大学に進学してもうすぐ一月。
高校とは全く違う授業、私服の学生たち、自由な雰囲気。
何もかもが新鮮で手探りな毎日を送る中、ようやく友達もでき環境に慣れた頃合いに巨大な男がふたり、私の前に現れるようになった。
何でもバスケ部を新設するので、マネージャーとして加わってくれとのこと。
適当にあしらっていれば諦めるだろう。
そう思っていたのに、意外にも粘り強さを見せる190cm越えの壁は今日も待ち構えていたようにエントランスで私を捕まえた。

「頼むよ。君じゃなきゃ困るんだ」
「何回頼まれてもできなもんはできないってば。ってか選手にならない人間誘ってどうすんの。児島も何とか言ってよ」
「そんでも一応は部員扱いだからよ、頭数にはなっからなぁ」
「ホント、勘弁してくれないかなぁ」

溜息交じりに何度そう伝えても、全く諦める姿勢を見せない。
高橋と児島。
頭ひとつ以上飛びぬけて高い身長は、この広い構内でも目立っていた。
通り過ぎる誰かがその背の高さに思わず慄くけれど、当人たちにはもう慣れたことなのか気にする様子はない。
とにかく私は入部しないよ、と改めて意志を示したにも関わらず、「あ、そろそろ次の授業だな。行って来るよ」と見事に人の言い分を無視して我が道を走る。
高橋のそんな態度は、今に始まったことではない。
都合の悪いことは聞き入れない随分便利な耳を持っているらしく、幾度となくこんなことを繰り返していた。

「何で私なの」
「そら、マネージャーやってたからだろ」
「何で知ってんの」
「さぁな。頭良いくせに人の顔はもすーぐ忘れるんだけどよ、お前のことは珍しく覚えてたみたいだぜ」

こうして児島とふたり、置いて行かれることにも慣れてしまった。
児島は欠伸をひとつ漏らす。
とりあえず考えといてくれや、と最後に忘れず添えられる一言ももう聞き飽きた。
何度断ってもこの繰り返しで、堂々巡りは止まる気配を見せない。
高橋では話にならないと、児島がひとりでいる時を狙って断り文句を並べても、「高橋が折れねーよ」と言ってかわされるばかりだ。
どうしてそこまで私にこだわるのか、その理由は知らないけれど。
高橋のあの爽やかな顔面で釣れば、いくらでも女の子はホイホイ付いて来るだろう。
はぁ、と吐き出した溜息に児島は笑う。
そして私から文句が出る前に去ろうと、軽やかに足を進めるのだ。

「ま、目ぇ付けられた以上どーしようもないにゃんっ。諦めな」

人をイラつかせる語尾にも、もはや慣れが勝っていた。



今日の授業が全て終わり、突っ切ろうとしたエントランスにはやっぱり高橋が待っていた。
はぁ、と今日何度目かになる溜息をどれだけ見せ付けても、この男には響かない。
そのくらいのことは既に学習済みだけれど、分かっていても出てしまうのだ。
ここまで来ると見上げた根性だ。
そこは素直に評価する。
けれどそれとこれとは話が違う、と「何回来たって答えは変わらないよ」と先手を打った。

「待ってたのは勧誘のためじゃないよ」

ちょっと付き合ってくれ、と人の返事も確認せずに背中を向けて歩き出すのだから、この男の物腰柔らかな自己中心さは堪らなく厄介だ。
そうして、一度も振り返りもしない様もまた厄介極まりない。
私が付いて行かずにさっさと帰る、という頭はないのだろうか。
結局のこのこと付いて歩いている私が、言えることではないのだけれど。

「…体育館?」
「今日は練習はないんだ。色々話を聞きたくて誘った」
「勧誘じゃないって言ってなかったっけ」
「だから勧誘じゃなくて見学な。あとは意見交換か」
「それ、屁理屈じゃない?」
「そうか?」

ああ、そうだった。
そういう男だった。
決して常識が欠けているのではなく、感性が少しだけずれている。
私がどれだけ肩肘を張って断り続けても、気にもせず同じことを幾度となく言えるのが良い例だろう。
この男は、疑わない。
自分の直感を、自分のすべきことを、自分が欲しいと思うものを。
そしてこの男は、迷わない。
まるでそれらを手に入れる術を知っているかのように、強引に巻き込む。
すべきことだと思ってしたこと全てが、漏れなくこの男を活かすのだ。
人も、環境も、何もかも。
思わず付いて行きたいと思わせるような、一緒に行けば何かを見つけられそうな、そんな不思議な魅力がこの男には備わっていた。
当人はそれを自覚することなく振るうのだから、まったく性質が悪い。
抗い切れぬ鮮烈さではなく、じわりじわりと爪先から浸され気付いた頃には抗えなくなる、そんな類のそれは、惹かれると同時に恐怖をもたらす。
毒され切った後では、決して逃げられなくなるからだ。
これからもずっと、傍で同じ景色を見られたらと願わずにはいられなくなるだろう。
現に高橋たちを慕い、彼と共に在りたくて同じ高校に入学した後輩たちが何人もいると聞く。
一度巻き込まれてしまったなら、もう引き返せない。
それを分かっているから、私は簡単に頷けないのだ。

「ひとりでどうすんの?」
「基礎の繰り返しだな。高校でも最初はコジとふたりでさ、ひとりでやってた時も少なくないんだ。慣れてるよ」

バッシュに履き替え、吸い込まれるように中へと進む高橋の後を恐る恐る進む。
備え付けのスリッパは体育館の床との相性は最悪で、ペタリペタリと不快な音を響かせた。
光の中へ足を踏み入れる。
随分と、懐かしい匂いがするような気がした。

「ほらっ」
「え!?ちょっ!」

唐突に投げられたボールに、慌てて両腕を伸ばした。
ずしりと感じる重みが生々しくて、これを手にすることが日常だった日々が随分と遠いように思う。
こうすることが当たり前だったのに。
それも、もう遠い過去のような感覚だ。
タンタン、と数度足元にそれをつくと、高橋から“パスをしろ”とジェスチャーが向けられた。
私、スリッパなんだけど。
そんな意見はもちろん暢気な笑顔に飲み込まれ、結局私はその男にボールを投げる。
掌から指先へ。
離れて行くボールの感覚に眩暈を覚えそうになりながら、それはまた高橋から私へと投げ返された。
綺麗に真っ直ぐと、ひとつのブレもない軌道を描いて。

「高校までって決めてたの」
「マネージャーを?」
「そう。うちは弱小校だったけど、それでもみんなが一生懸命やってたことは私が一番知ってる。だからできることはそこに全部注いで来た。空っぽになったんだよ、最後の試合、最後の練習が終わった時に。だからもう一滴残らず気力を使い切っちゃったの」
「それが断わる理由か」
「言ってなかったなと思って」

だからもう、私にできることはない。
これで分かったでしょう、と手の内を晒してみても、高橋は何を言うでもなく、スリッパの私に遠慮なくボールを投げ続ける。
投げられたものを無視することもできないまま、私も何度も受け止めた。

「ってことなので、そろそろ諦めてほしいんだよね」
「何で?」
「何でって、あんた話聞いてた?」
「空っぽでも、器が残ってるならまた注ぎ込めばいいだろ」
「毎度のことながら、良くそんな歯の浮きそうなセリフを思い付くよね」
「そこにいたいって思わせる自信なら、あるからな」

私の投げたボールを受け取り、慣れた動作で一度、二度、それをついて狙いを定め放り投げた。
無駄のない整ったフォームから放たれた軌道は、リングに吸い込まれるように静かに重力を受けて落ちる。
必ず入る、と疑いようのないシュートだった。
美しさすら感じる一幕は、その自信が口先だけでないことを証明する。
火の点け方が上手い男だと思う。
私にとってこの体育館の匂いやボールの感触、そしてゴールネットの揺れる音がどれほど心揺さぶるものかを熟知しているかのように、忘れたはずの感覚をみるみる蘇らせていくのだからほとほと困ってしまう。
口先だけなのは、私の方だ。
置いて来たはずの熱が加速する。
共に何かを追いかけるあの、堪らなく焦がれる感覚が、喉のすぐ傍までせり上がるようだった。

「そう言うことは人数揃えて、らしくなってから言いなよ」
「ははっ、それもそうだな」
「…ねぇ、どうして何もないところを選んだの?」

高橋が、高橋たちが、高校時代をどう過ごしたのかは既に知っている。
本人たちから聞くより前に、私たちがそれぞれ違う学校でひとつでも勝利を勝ち取ることに全てを捧げていた頃から、その噂は耳にしていた。
部活動に力を入れていない進学校で、いつかを夢見ながら一からチームを作った男たち。
そんな彼らがまた同じ環境をあえて選んだと言うのなら、その理由は尋ねるまでもないのだけれど。
それでも聞かずにはいられなかったのは、高橋をそこまで魅了したものの正体がきっと、そこにあると思ったからかもしれない。

「知ってしまったからなぁ。何もないところから始めて、育てて、負ける悔しさも勝つ喜びも何もかも。出来上がったものじゃないからこそ味わえる感覚は、言葉じゃ尽くせないさ」
「後輩たちからも、随分慕われてたみたいだね」
「何せふたりだけだろ?できることも限らてる。そんな時に中学生に教えてみないかって顧問から勧められてさ。多分安請け合いしたことだったんだろうけど、その頃教えてた何人かは俺たちを追って来てくれた。今だに待っててください、なんて言うんだぜ。踏ん張る理由には十分すぎるよ」
「よっぽど充実してたんだ?」
「思ったようにできないことも多かったけどな。その分、当たり前に思ってたことがそうじゃないって気付けた。繋いで行くことの大切さは、慕って付いて来てくれたあいつらが俺に教えてくれたことだよ」
「観てたよ。クズ高との試合」
「あまり褒められた内容じゃなかったろ」
「ううん、良い試合だった」

一回戦で早々に敗退して、そのまますぐ会場を後にする予定だった。
沸き立つ歓声に何となくそのコートを見てみると、手に汗握る接戦に誰もが釘付けになった。
その中で一等目を惹いたのが、この男。
無名の弱小校のユニフォーム。
それでもそこにいた誰もが、肩書きなど見ていなかった。
高橋克己、その名を始めて知り、脳裏に焼き付いた瞬間。
そしてもう二度とその姿を見ることはないと思っていた男の名を、姿を、まさかバスケ部のないこの大学でもう一度この目にすることになるとは思いもしなかったけれど。
爽やかな顔で、裏も表もない表情で、落ち着いた声色で、何度も同じ言葉を言い続ける。
何の疑いもなく私を誘い、一緒に行こうとその手を差し伸べる。
ゴールに吸い込まれ、ネットを伝って落ちたボールは私の足元に転がり着いた。
スリッパなんてひどく不恰好で場違いな履物なのに、ここに、この場所に、立っている今が正しいように感じてしまうのは、うんざりするくらいしつこい勧誘のせいだろうか。
拾い上げたそれを見つめ、近付く影に顔を上げる。

「何人かは高校から始めた人もいたよね」
「知ってたのか?」
「動き見てたら何となく分かるよ」
「すごいもんだな。驚いた」
「そりゃね。これでも一応、毎日練習見てたし」
「そういう話聞くと、尚更一緒にやりたくなるよ」
「勧誘はしないって言ったでしょ?」

参ったな、と頭を掻く高橋にボールを差し出す。

「単純にいいなって思った」
「ん?」
「ほら、スポーツって高校からじゃなかなか始めにくいじゃない。中学、下手したら小学生の頃からやって来た人たちと渡り合うなんて、その時点で諦める理由になっちゃうでしょ」
「うちはそういう連中が諦めずに頑張ってくれたよ。今のキャプテンやってるやつは、そんな高校から始めたクチだ」
「うん、だから良いチームだなって思ったの。そういう場所があって良かったって…変な話だけどね」

誰かが誰かに影響を与える。
何かに打ち込める場所が、そこにある。
そんな大それたことをしているつもりはないのだろう。
自分にとって必要だから、自分にとって求めるものだから、高橋の原動力は基本的には全て自分本位なのだ。
それなのに、いつしか誰もが惹かれてやまなくなる。
こんなふうに、高橋から求められる優越感が喜びとなる。
受け取られるはずのボールは、私の両手ごと包み込まれて間近で落とされる視線の強さに私の逃げ場など、もうどこにもなくなっていた。

「今から作るチームもそういう場所になる、だろ?」

その問いかけに応えろなんて、ひどく横暴だ。

「だからそう言うことは人数揃えて、ちゃんと部になってから言いなって」
「選手の人数はそこそこ揃ってるんだ。監督も引き受けてくれる人がいる」
「そう、なんだ」
「お前を含めてそんなチームにしたい」

これだからこの男は、とボールを持つ手に力を込める。
私の都合などお構いなしで、私の言い分など知らぬ存ぜぬで、私の拒絶を簡単に乗り越える。
私がどんな覚悟で、最後を決めたかも知らないくせに。
包み込む大きな手は乾燥していて、皮が厚くて、角張っていて、熱い。
立派なプレイヤーであることを物語っていた。

「あの熱量を感じてる瞬間は、プレイヤーもマネージャーも関係ない。同じもので戦ってる戦友だ。それを知ってるなら、すぐにあてられるよ」
「何それ、予言?」
「いいや、必然だな」

俺もお前を知ってたから、と曖昧な答え方に首を傾げる。
些か気まずそうに口ごもるなど、高橋には珍しいことだった。
どういうこと?と踏み込めば、観念したのか「知ってたよ。誰より声出して応援してた熱心なマネージャーだったから。だからこの学校で見かけて、どうしても欲しかった」などとのたまうので、とうとう私は顔を真っ赤にして俯く他なくなってしまうのだ。
まったく、この男の頭の中はどうなっている。
そんな言葉、簡単に言ってくれるな。
だけど手から伝わる脈拍がさっきよりも少し速まっているのは、勘違いでないと良いと思った。

「やだなぁ、せっかく落ち着いた学校生活送れると思ってたのに。児島の言うとおりになっちゃった」
「何の話だ?」
「目を付けたら、しつこくつけ回されて口説かれるって話」
「おいおい、物騒なこと言うなよー」
「違う?」
「まぁ、お前にはそのくらいする価値があるってことだよ」

本当に、どうしようもない。
こうなってしまったら、もう私には振り切れる意地など残ってはいないのだ。
空っぽだった器には確かに、微かな一滴が注がれた。
懐かしかったはずの感覚が今に変わり、焦がれるように祈りながらボールを、選手を、見送り続ける戦場に還る。
もう二度と、主観で観ることはないと誓ったはずのコートに。
試合が始まれば無力であることを痛感させられ、遠く眩しくなる背中に後悔と焦燥を覚えながらその場所に立つことがどれだけ苦痛で、どれほど誇らしいことかを再び知るために。
ほどなくこの男は、私が地道に築き上げた決意を簡単に振りほどいてしまうだろう。
覆うように触れられた手に、数秒後の未来を悟る。
もう一度、この場所で、夢を見る私の末路を。

「言っとくけど私、結構口うるさいからね」

言葉とは裏腹に、ふふっと漏れた笑みに高橋が目元を柔らかく下げる。
まるで私が頷くことを、分かっていたかのように。

「今日は練習ないんでしょ?後でバッシュ買いに行くの付き合ってよ」
「前に使ってたのじゃダメなのか?」
「もうやらないつもりだったから、処分しちゃったんだよね」
「おいおい、薄情だなぁ」
「女なんて基本そういうもんだって」
「夢も希望もなくなる気分だよ」
「夢や希望持ってるほど、不自由してないくせに良く言う」
「欲しいものは自分で手に入れる主義だからな」
「口説くのが上手い男は、ろくな男じゃないって本当だね」

いつか、後悔するかもしれない。
やっぱりやめておけば良かったと、自責するかもしれない。
けれど求められたのなら、応えたい。
高橋の言葉にそう感じたのなら理由なんてそれで、それだけで、空っぽの器へ確かに注がれた一滴でさえ充分すぎるほど、満たされている気がした。


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