「お手数お掛けしてすみません」
「いえいえ、運動部ならどうしても怪我は付き物ですよ」
「いや、まぁ生徒ならそうですけど…」
「誰だって怪我くらいします。私も昨日包丁でサクッといっちゃいましたし」
「え!?」
「見てくださいこの人差し指。もう一人暮らしも長いのに、恥ずかしいですよね」
「絆創膏だけで大丈夫なんですか?」
「ちょっと切っただけなんで大丈夫ですよ。でも今日の晩御飯の支度は億劫です」

しみるんですよね、と向けられた苦笑いに、「大変ですね」なんて当たり障りのない言葉しか返せない自分を呪いたかった。



つい数ヶ月前、保健医が変わった。
前任の保健医は少々気難しいおばさんで、怪我をしたり気分が悪くなった部員を連れて行くと決まって、「無茶な練習させてるんじゃないの?」とチクチクと嫌味が飛んでくるような人だった。
正直俺はその人が苦手で、部員たちもよほどでなければ保健室には行きたがらないほど、とにかく苦労した覚えしかなかった。
保健室って学校の癒しポイントのはずだよな、と愚痴を零す彼らの気持ちは良く分かるので、俺も手放しに賛同していた。
もちろん、心の内でだけれど。
そうしてこの春から担当が変わると聞いて、良く世話になるところだ。
今度はせめて話しやすい人だといい、そう思っていたのだけれど。

「転んだ理由を聞いてもいいですか?一応記録を残さなくちゃいけないので」
「ああ、はい。練習中に後ろにボールがあるのに気付かなかった一年を咄嗟に庇ったのは良かったんですけど、俺が…その、勢い余ってボールを踏んでしまいまして」
「それで打ち身だけで済んだんですか?頭とか打ってません?」
「それは大丈夫です。足から着地したんで」
「不幸中の幸いでしたね。良かったです」
「いえ、お恥ずかしい限りで…」

実際赴任してきた新しい保険医は話しやすいどころか随分と人当りがよくて、初めて部員を連れて訪れた時は正直拍子抜けしてしまった。
若いことも相まってか部員たちの間でも彼女のことはすぐに噂になり、今までなら備え付けの救急箱で済ませていた処置も無理矢理保健室に足を運ぼうとするほどだ。
年頃の男には、大層魅力的に映るだろう。
俺が彼らのように生徒だったならきっと、同じことをしていたに違いない。
湿布を適切なサイズに切り取る姿を眺めていると、膝に触れた指先に思わず慄きそうになる。
おおよそ良い大人の反応ではない。
そう分かっていながら、その左人差し指に巻かれた絆創膏の理由を知れた優越感に、思わず緩みそうになる口を意識してきゅっと固く閉じた。
これでは、彼女の一挙一動に色めき立つうちの部員たちと何も変わらない。
いっそ惨めったらしい感情を振り払うように頭を垂れれば、「痛かったですか?」と慌てて心配そうな顔が近付いた。

「あ、いや、違います。思えば思うほど情けなくなったと言うか…」
「怪我のことでしたら、生徒を庇ってのことですし」
「そうじゃなくて、これくらいならわざわざ保健室に来ることもなかったなぁと」

もともと訪ねるつもりはなかった。
ツバ付けときゃ治る、そんな程度のものに手を煩わせてしまっている事実が後ろめたい。
それでもここへ足を運んでしまった大きな理由は、「部員には怪我ナメるなって説教するんだから、コーチもちゃんと手当てしてもらわないと説得力なくなりますよ?」と胡散臭い笑顔で選択肢を奪ったあのガキだ。
けれどそれにまんまと乗せられたのは俺で、いや、乗せられた振りしてすごすごと足を運ぶ理由に使ったの方が正しいだろうか。
10歳以上も年下をダシに使ったこともまた、後ろめたいのだろう。

「打ち身だって立派な怪我です。下手をしたら骨に異常があるかもしれませんし、素人目で判断するのは危険ですよ」
「まぁ、そうですね」
「それに部員に心配されてる手前、来ないわけにもいかなかったんじゃないですか?」
「心配って言うよりナメられてるんですよ。陰で“溝口クン”なんて呼ばれてるくらいですし」
「そうですか?私が聞く話だと慕われてるように感じますけど。お兄さんみたいに」
「どうなんでしょうね。そういう関係でいいのかはいつも悩んでますよ」

丁寧にネットまで被せられ、些か大袈裟に見える膝を隠すよう、捲り上げていたジャージを下ろしていく。
俺がいまだ言葉を続けるせいで、彼女はその場に立ったまま視線をじっと投げかけていた。
上体を倒した姿勢で、首筋へ落とされる眼差しがじりじりと疼く。
大きく縁取られた瞳が、澱みなく俺を見透かしているようだ。
それでも居心地の悪さなど微塵も感じさせることもなく、“話したい”と“聞いてほしい”と思わせる不思議な力を宿しているようだった。

「俺らの頃ってバリバリの体育会系で、上下関係が全てみたいな世界でした。だから思ったことも素直に言えないのが歯がゆかったんですよね。あいつらにはそういう窮屈を感じずに、伸び伸び考えてくれたらって思ってはいるんですけど。今みたいな関係性でいいのかは、いまだに良く分かりません」
「誰かと関わるっていうのは難しいですよね。ましてや指導する立場となると余計に」
「まぁうちの監督はああいう感じの人ですから。俺も好きにさせてもらってるんで、贅沢な悩みですよ」

乾いた笑いを浮かべながら、組んだ両手を膝の上に置く。
一体、何を話しているんだか。
否定されない心地良さにベラベラと余計なことを喋り続けるこの口は、本当に俺のものだろうか。
それとも、ここまで言葉を引き出させる彼女の人柄故なのだろうか。
見上げた顔は取り立てて迷惑を感じているふうにも見えなくて、けれど彼女も俺も所謂大人なのだ。
顔色ひとつ、適当に作る術をとっくに知っている。
後片付けの途中で手を止めたままの彼女は、長椅子に座る俺の隣りへ腰を降ろした。

「伝わってると思いますよ」
「え?」
「実際伸び伸びしてるじゃないですか。練習が大変だとか、身体がしんどいとか色々言ってはいますけど、それでもあの子たち笑って楽しそうに話すんですよ」
「そう、ですか」
「良い指導者がいるんだろうなって思ってました」

低い位置でひとつに束ねられた髪をゆらりと垂らし、覗き込んだ瞳がそっと微笑みを浮かべる。
その言葉に含まれた意味を深く追求したくて、だけどそれは言葉として確かめるより注ぎ込まれる眼差しがずっと、雄弁に語っていた。
それでも、と願ってしまうのはあまりに欲深だろう。
ただ自分にだけ都合の良い、欲しい言葉をその唇で紡がれる柔らかな声で伝えられたならなんて、何かと理由を付けてここへ足を運ぼうと画策する生徒たちと一体何が違うと言えるのか。
聞きたいこと、言いたいことをそのまま素直に吐露できる分、彼らの方が余程人間としてできているではないか。
結婚してないって、彼氏いないらしいぞ、最近近くに引っ越して来たっぽい、そんな彼女に関する情報を嬉々と交わしている部員の会話を盗み聴くような真似をして、その身辺を探っているような俺に、望む言葉が向けられて良いはずもない。

「大丈夫とは思いますけど、日が経っても痛むようだったり腫れが治まらないならきちんと病院に行ってくださいね」
「すみません、ありがとうございました」

ここにいられる理由が静かに消えていき、曲げっぱなしの膝を伸ばして立ち上がれば痛みを訴える膝がどこか不安定だった気持ちを現実に引き戻した。
思いがけず訪れた、ふたりだけの時間は終わりを告げる。
もう一度恭しく頭を下げ、見上げる視線から外れるようにゆっくり背中を向ければ、「あの、」と迷い迷いの声を追いかけるようにジャージの裾に重みが走った。
振り返った先には椅子から立ち上がろうとしている保険医がひとり。
彼女が伸ばしている指先は確かに、俺をここに留めていた。

「あまり、気にしないでくださいね」
「はい?」
「怪我のこととか手を煩わせたとか、溝口さんさっきからずっと謝りっぱなしだったので。私はこれが仕事ですから、本当に気にしないでください」
「あ、あぁ、そうですよね。すみません、俺こそ変に気ぃ遣ったりして」
「いえ」
「それじゃ、そろそろ戻ります」
「はい、お大事に」

掴まれていたジャージの裾がするりと離され、見送られるはずだった扉の前でもう一度立ち止まる。
勢いに任せて振り返れば、些か驚いた表情で「どうかしました?」と首を傾げる様子に、引っかかっていたはずの何もかもが途端にひどくつまらないものに思えた。。

「あの、」

気付けば口を突いて出た言葉に、後悔がなかったわけじではない。
けれどここで言わなければきっと、この先こんなことがそうそう起こるはずがないと、今まで生きてきた経験がけたたましく警鐘を鳴らす。

「あの、その手だと晩飯作るの大変、なんですよね?」

勢いだけで相手の目の前に飛び出せるほどもう若くはなくて、相手にどう思われるか考える間もなく言葉を投げられるほどもう無鉄砲にもなれない。
いちいち何か理由を見つけなければ、恐くて何もできない臆病者にすっかり成り果てたけれど。

「もし予定がなければ一緒に食事、どうですか」

それでも踏ん張りどころを見誤るほど、諦めが上手くなった覚えもない。
答えが返るまでの数秒。
時間の経過が恐ろしく遅く感じる。
チッチッチと壁時計の秒針の音だけが静かに響く空間で、きょろきょろと視線を泳がせる様子は手当てをしてくれていた手際の良さを忘れさせるほど意外で、白衣から覗く指先をもごもごと動かしながら小さな頭が頷いた。

「魚の、美味しいお店だと嬉しいです」
「あ、はい!いいとこ知ってます!ちょっと小汚いですけど」
「そういうところの方が、気楽で私は好きですよ」

なけなしの神経をすり減らしてまで提案したことを受け入れられた喜びに、浮かれていたのかもしれない。
楽しみにしています、そう言って俺を送り出してくれた彼女に俺はぎこちなく手を挙げるだけで精一杯だった。
戻るのが遅いことをきっと、俺をけしかけた根源あたりは悪ふざけの道具にしてくるに違いない。
なまじ“何もなかった”と言い切れない上に、約束を取り付けられたもともとのきっかけ、つまり仕方なしに保健室を訪ねるに至った経緯がヤツという厄介なオマケ付きだ。
子どもと大人の中間地点。
子どものように悪びれることもなく真実を暴き、大人のように他人の感情に聡い。
これだから高校生というやつは、厄介な生き物だと思う。
それでも、軽い足取りが何もかもを言い訳にしてしまう。
そして面白半分に投げかけられるであろう質問はきっと、何ひとつ俺が否定できぬもの。

「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -