夏と秋の境目、そろそろ見納めになるであろうもくもくと育った雲、どこまでも遠く広がる澄んだ青空を窓という枠組みから覗き見たその景色は、まるで絵画のようだ。
書きかけの日誌を放り出して、ぼんやりそんなことを考えていると「そろそろ書けた?」と薄っすらと影が落ちた。

「あ、ごめん。あと少し」
「ん」

黒板を綺麗にしてくれていた花巻くんは、肩や腕に積もったチョークの粉を適当に払いながら私の前の席に腰を降ろした。
自分の席でもないところへ何の躊躇なくそうすることができる人を、私は勝手に“勝ち組の人”と心の中で呼んでいる。
きっと彼の所属するバレー部の人は基本的に、それに分類されるのだろう。
取り立てて特別なことのない、平々凡々な私にはとてもできることではなかった。
恐らく私のようなタイプが同じことをすると、口先では「いいよいいよ、座ってて」と言いながらもその心の内では『勝手に人の席に座るな』と思われることを良く理解しているからだ。
そんなことを思われることのない人、つまり“勝ち組の人”。
我ながらなかなか特徴を突いている上手い言い回しだと思う。

「花巻くん、先に感想のところ書いてもらっていい?」
「いいけど、他んとこまだ書けてないんだろ?」
「まだ少し時間かかるから、必要なところだけ書いてもらったらあとは私がやっとくよ」

この後に部活を控えていることは言われなくても分かっている。
わざわざ部活の時間を返上してまでしてもらう必要がない上に、一番重労働で面倒な黒板の掃除を進んで行ってくれたのだ。
それに見合うだけのことを、私もしなければ割が合わないだろう。
そもそも、日直の仕事を引き受けてくれるなんてことすら考えていなかった。
私の中の運動部のイメージは明るく活発だけれどどこか乱暴で粗暴で、実際今まで日直が一緒になったそういった類の相手はみんな、適当な感想だけを日誌に書き込んで「後はよろしく」と颯爽と部活に行く人たちばかりだったからだ。
取り立てて急いで帰らなきゃいけないわけでも、予定があるわけでもないので、それはそれで別に構わないのだけれど、“部活あるから仕方ないでしょ”と雰囲気に漏れ出ている物言わぬ圧力がどうにも苦手だった。
それに対して文句や苦情を言わない私も私なので、それを槍玉に上げてまで悪く言うつもりはないのだけれど。
だから花巻くんとの日直もきっとそんな感じなのだろうと思っていたのに、その思案は的を外した。
毎時間黒板は綺麗にしてくれるし、移動教室の戸締りだって一緒にやってくれる。
そして今だって、部活に早く行きたいに違いないのに残りの仕事をきちんと全うしようとしてくれるのだから、戸惑わないはずがない。
もう十分です。
これ以上は罰が当たりそう。
なので後は私が引き受けます。
その提案はきっと彼にとっても悪いものであるはずがない。
そう信じて疑わなかったけれど、意外にも花巻くんは差し出した日誌を受け取ろうとはしなかった。

「いいよ、書き終わんの待ってっから」
「え、でも、」
「俺のこと早く部活に行かしてやろうってーなら、頑張って手ぇ動かして」

椅子に跨り後ろ向きに座って、背もたれに置いた両腕へ顔を預けた花巻くんはトントンと数回指先で日誌を叩く。
うつ伏せる姿勢でたわんだシャツの襟口には、鮮やかな青いTシャツが覗き見えた。
思わずはっと目を背ければ、「待ってっから」ともう一度淡々と繰り返された言葉に、これ以上遠慮をするのはきっと失礼だと、思わぬ事態に上手く働かない頭が囁いた。
いまだ白く残されている空欄に、シャーペンを走らせる。
この授業で何をしていたっけ、と記憶を懸命に遡りながら、じっと見下ろされるペン先が微かに震えた。

「いつもキレーな字書くよな」
「そう、かな。普通だよ」
「これが普通だったら俺の字はどうなんの」
「花巻くんの字も整ってると思うけど」
「あぁ、黒板の?ありゃまともに書こうとしてっからだよ。走り書きなんて自分でも読めねーよ?テスト勉強の時はノート書いてた頃の自分を毎回恨むし」
「それは困るね」

だろ?と目の前で密やかに漏らされる笑みに、何だか見てはいけないものを見てしまった気がした。
バレー部のレギュラー、背の高さ、色素の薄い髪質、落ち着いた雰囲気、それでもどこか茶目っ気を帯びた言動、そのどれもがこのクラスでは一等目立っている。
私はいつもみんなが見ている彼を同じように、ただみんなよよりも少し遠くから見ているだけだったのに、私しか見ることのできないタイミングで思いがけず目の当たりにしてしまったことが、何だかいけないことのように思えたのだ。
自分だけに向けてほしい、そう思っている女の子はきっといっぱいいる。
見てもらうために努力をしている子たちだ。
そんな人を差し置いて、たかだか日直という役割を分担しているだけの私が独り占めしてしまうというのは、かなりの分不相応と言うものだろう。
慌てて視線を日誌に戻し、適当に選んだ文章を象ることに集中する。
これ以上いつもと違ったことが起きる前に終わらさなければ、と頭の中に鳴り響くサイレンがさっきからずっと危険を示している気がした。

「あ、あんまり見られると書きづらいんだけど…」
「ん?あーごめん。こんだけすらすらキレーに書けたら気持ちいいんだろうなと思って」
「どうかな、私は自分の字があんまり好きじゃないから」
「何で?」
「丸っこい可愛い字が羨ましくて。女の子の字って感じがするでしょ?」
「そうか?癖がないっつーか、読む相手のこと考えて書いてるっつーの?あんたの字はそういうのが伝わるよ」
「あ、ありがとう」
「好きだけどな、俺は」

順調に書き進めていた指先が、止まる。
私と花巻くんは同じクラスでも、決して関わりがあるタイプではない。
必要なことは話すけれど、それも授業に関することや提出物に関することがほとんどで、その人となりを知れるほどの言葉を交わした記憶もなかった。
どこか気怠そうに見える垂れ目がちな目元がじっと日誌に注がれる中、何てことはない様子でさらりと告げられた言葉は、私を動揺させるには十分な威力を宿して広がる。
こんなものはただの社交辞令だ。
沈黙が気まずいから、花巻くんが気遣ってくれただけだ。
一層激しく警鐘を鳴らすサイレンに浮かれないよう半ば念じれるように自分自身に釘を刺すけれど、立ち止まったペン先に気付いた花巻くんがペンから指、指から手、手から腕、と静かにゆっくりと視線を辿らせてゆく。
ごくり、と生唾を飲んだ。
どれだけ違う、違うと言い聞かせても、至近距離で囁かれた“好き”という単語が何度もリフレインされ、指先から毒に侵されていくようにぴくりとも動けなくなってしまったからだ。
どうやって、さっきまで字を書いていたっけ。
ついに私の両目を捉えたその視線は私を動けなくしたままそっと手元へと移され、長く無骨で立派に男を表す指先が日誌を撫でた。

「そう言や、知ってる?日誌なくしたらどうなんのか」
「えっと、確か1ヶ月ずっと日直しなくちゃいけない…だったっけ?」
「そうそう。昔、日誌書くの面倒でどっかに隠して『なくしたから書けませんでした』とか言い訳するやつがあんまり多いんでできた決まりなんだと」
「そうなんだ。経緯は知らなかった」
「まぁ、最近じゃ流石にそんなことするやつもいないらしいけど」

私が書き辿った後を追うように、ゆっくり、それでいて艶めかしくなぞられるその仕草はひどく官能的で、ついに私は呼吸さえままならなくなる。
異常な何かを本能的に察しながら、それでも尚花巻くんの言動の意味を探ろうと回転を速める頭があまりにも滑稽だった。
何かを期待しているとでも言うのだろうか。
そんなおかしな話、あるはずがない。
私の立ち位置は十分に理解しているし、彼が佇む場所がとても遠いところだということもまた、良く理解していた。
それなのに、浅く繰り返す呼吸のせいで酸素不足を訴える肺が更に思考を鈍らせる。
続きを書かなくてはいけない日誌はいまだ花巻くんの指が沿わされ、そしてその大きな手は迷うことなくそれを掴み後ろへと振り被った。
まるで、奪うように。
あまりに自然に、そして当たり前のように、黒い表紙のそれは綺麗な放物線を描いて開けっ放しの窓の外へと吸い込まれてゆく。
その一部始終を瞳はただ他人事のように映し、そして些かのタイムラグの後、バシャンと水面に激しく着水したであろう音に現実味が一気に押し攻めてきた。

「これで俺たち共犯者ってわけだ」
「何を、してるの」
「なくしたんだよ、日誌を」

窓から差し込む傾きかけている太陽の光が花巻くんの姿を包み込み、さっきまで能天気に眺めていた空の色が彼のシャツから透けて見える。
“勝ち組の人”に相応しい不敵な笑みを浮かべながら、彼がそっと立ち上がった。
そして一歩、その長い足で私に近付き机にタン、と日誌を放り投げるという常識を逸脱した行いをした手が置かれる。
唐突に詰められた距離はどちらかが動けばお互いの唇が触れてしまうほど近く、そして覗き込まれた気怠げな瞳にはただ私だけが映されていた。


「とりあえず1ヶ月、よろしく」


生々しく鼻先をに触れた花巻くんの吐息に、握りしめていたシャーペンがころりと床に転がった。
自分の立ち位置、花巻くんの居場所、“勝ち組の人”の振る舞い、私と彼の接点、日誌の行方、奪われたものの正体、なんて。
1ヶ月など、そんな猶予はきっとどこにも存在しない。
彼の襟口から覗き見える青が視界を覆ったその瞬間から、とうに機能することなど放棄していたであろう拙い思考が弾き出した答えは、私を溺れさせるには十分だった。
まもなく彼は、私の臆病で打算的なこの18年で培った全てなぎ倒してしまうのだろう。
そして私は、放り投げられた日誌のように深く、深く、ただその青に沈むのだろう。


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