねぇ」
「じゃぁとりあえずあと4枚、頑張りますかー」
「まだそんな残ってんのかよ。時間間に合うのか、それ」
「そこはほら、間に合うようにしてくれるんでしょ?」

よろしくね、と真新しい芯を押し出せば、「言ったな?覚悟しとけよ」と不敵な笑みが向けられる。
何が、とはお互い言わないし聞かない。
でもきっと、重なっていることはふたりとも分かっていた。
だから言わない、聞かない、それでいい。
一問ずつ解かれていく度に迫る約束は、確かに私にこれ以上ないほどやる気を出させてくれるらしい。
せっせと課題に取り組む学生のあるべき姿と、あまりの出来の悪さに呆れながらもヒントを散りばめる指先。
それはそれは微笑ましい青春の一ページなのだろう。


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