「すみません、騒がしい店で。常連なんで遠慮がないって言うか。勝手に色々勘違いまでして…」
「いえいえ、すごく楽しかったですよ。料理も予想以上でした」

食事でもどうですか、と決死の覚悟で申し入れた提案はあっさりと受け入れられ、彼女が希望した(俺の知る限りでの)魚の美味い店に連れて来たまでは良かった。
小汚い店の佇まいや内装からは予想できない料理の美味さは通い詰めている俺が良く知っていたし、満足してもらえる自信も少しばかりはあった。
ただ言い訳をさせてもらえるなら、常連故にデリカシーの欠片もない接客をされることを失念していた、ということだろうか。
普段ひとりで、もしくは友人と連れ立って暖簾をくぐる分には何も問題はないのだけれど、女っ気のなさを熟知されているテリトリーへ女性を招待してしまったのは間違いなく俺の落ち度だ。
店員、客を含めいつも良く見る顔ぶれは一寸の疑いもなく勝手な勘違いに盛り上がり、彼女を俺の恋人だとでっち上げ、めでたいと大騒ぎを始めた頃には既に「違う」とは言えない空気が出来上がってしまっていた。
折を見て何度か「同じ職場の人だ」と否定してみても、「社内恋愛か!?お前もまだまだ落ちぶれちゃいなかったってこったな!」なんて勘違いが上塗りされるばかりで、結局最後までこちらの言い分は何も聞いてはもらえず。
店を出るまで勝手な勘違いをされ続けた彼女にてみれば、いい迷惑以外の何者でもなかっただろう。
さぞや気分を害したに違いない、そう思っていたのに少しばかり口にした酒の影響か、彼女は思いの外上機嫌に俺の少し前を歩き、くるりと身体をこちらに向けた。

「溝口さん、想像してた私と違って驚いてたでしょう?」

良く言われるんですよね、想像してたのと違っうって。
ケラケラと明るく笑って見せながら、バッグを片手に背伸びをする彼女は遠くを見るように瞼を細める。

「洒落たお店よりさっきみたいにおじさんたちと騒ぎながら飲むのが好きで、大食らいですし大きな口を開けて笑う方が私には性分に合ってるんですけど。どうにもそれがイメージと合わないらしくて」

まるで“幻滅した”と言われる前に自分で先手を打つような、そんな自己防衛が見え隠れする言葉尻は彼女の心の引っ掻き傷のように感じた。
そもそも俺が想像していた彼女というものが、一体どういったイメージだと思っているのだろうか。
知っていることなんてたかだか知れている。
この春赴任してきたこと、保健室にいること、白衣を着ていること、生徒たちから好かれていること、浮かべられる笑顔にうっかり何でも話したいと思わせる魅力があること、そんな程度のことで彼女がどんな人間なのかと想像する材料すら、俺はほとんど持ち合わせていないと言うのに。
帰りましょうか、と再び向けられた背中に咄嗟に手を伸ばした。
着地した肩はあまりにも華奢で、少し力を入れただけでも壊れてしまいそうなほど女性らしく、思わず慄いた俺に慌てた表情が向けられた。

「俺は、肩肘張らない店で一緒に美味い飯食って好きな酒飲んで、気取らずに話ができる人だったら良いって、そう思って誘いました」
「え?」
「そりゃ驚きましたよ。こんなに気さくで心安い人だったなんて、出来過ぎてて正直ビビってます」

ここにきてようやく、まともに彼女を視界に入れることができた気がする。
そりゃそうだろう。
私服姿がこんなにも可愛いなんて、思ってもみなかった。
いつもは結ばれている髪を解くだけで、こんなにも印象が変わるなんて思ってもみなかった。
薄っすら緊張が滲む横顔がこんなにも綺麗だなんて、思ってもみなかった。
大きな口を開けて笑う声がこんなにも透き通ってるなんて、思ってもみなかった。
どれもこれも、幻滅どころの話じゃない。
視界の中に佇む彼女は何もかも新鮮で、何もかも眩しかった。

「幻滅するところがあるなら、教えてほしいくらいです」

意地や恥を投げ捨て吐露した心の内は、みるみる彼女の瞳を大きく育てていく。
掴んだままの肩からじわりと伝わる自分以外の温もりが、途端に現状の生々しさを浮き彫りにしていくようだった。

「それにあなたを幻滅するって言うなら、俺なんてどうなるんですか」

傾げられた首の方が、俺にはよっぽど不思議でたまらないのだ。
仕事中も食事中も今この瞬間ですら、良いところどころか腰の引けたところばかり見せている。
俺にしてみれば彼女にこそ、情けない男だと思われも文句は言えないのに。
幻滅されると言うのなら、俺の方だろう。

「生徒の噂話からあなたのことを知って喜んでるような、そんな男ですよ」
「う、噂ですか?」
「結婚はしてない、彼氏はいない、最近引っ越してきたばっかりでひとり暮らししてるって。あぁ、ひとり暮らし歴が長いのは先生から聞いたんですっけ」
「聞かれたことは覚えてますけど、そんなことが噂に?」
「若くて別嬪で器量良しに彼氏がいないってなれば、生徒にとっちゃ一大事ですからね」

まさか自分がそこまで注目されていたとは思っていなかったのか、あたふたと困惑を示す空気に、迷いながらも「まぁ、俺にとっても一大事だったわけですが」と呟いてみる。
もうどうにでもなれ、とヤケクソ半分で口を突いたそれは、白く涼しげだった横顔をみるみる赤く染め上げ、触れる肩越しにも分かるほど身体に力が込められた。

「…溝口さん、酔ってますか?」
「生中一杯くらいじゃ酔えませんよ」

そうですか、と綻んだ表情の意味するところは何か。
良かった、と続いた言葉の意味するところは何か。
伺い切れずに「あの、」と漏らせば、恥じらうように視線を右往左往させながら、「酔ってなかったことにされちゃうと…困る、ので」としどろもどろの返事に随分久しぶりな独特の感覚を自覚せずにはいられなかった。

「生徒にけしかけられないと保健室にも行けなくて、指の怪我を理由にしないとあなたを誘えもしない。おやっさんたちの誤解すら解けない男ですけど、幻滅しましたか?」

言葉にして並べれば、自分がいかに情けなく不甲斐ない人間なのかを目の当たりにするけれど、祈るように待つ返事はまだ届かない。
これで幻滅されないと言うのなら、期待止まりのものが確信へと加速する。
そっと、指先が握られた。
肩に触れたままの、指先に。

「違うって、同じ職場の人だって言われる度に少し、寂しかったです」

ああ、もう、どうにでもなれ。
遠慮がちに触れられた指先を、飲み込むように握り返した。
そのまま歩き出した俺に、カツンと響くヒールの音。
それ以上お互いに言葉はなく、腹の探り合いでもするように沈黙を育てる。
送ります、たったその一言すらもいちいち腹を括らなければ言えなくて、気持ちを示す言葉など以ての外で、いくら大人と分類されるようになって久しくとも、教え子たちの方がよっぽど上手く恋愛をしているような気がした。
こうして手を繋ぎ、歩くことだけで精一杯だなんて、笑い話にもなりはしないけれど。
大人になるほど卑怯になる。
そして、自分が傷付かずに済む立ち位置を見付けることばかり上手くなる。
臆病なままで生きていける術を知っている。

「同じ気持ちだって、思ってて良いですか?」

一言で済むはずのことを、その一言を言わずに、その想いが存在しているのかを確かめる。
鼻の下を擦りながら投げかけた問いには、静かな頷きが返された。
全く、大人と言う生き物はかくも面倒でまどろっこしい。
それでもやめられないのは、時々こうした奇跡に巡り合うからだろう。

「でも、良いんでしょうか…」
「ん?」
「保健医とコーチって、その、立場的に色々と大丈夫なのかと思って」
「違いますよ」

もう一度、「違います」と彼女の懸念を蹴り飛ばす。

「ジャージと白衣を脱いだら、男と女です」

肩書きなど、この場で何の価値になる。
この掌の中にはそんなもの、1mmだって存在しない。
俺がいて、彼女がいて、そうして繋がれた手は大人のくせにみっともないほどの精一杯だけが詰まっている。
だから、と更に力を込めた指先に答えを求めた。

「今度お店に行った時は、違うって言わなくても良いですね」

だからまた連れて行ってください、と手繰り寄せられた腕に絡まる温もりは、この夜にはあまりにも美しすぎる。
ズキズキと痛む俺の膝も、彼女の指に巻かれた絆創膏も、ひどく不恰好な始まりですら胸をちりちりと焦がすのだから、結局男はいくつになっても単純で、無我夢中で手探りの恋をしているなんて、ああ、なんと滑稽で、なんと瑞々しいことか。

(title by 誰花)

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