何気ない話だった。
及川が誰かと付き合っただの別れただの、サッカー部の誰かが最近は人気だの、そんな在り来たりでどうでも良い話をしていたはずだった。
自分の席から見て両隣、そして上下を含んだいわゆるご近所さんで、先生が来るまでの時間を潰すためだけの井戸端会議。
その中のひとりが、「そう言えば、」とおもむろに私を指した。

「彼氏いたっけ?」
「や、いないけど」
「だよなぁ。お前にいたら地球滅亡してるわー」

自分の席で大人しく、善良ないち青葉城西の生徒としてただ次の時間に備えた準備を整えていた私に、この仕打ちである。
それは言い過ぎ!と一応援護射撃の体を繕う友達も、漏れなく盛大な笑い声を漏らすのだから、本音のとことでは私に彼氏がいると地球が滅亡すると思っているらしい。

「地球を守れて良かったよ」

なけなしの根性で最後の意地を見せた私の心境など知るはずもなく、遠慮のない笑い声が響く。
別にウケを狙ったつもりはなかったのだけれど、結果的に私の自虐で最高潮の盛り上がりを見せた井戸端会議は、先生が教室に入って来るまで賑やかさは収まらなかった。
結局、気の毒な女と笑い者にされた私と、話しを聞いているのかも怪しい眠たげな顔を見せる松川だけが、何となくその盛り上がりに乗り切れないまま井戸端会議は解散となった。
ここだけを切り取れば、人をバカにしない松川の懐の深さに感銘を受けるところだろう。
けれどこの男が取り立てて首を突っ込まなかったのは、私がとても彼氏なんてできる女じゃない、と思われるに至ったとある理由に一役買っているからだ。



二週間くらい前のこと。
バレー部が部活以外にも顔を揃えていることは今更珍しいことではなく、松川を尋ねて集った面々が勢揃いしていた。
何でも腕相撲でジュースを賭けており、敗者が勝者におごるというルールらしい。
ジュースごときで何をそんなに熱くなることがあるのか、というのが至極真っ当な意見だと思うけれど、一旦勝負事になると大した実入りがなくとも勝ちにこだわるのが部活で培われた感覚なのだろうか。
結局バレー部以外の人間も巻き込み、周囲で行われる大々的なイベントを外野として私は何となく見守っていた。
誰が勝つのだろう。
やっぱり順当に岩泉だろうか。
そんなことをぼんやり考えていると、顔を覗き込んで来た及川は「ねぇねぇ、俺の代わりに参加しない?」などとのたまった。
唐突なことに面食らいながらも、「やだよ。頼むから巻き込まないで」と確かに拒否を示したにも関わらず、強引に輪の中心に押し込まれ、あれよあれよと参加する方向に話を転がされ、女子用特別ルール(1、利き手の使用は禁止。2、どこも掴まず己の肉体だけで踏ん張ること。3、女子は両手を使う以外基本的に何をしてもOK)なるものが即興で施行されることになり、急遽岩泉との対決を強いられることとなった。
もちろん延々と文句は垂れ流したものの、やっぱりやめた!ととても言える雰囲気ではなくなり、バレー部の唯一の良心と信じて疑わなかった岩泉ですら「お前でも容赦しねーかんな」とこのとおり。
クラスメイトのよしみで何とか…!と藁をも縋る想いで見上げた松川に至っては、「手首のスナップ大事だぞー」などといらんアドバイスを送ってくる始末だ。
百戦錬磨、花巻すら一度も勝てない岩泉に飛び込みの、しかも体力測定で握力8を叩き出した私が勝てるなど到底誰も思っていなかっただろう。
もちろん私が一番そう思っていた、はずだったのに。
突然力の塊に迫られると、本能的に何とかせねばと対抗してしまうらしい。
連戦で疲れていたことと、女子用特別ルールの甲斐あってか、一度は岩泉をぎりぎりのところまで追い詰めるという善戦を繰り広げてしまった。
最後の最後は腐っても百戦錬磨の男である。
遠慮なく、私の腕ごと一気にひっくり返した岩泉の勝利で終わったのだけれど。
そうして不本意に巻き込まれた腕相撲大会で、『岩泉を窮地に追いやった女』と尾ひれの付いた噂話が誕生した。
肘にも腕にも痣を作ってまで手したものは独り歩きしているその伝説と、ゴリラ女という悲しき称号なのだから、割を食ったにもほどがある。
おかげさまで彼氏がいれば地球が滅亡するとまで言われるに至り、まさしく散々だった。



「岩泉がいつでもリベンジ待ってるって言ってたぞ」
「やだよ!死んでももうやんない!」

次が移動教室だったため、のそのそと廊下を歩いている私にいつの間にか隣りにいた松川が何の気もなしにそう言った。
過剰な反応をしているのは自分でも分かってはいたけれど、この二週間ろくなことがなかったため、自己防衛に抜かりはない。
寝言は寝てから言えとばかりに噛み付けば、「まぁ、腕相撲ごときで死ぬこたないわな」と松川が笑った。

「他人事だと思ってえっらそーに」
「おー、不機嫌」

何が手首のスナップが大事、だ。
もっと他に言ってほしいことがあったのに、と捲くし立てたところでこの男が少しでも悪いと思う殊勝な人間ではないことなど、同じクラスになる前から知っている。
結局言った方がバカを見るのは明白で、虚しい気分になるのが関の山だ。
何とか文句のひとつでも、と思いつつも暖簾の腕押しをする気分にもなれなくて、必死に岩泉の腕にしがみ付いていたあの惨事を思い返した。

「あの時は必死だったから何とも思わなかったけど、やっぱ男の子だね。手が分厚かった」
「は?岩泉の?」
「うん」

記憶に残るその手は、おおよそ私が想像していたよりもずっと逞しく、立派だった。
乾いた掌は私のそれをいとも簡単に飲み込みそうで、巻き付く指の一本一本は長くしなやか。
ああ男の子なのだ、と自分との違いをまざまざと見せつけるような手だったと、いまだ感覚を覚えている掌を眺める。
思えば散々ではあったけれど、貴重な体験だったのかもしれない。
そう思えるくらいには、幾分私の気持ちも持ち直しているのだろう。
もちろんリベンジマッチなど、死んでも御免こうむる。
だから二度とはないことだと、残り少ない高校生活の思い出だと思えば、いつかはそんなこともあったなぁと笑い話にできそうな気がした。
そうしていつかの同窓会にでも、懐かしい話の種になるのだろう。
それはそれで、悪くはないのかもしれない。
遠い未来に想いを馳せて、思わずふふっと顔が綻んだ。
ひとりで笑う気持ち悪さにすぐ唇は堅く結んだけれど、隣りを歩く男には筒抜けだったらしく、突き刺さるような視線が頭上から落ちる。

「思い出し笑いとか、何だそれ」

ぽそりと、呟かれた声は上手く聞き取れず、「え?何か言った?」と見上げれば、無防備な手が攫われる。
名前を呼ぼうとした。
何をしているのかと尋ねようとした。
けれど些か乱暴に握られ、引かれた手は、すぐ傍にある空き教室へと導かれる。
押し込まれた身体は簡単に仄暗い室内に閉じ込められ、足元にはふたりぶんの教科書やノートが散らばった。

「ま、松川…?」
「手とか握られてんじゃねーよって思ってた」
「なに、何のこと」
「この間の腕相撲」

それだけを言うと、強く握られた手は解放される。
唐突な出来事に混乱する頭とは裏腹に、手放されたことにどこかでほっとしていた。
松川の体温が残るそれを摩り、怯えから丸めた背中を見せ付けても、松川は構うことなく一歩ずつ足を進める。
びくり、と分かりやすく肩を跳ね上げても、恐る恐る後ずさっても、どんどんと近付く身体は止まらない。

「助けて、くれなかったくせに…」
「やめろって言える立場じゃねーし」

いつかは笑い話にできる、とは思った。
けれどそれは文字通り“いつか”であって今ではない。
縋った私にピント外れな助言を向けたこの男に、根に持っていると精一杯の恨み言を吐いても、松川の姿勢は変わらなかった。

「だからその立場、とっとと奪おうと思って」

とん、と背中に当たった壁からは、ひやりとコンクリートの冷たさが伝わる。
逃げられない。
そう本能が告げると、ポケットに手を入れ見下ろす男は、身体を屈めて無理矢理視線を合わせた。

「立場って、」
「他の男と手ぇ握んなって、堂々と言える立場?」
「これ以上は冗談じゃ済まないよ」
「冗談?何で?」
「言ってる意味、分かってんの」
「だから追い詰めてんだろ」

逃げないように。
はっきりとそう言い退けられてしまったなら、身体も心もとうとう本格的に逃げ場を失ってしまった。

「わ、私、ゴリラ女…だし」
「別に普通じゃん?」
「岩泉、追い詰めちゃうし」
「ここで他の男の名前なんか聞きたくねぇ」

ずるずると壁を伝って身体が落ちて行く。
追い立てられた教室の片隅でへたり込んだ私を、やはり松川は逃がしてはくれなかった。
視界を覆うように目の前にしゃがみ、仕舞い込んでいた両手をポケットから抜き出す。
あくまで視線を反らすことを許さないこの男は、獲物を狙う猛獣のように私の両手首を締め上げた。
痛むほど力を込める抵抗も虚しく、顔の横にそれらは着地する。

「全然、どーってことねーよ」

全く敵わない力を見せ付け、鼻の先すぐ傍で松川が笑った。

「ダメ…」
「何が」
「地球が、滅亡しちゃう」

今、私の身体を支配しているのは恐怖か、それとも別の何かか。
震える声で絞り出した最後のあがきですら、松川の前では無力だった。

「じゃぁ、そん時は一緒に死ぬか」

この手に他の誰かを思い出すことは許さないとでも言うように、時間をかけて全ての指を絡め取り、思考を乱し、唇に噛み付き、呼吸を奪う。
何をされているのか、何をしているのか、おかしい、分かっている。
それでも執拗な、些か手荒なその行為はゆっくりと私を滲ませた。
なけなしの抵抗は、数秒後には忘れてしまう。
貪るようなキスの最後、上唇をぺろりと味わうように舐められた時、授業開始のチャイムの音が鳴り響いた。
まるで、終末を知らしめる鐘のように。


(title by 誰花)

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