いつもより早く目が覚め、何だかちょっと得した気分だと鼻歌混じりに支度をし、いつもなら観る余裕のないテレビをのんびり眺めていたことから、今日と言う日の全ての間違いを犯したのかもしれない。
そこからは散々だった。
おは朝占いでは最下位に輝き、縋る想いで確認をしたラッキーアイテムは“ピアスをしている男性”と言われ、普通にピアスでいいんじゃないの?何で男限定なの?嫌がらせなの?と冷静にツッコんでいるうちに結局いつもより家を出る時間が遅れた。
息も絶え絶えに何とか辿り着いた最寄駅では、『迷惑行為により電車が遅れています』のアナウンスが鳴り響き、どこぞの痴漢野郎のおかげで遅刻が決定してしまった。
高校入学してから、初めて遅刻だ。
密かに皆勤賞を狙っていた私の野望は、早々に潰えてしまった。
学校に着いたら着いたで教科書を忘れていたり、ノートを忘れていたり、宿題を忘れていたり、日直だったり、まさしく踏んだり蹴ったりというやつで。
もしかしたら今日、生きて帰れないのでは?と思うほど嫌味ったらしいくらい小さな不幸の積み重ねが、随分と心を磨耗させていた。
そして今日一番の災難が授業の終わり、ほっと安心した時に襲ってくるなど誰が思っていただろうか。
おは朝占い、恐るべし。
どうせ遅刻するならピアス男を探してから登校するべきだったと、疲弊した脳みそは正しい考えを導いてはくれない。
とりあえず、何とか生きて家まで辿り着こう。
そう心に決めていたのに。
黄瀬涼太。
この学校でこの名前を知らない人はいない、むしろ世間の若者という広い括りでも、この名前を知らない人はそうそういないかもしれない。
そんな男が、ごくごく一般的で在り来たりな高校生である私の前に立ち、それはそれは整った顔を美しく綻ばせていた。

「ありがとう」

玩具をもらった子どもみたいに嬉しそうに、笑った。



遡ること数十分前の話。
さっさと身支度を整えて帰りたい私を教室に縛り付けていたのは、日直という忌まわしい役割のせいだ。
どれだけ面倒だと思っていても、学校という小さな社会でそれなりに生きていくには、決められたルールを最低限守る必要がある。
あえてそれを破ることで己の存在を誇示したがる人間も中にはいるようだけれど、私に言わせればバランス感覚に欠落した残念な思考だ。
教師に目を付けられ、足並みを揃えることを義務付けられた空間の中で悪目立ちをすれば、必ず面倒事に巻き込まれるから。
必要のないこと関係のないことには、知らぬ存ぜぬを貫く。
それが賢い生き方だとは言わないけれど、得てして面倒事とは無縁になるのも事実だった。
得がない代わりに損もない、平々凡々恙なく、なんて良い響きだろうか。
“今時の子ども”と揶揄される無関心を盾に黙々と日誌にやる気のない文字を書き込んでいる時、それは起こった。


「黄瀬クーン、万引きは良くないと思いまーす」


教室の扉の前で、ひとりの男が声高々にそう言った。
っていうか誰だ。
クラスの人間ではないけれど、
そんな暢気なことを考えていると、見知らぬその男は「俺、購買で見ちゃったんだよね」と大立ち回りを続けている。
っていうか、あれは誰だ。
いまだ暢気にそんなことを考えている私とは裏腹に、“黄瀬が万引きをした”という言葉で教室の空気は冷え切った。

先生、呼んで来た方が良いのかな。
でもまだ本当かどうかも分かんないし。
っつーかあいつ誰?
ほら、隣りのクラスのサッカー部。体育で黄瀬にコテンパンにされてたやつじゃね?

終礼後しばらく経っているとは言え、教室にはまだほほんどのクラスメイトが残っている中、唐突に始まった公開処刑はその場にいる人間の動きを止めた。
ひそひそとどこかしこで飛び交う話し声で、私の疑問は比較的速やかに解決したけれど、突然巻き起こった自体は収集する気配を見せない。
ところが周囲がこの異常事態に慌てふためく中でも、当の本人は至って冷静だった。
恐ろしいくらいに表情を変えることなく、エナメルバッグを背負い、時間を確認する素振りを見せていた。
その淡々とした立ち振る舞いが、どうやら勘に触ったらしい。
おい何とか言えよ!と分かりやすい小物感を滲ませながら噛み付いた隣りのクラスのサッカー部とやらは、扉を塞ぐように立ちはだかったまま黄瀬を睨み付けていた。

「何とか言えって言われても、心当たりなんてないっスよ」

これはどう見ても、黄瀬の方が何枚も上手だ。
安っぽい挑発には一切応じない。
乗り込んで来た相手の考えなど、考えるまでもないという様子だ。
この華々しい男に、何かしらレッテルを貼り付けくすませようと言う魂胆くらい私にも分かる。
アホらしい。
心の底からそう思った。
つまらない面倒に巻き込まれては困る、ともともと丁寧になど書いていなかった日誌に、更に適当な文字を並べる。
これはさっき使った言い回しだとか、そんなことを考えている場合ではなかった。
本格的に事態が拗れる前にと急がせるシャーペンの芯が、力んだが故にポキンと小気味よく折れる。
それと同時に、恥ずかしげもなく芝居がかった言動を繰り返す隣りのクラスのサッカー部とやらは、ズカズカと教室を縦断して黄瀬の前に立った。
まずい、これは本格的にまずいぞ。
恐らくクラス中の誰もがそう思っただろう。
乱闘騒ぎになれば教師が首を突っ込まざるを得ないし、比較的巨体な男ふたりを命からがら止めに入らなければならなくなる。
そして何より黄瀬には仕事があるのだ。
顔はこの男にとって大事な商売道具であり、生命線だろう。
シン、と張りつめた静けさが満ちる教室で、数名の女子は今にも悲鳴を上げそうになっていた。
双方睨み合いの膠着状態が続いている。
よろしくない、これは大変よろしくない。
何故なら黄瀬は私の斜め前の席だからだ。
つまり今、その睨み合いは斜め前で盛大に行われている。
このままことが暗転すれば、間違いなく巻き添えを食らうだろう。
ああ、面倒なことになった、と密かに溜息を吐き出せば、膠着状態を破ったのは意外にも黄瀬だった。

「あのさぁ、オレ今から部活あるんだけど。まだ何かあるんスか」
「は?お前自分の立場分かってんの?」
「オレは万引きなんてしてないっスよ。それで解決っしょ」
「じゃぁ鞄の中見せてみろよ!」

そう言って黄瀬から荒々しくエナメルバッグを剥ぎ取り、その中身を周囲にぶちまける。
バッシュやらTシャツやら、恐らく部活で使用するであろうそれらが宙を舞い、木目の床に散らばった。
その中にひとつ、他の荷物とは似つかわしくないものがころりと転がる。
誰もがそれに視線を奪われた。

「コレだよコレ。お前さ、コレ盗ってたよな」

“コレ”と呼ばれたものを摘まんで見せた隣りのクラスのサッカー部とやらは、もう言い逃れはできないぞとばかりに得意気だ。
それを突き付けられた黄瀬は、首を傾げて「何スか、それ。オレは知らないっスよ」とけろりと言い退ける。
そりゃそうだろう。
どうして黄瀬が女物の、ましてやどきついピンクのシュシュを盗むと言うのだろうか。
アホらしい。
購買に置かれてある品はどうにもセンスが斜め上を行っている、という話題で少し前に友達と盛り上がったことを思い出した。
流行物を取り入れようと画策していることは評価するけれど、趣が何せ極端なのだ。
一言で言うとダサイ。
街中などで時折見かける、流行りに乗っかろうとしたけど残念になっちゃってる、という現象に酷似している。
隣りのクラスのサッカー部とやらが見せびらかすようにその手に掲げているそれもまた、そんな購買クオリティーを如何なく発揮していた。
それは黄瀬がリスクを冒してまで手にするものではない、ということを何より証明しているようなものだと思う。
本当にアホらしい。
冷やかに思っているのは私だけではなく、恐らく突っかかられている黄瀬も同じだろう。
一方がいくら熱くなったところで、あまりにも幼稚な言い分は悪意を向けている相手に何ひとつ響いていないのだ。
けれど、周囲はそうはいかない。
どれだけ粗だらけの言い分だとしても、自信満々に大声で叫ばれる暴力的な訴えは“それらしさ”を作り上げる。
冷静さを欠く状況で、それは非常に厄介だ。
パニックの中、“そんな気がしてきた”と思わせる。
最初こそわけの分からない状況にあたふたしていた雰囲気は、徐々に疑惑を抱く空気へと流れていた。

万引きってさ、ストレス発散とかでやっちゃう人いるって言うよね。忙しそうだしさぁ。
えー…何かショック。そんなことする人だと思わなかった。
先生呼んだ方がいいかもな。
どうする?

ちらほらと聞こえ始めるひそひそ話は、まさしくその象徴だ。
あのアホが、集団を先導する心得を持って挑んだことだとは思えないけれど、結果オーライとなってしまうのも時間の問題だろう。
こと学校という閉鎖された集団生活において、その場の雰囲気というものは何より重要なのだ。
事実がどうであれ、誰もが「黒だ!」と声を上げれば白も黒になってしまう。
作られた環境が自分にとって不利になりつつあることを黄瀬が気付いているかは分からないけれど、彼は変わらず冷静だった。
心底くだらないと言いたげに、目の前で喚き続けている男を静観している。
さぁ、どうする黄瀬涼太。
書きかけの日誌は、いつの間にかそっち退けになっていた。

「人気モデルくんが万引きなんてスキャンダル、やべーだろうなぁ」

ニタニタといやらしい表情で、隣りのクラスのサッカー部やらは勝ち誇る。
けれど黄瀬の顔色は変わらないし、何も言わない。
お好きにどうぞ、とでも言わんばかりだ。
それは些か意外だった。
流石に何か物申すだろうと思っていた予想が、裏切られたのだ。
このアホにとってはある種の最終兵器だったろうに、それは見事に肩すかしに終わった。

「まぁその前にバスケ部がやべーか。やっちゃったね、黄瀬クン」

続けて放たれた第二波も、きっと不発に終わるのだろう。
誰もの羨望を集めるモデルの仕事ですら、姿勢を変えなかったのだ。
今更部活ひとつで何が変わる。
そろそろ潮時だな、と見切りを付けようとしていたのに、再び予想は裏切られる。
当事者だと言うのに随分落ち着き払った様子で、ただ事の成り行きを傍観していた黄瀬の表情が、ふと変わった。
散々あることないことを言われ、蔑まれ、貶め、卑しめられても、眉ひとつ動かさなかった男が、唇を噛みしめたのだ。
その時、私は勢いよく日誌を閉じた。
バン!と響く騒々しい音は、騒然とする声の波を水を打ったように静まり返すには十分だった。
斜め前へ注がれていた関心が、私へと移る。
私には関係のないことだ。
好きに騒ぎ、好きに責め、心行くまで己の自尊心を振りかざせばいい。
確かに、そう思っていた。
だからさっさと日誌を書き上げ、混乱に乗じてこっそり抜け出そうとしていた。
けれど、どれほど悪く言われても動じない姿勢を貫いた男が、『バスケ部』という声に何かを投げ打とうとする姿勢を見せた。
腹が立たないはずがない。
納得できるはずがない。
それでも、守ろうとしていたのか。
消して言い返すこともせず、表情を止めて、耐えていたのか。
自分の面目も仕事のキャリアでもなく、そのために。
それは処世術という便利な言葉で、無関係を装う私の良心を震わせるには十分だった。
確かに黄瀬は、あの見てくれを最大限に利用した生き方で随分楽をしているように映るだろう。
歯に衣着せぬ物言いや態度が、癪に障るというのも分からなくはない。
自分が目立ち、故に反感を持たれやすいと理解しているにも関わらず、あえてそれを開けっぴろげにしている黄瀬にも、少なからずこの事態を招いた責任はあっただろう。
けれどそれは、ついさっきまで程よい関係を築いていたクラスメイトから掌を返される憂き目に合うほどではないはずだ。
椅子から立ちあがり、騒動の渦中へ足を踏み入れる。

「証拠は?」
「…は?何だお前」
「黄瀬が購買でそれ盗んだ証拠、見せてよ」

何てことはない疑問をぶつければ、簡単に綻びが出て来る。
突っ込まれた時の適当な返しも考えていなかったのか、既にしどろもどろになっているその男の後ろから「俺らが見てたんだよ!」と加勢なのかどうかも怪しい言い訳が返った。
っていうか誰だ。

「見てただけ?写真とか動画とかないの?」
「それは…」
「ないんだね?」
「俺らはそいつが万引きしてんの見てんだよ!盗んだもんまでここにあんだから、証拠はそれで十分だろ!」
「でも黄瀬は覚えがないって言ってるよ」
「ただの言い逃れじゃねーか」
「そうかもしれないね。でも今のところ、そっちの意見も黄瀬の意見も信憑性は大して変わらないよ」
「はぁ?」
「そっちの言い分でしか黄瀬がやったって証明できるものはないし、黄瀬の言い分でしかやってないって証明もできないでしょ」
「盗ったもんがあるだろ!」
「黄瀬が盗ってないとしたら、置きっぱなしの鞄に誰かがこっそり入れたのかもね。そんなの、やろうと思えば誰でもできるし」

正直、チョロイと思った。
たったそれだけの質問で、隣りのクラスのサッカー部とやらとその舎弟(もう誰でもいい)の狼狽えは凄まじい。
あれほど黄瀬への疑いを濃厚としていたクラスメイトも、どんどん乖離し始める。
もう面倒はこれで十分だ、と比較的近い席にいる友人に視線で合図を送った。

「お金扱ってるところだし監視カメラくらい設置してるでしょ。今から確かめようよ。何が本当で何が嘘か、それではっきりさせればすっきりするんじゃない?」
「オレは賛成っスよ。これ以上はもう勘弁してほしいし」
「べ、別にそこまですることは…」
「これだけ大騒ぎしといて、今更逃げる?」

わざと挑発的にそう言えば頭に血が登ったのか、隣りのクラスのサッカー部とやらは予想通りの行動を辿ってくれる。
伸ばされた手は、私の襟口を掴み上げた。
まったくもって単純で、上出来で、チョロイ。
もちろん教室は騒然とし、黄瀬は思わずと言った様子でその男の腕を掴む。
それもまた、想定外の一幕だった。
クラスメイトとは言え大した関わりもない上に勝手に出しゃばって来た女を、黄瀬が咄嗟に庇おうとするとは思っていなかったのだ。
若干の計算違いはあったものの、概ね首尾は良好。
私の言葉に“言われてみればおかしいかもしれない”と十分に印象付いたクラスメイトたちは、女に掴みかかった男の言動にもはや聞く耳はもたないだろう。
集団の先導はほぼ手を打てている、あとは…と扉の方をちらりと見れば、勢いよく開けられたそこから担任と友達が息を上げて駆け込んで来た。

「せ、先生…!この人、黄瀬のこと万引きしたって言いがかりをつけて…急に殴り込んで来たんです。誤解だって言ったら、掴みかかって来ました…。みんなすごく、恐かったんです…」

何をしているんだ!そんな教師らしい言葉が出る前に怯えるように、鼻にかかった声で、時折グスリと鼻を鳴らして涙を零しながら、顔を伏せてとにかく言い切った。
先手必勝だ。
恐がる女と掴みかかる男、それだけでも悪とされるのがどちらかなど十分に一目瞭然だった。
先生が私たちを引き離しながら、「本当か?」と尋ねたクラスメイトたちも一様に「そのとおりです」「本当です」と口を揃える。
みんな被害者なんです、と煽った成果が顕著に表れる結果となった。
もうここに、隣りのクラスのサッカー部とやらとその舎弟に逃げ道はない。
さぁ観念しろ。
落とし前はきちんとつけてらおう。
周囲に事情を尋ねる担任と、口々に応えるクラスメイトたちはすっかりそれに夢中で、もはや誰ひとり私に注意を払ってなどいなかった。
その隙に解放された襟口を正していると、ポカンと口を開けた黄瀬と目が合う。
この際、黄瀬にならタネ明かしをしても良いだろうか。
こっそりと掌を開いて見せ、ぺろっと舌を悪戯気に覗かせた。
黄瀬は驚いたように目を見張り、そして笑いを堪えながら肩を震わせる。
とりあえず、これで黄瀬が悪者になることはないだろう。
ポケットに常備している目薬を隠すように、そっと掌を握った。



結局事情聴取に巻き込まれたおかげで、いつもより随分と遅い帰宅時間になってしまった。
書きかけの日誌はもうそのままで構わないとお許しが出たけれど、それにしても割を食ってしまった感はある。
面倒事には巻き込まれず、何事もない平穏な毎日を目標としていた高校生活は、呆気なく終わりを告げてしまったけれど、黄瀬の類稀なるイケメンパワーの為せる業か。
普段目立たない私が掟破りに参戦したことよりも、喚かれても凄まれても動じず、冷静に対処した上に咄嗟に私を庇おうとした黄瀬の行動の方が、みんなの記憶には強烈に刻まれたらしい。
騒動が収束に向かう中、黄瀬の周りは黄色い声援と雄々しい歓喜の声に包まれていた。
こちらとしては怪我の功名だ。
何とか落ち着くところに落ち着いてはくれたのでこれで良しとしよう、と上履きからローファーに履き替え、トントンと数回足を鳴らすと、不意に呼ばれた名前に振り返る。

「今日のMVPなのに、さっさと帰るんスね」

既に靴を履きかえている黄瀬は、当然のように隣りに並ぶ。
部活は?と尋ねれば、「今日は帰れって言われちゃったんスよ」と涼しい横顔を見せた。

「まぁ、災難だったね」
「それはオレよりそっちでしょ」
「自分で割って入ったんだから、誰かのせいなんて思ってないよ」

本心をそのまま伝えれば、くるりと瞳が丸まる。
今日はこの男の間抜けな顔ばかり見ている気がした。

「何かサッパリした性格っスね」
「良く言われる」
「や、でもマジで助かったっス」
「気にしないで。ほとんど気まぐれみたいなものだから。別に善意でやったわけでもないしね」
「そうかなぁ」
「善意があったなら、最初から口出ししてたよ」

そしてそれもまた本心なのだ。
揉め事に火が付いた時、私は心の底から巻き込まれるのを嫌った。
成り行きを流し見ていた際も、さっさと日誌を仕上げることに勤しんでいたし、殴り込みをかけるつもりなど毛頭なかった。
どのタイミングなら目立たず教室を去れるだろうか、とすら考えていた。
善意など、どこにあったと言うのだろうか。
正義感なんてものも、これっぽっちもない。
ただ私が瞬間的にムシャクシャして、そんな自分を抑えきれなかっただけのこと。
無関心を貫けなかった、私の拙さの他ならない。
美談にされるなんてまっぴらごめんだと仄めかすけれど、私の返答はどうやら黄瀬の納得を勝ち得るものにはならなかったらしく、首は捻られたままだった。

「聞いていいスか?」
「どーぞ」
「じゃぁ何で、庇ってくれたの?」

黄瀬は明け透けにそう問うた。
だから庇う、なんて大それたことはしていないのだと言っても堂々巡りを繰り返す。
正直あまり気乗りはしないものの、あの時私を駆り立たせた発端を思い返した。

「バスケ部の名前が出た時に、顔色が変わったから」

目の前で繰り広げられる惨事に、ただひたすら冷淡な反応しか見せなかった男が滲ませた何かが、私を突き動かしたことは確かだ。
噛みしめられた唇が、本当は何を意味していたかは知らない。
悔しさなのか、怒りなのか、それさえ私には察することはできなかったけれど、黄瀬にとってそれは何より守るべきものだということは理解できた。
だから私も、随分と似合わないことをしてしまったのだ。
自分の信条とは180度正反対に位置することを。

「変わらず淡々としてたら、そのままこっそり帰るつもりだったんだけど」
「でもしなかったんスね」
「何ていうか、一番大切にしてるものっぽいなって思ったし」

選んだ言葉は黄瀬の納得を買えただろうか。
ふと伺うように見上げた横顔は、頬を掻きながら少しばかり照れ臭そうに、だけどどこかバツが悪そうに「顔に出したつもりはなかったんスけど…」と、ひどく年相応な表情を見せる。

「まぁ、私が出しゃばらなくてもファンが庇ってくれただろうけどね」
「どうっスかねぇ。見たでしょ。サーって引いてくクラスの子たち。万引きしそうって一瞬でも思ったってことだし」
「あんたに憧れてるから余計なんじゃない?こう、振れ幅が大きすぎてショックの度合いがすごかったんだよ」
「でもあの時あの場でオレのこと信じてくれたのは、キミだけだった」

今時、月9でも言わないような言葉をさらりと並べた黄瀬は、抜けるような笑顔を向ける。
だから、そんなんじゃないってば。
そんな苦し紛れの言い分など、その眩しい表情を前にしてはひどく無力で、「オレがそう思ったからそれでいいんスよ」と頷き、「ありがとう」と言った。

「信じる信じないの話じゃなかったけどね」
「ははっ、言えてる」
「だから気にしないで良いよ。私が勝手にしたことだから」

本当は、泣き落としをする予定は組み込まれていなかった。
駆け付けた担任に、冤罪吹っかけてきやがりましたよとだけ言って、あとはお好きにどうぞとするつもりだったのだ。
ここまでお礼を言われることを頑なに拒否し続けるのは、それが理由だったりする。
何度も言うよう、善意などなかった。
一応噛み付いてはみたものの、最後の最後まで私は詰めを他力本願にしていたし、隣りのクラスのサッカー部とやらとその舎弟の処分にも全く興味はなかった。
彼らにどんな罰則が与えられても、与えられなくても、黄瀬が悪い立場にならないのなら大団円と思っていたからだ。
そんな私が急遽アドリブで泣き落としをするに至ったのは、やはり黄瀬だった。
胸倉を遠慮なく掴まれた時、黄瀬は咄嗟にそれを阻もうとした。
黄瀬の立場を少しでも緩和するためには、胸倉を掴むくらいはしてもらわなければ困る状況だったので、私がそう仕向けたのだけれど。
自分のことでは何を言われても冷静を貫いた男が動いた、二度目のことだった。
そして私の心が動いた、二度目のこと。
だからあのふたりを落ちるところまで落としてやろう、と決めた。
それこそ黄瀬に言い放った、「まぁその前にバスケ部がやべーか。やっちゃったね黄瀬クン」を「まぁその前にサッカー部がやべーから。やっちゃったなてめーら」に変えて、そっくりそのままノシを付けて返品させてもらったのだ。
先生たちの口振りだと、サッカー部にも連帯責任という日本の悪しき習慣が降りかかることは必至だろう。
これに懲りて、いけ好かない手段で誰かを貶めるなんてことは、もう考えないでくれるといいけれど。

「今日って何か予定あるんスか?」
「もう帰りたい気持ちでいっぱいですけど」
「腹減ったし何か食いに行こ。あ、もちろんオゴるっス」
「ねぇ、私の話聞いてた?」
「先輩からも、くれぐれもちゃんとお礼しとけってお達し受けてんスよね」
「だから気にしないでって言ってるじゃん。ちゃんとお断りしてるじゃん」
「オレが気にすんの。ってことで何食いたい?リクエストがなかったらマジバーガーになっちゃうけど」
「ねぇ、お願いだから私の話を聞こうか」
「決まりっスね。ハイハイ、出発〜」

見事なまでの強引な手法で背中を押され、「行かないってば!」とか「あんたと一緒のとことか今見られたくないの!」とか「モデルが軽率なことするんじゃない!」とか、思い当たる限りの文句を垂れてはみたものの、あれだけバカにされても罵られても動じなかった男には何ひとつ効果は得られなくて。
ギャースカ騒いでる方がよっぽど悪目立ちするっスよ、などとのたまった黄瀬の正論にぐうの音も出ず、どう転んでも今日は不本意な面倒事に巻き込まれてしまう裁断らしい。

「今日めっちゃツイてない。あれか、おは朝の占い最下位だったからか」
「え、毎朝チェックしてるんスか」
「今日はたまたま観てただけ。おかげで遅刻しました」
「へー、やっぱあれ当たるんスかねぇ。中学時代のチームメイトも狂ったみたいに盲信してんスけど」
「私の不幸を見る限りでは当たってるんじゃない?最下位の威力半端ないよ」
「ラッキーアイテムは?」
「ピアスをした男なんて持ち運べると思う?」
「何だ、そんなの楽勝じゃないっスか」
「どこが」
「だって目の前にいるでしょ。ピアスしてる男」

そう言って向けられた左耳には、確かにシルバーのピアスが輝いている。

「あー…」
「ね?だから今日はこのまま一緒にいた方が身のためっスよ」
「いや、もう今更だし。一日のほとんどが終わってるし。ってか私のことなんて忘れよう。そうしよう、それがいい。あんたの華麗な経歴にわざわざ泥を塗ることはないよ」
「あんなスゴ技見せといて、忘れろなんて無茶言うっスね」
「スゴ技?」
「目薬の泣き真似」
「あー、アレか。一応伝家の宝刀だから」
「ウソ泣きは大概見抜ける自信あったのになぁ。普通に騙されたの、オレ結構ショックなんスよね」
「おナメでないよ。物心付いた頃からこれ一本で、夫婦喧嘩を何度締結に導いたと思ってる。キャリアが違うわよ、キャリアが」
「うわー超盗みてー」
「万引きでしょっぴくよ」
「…今、それ割と笑えないっス」
「いや、今こそ笑うところでしょ」
「ってかマジでもう一回見たい!見せて!今度はちゃんとコピーするから!」
「有り余る才能はもっと有意義に使いなよ」
「仕事で役に立つんスよー。泣き顔は需要高いし」
「やだやだ!業界のそんな裏事情知りたくない!」
「このとーり!」
「だから伝家の宝刀だっつってんでしょ。ってかあんたに教えるとか無理。ムリムリ。恐いわ。鬼に金棒持たせた責任なんて取れないから」
「仕事でしか使わないって」
「ウソだね。あんたは必要とあらば割と手段は選ばないタイプだよ」
「自分と似て?」
「…知らないよ。とにかくダメなもんはダメ。切り札普及させちゃ意味ないもん」
「ちぇっ。意外とケチっスねー」
「だから伝家の宝刀だってば」
「まぁいいや。一緒にいたら、いくらでもチャンスはあるわけだし」
「言っとくけど、そうそう外じゃ使わないから」
「じゃぁ家にお邪魔するっス」
「本当に邪魔だからやめて」
「ひっでー!」
「あんたがラッキーアイテムなんてやっぱツイてないわ」
「でもオレは、面白い子見つけてラッキーだったけどね」

Will I be able to make it back alive?

It's up to you!

- ナノ -