昨日と今日の境目を越え、新しい一日が始まるその瞬間。
ベッドの上に放り投げていた携帯が、途端に震えて存在を主張した。
覗き込んだディスプレイには『及川徹』の三文字が浮かび上がっている。
何となく、要件は察していた。
しばらく出るかどうかを考えて、それでもやっぱり目の前にある繋がりを易々と手放せるはずもなくて、そっと耳にそれを当てる。

『誕生日おめでとう!』
「何やってんのスポーツマン。さっさと寝なさいよ」
『えー!真っ先に伝えたくてカウントダウンしてたのにひどいっ!』
「…まぁ、ありがとう」

回線を通して届く及川の声は、直接聞くよりも少しだけ幼い響きを持て余しているように思えた。
その声はとても澄んでいて、背景に雑音はない。
この時間なのだから、家で大人しく布団の上でごろごろ転がっていたのだろう。
12時になるその時を待ちながら。
バレーを何より大切にしていて、優先していて、それ故体調管理を細かく気にしている彼が今日ばかりは私を優先して電話を寄越してくれたことが、堪らなく嬉しかった。
それを素直に吐露できないことがいつだって心に少しのしこりを残すけれど、及川はそんな私の些細な痛みをまるで気にしていない様子で、いつも笑い飛ばしてしまうのだ。
私はそんな及川の優しさに甘えたまま、彼の言葉を独り占めするこの鼓膜の震えに愛おしさを感じる。

『ところで何してたの?』
「んー…読みかけの本読んだり、テレビ観たり?」
『いつも通りだね』
「うん」
『今日の予定は?』
「さぁ、分かんないけど。多分家でケーキ食べてるんじゃない?一応毎年それだけは準備してくれるから」
『いいなぁケーキ。俺も食べたかったなぁ』
「いつでも食べれるでしょ」
『違うよ。君の誕生日っていう特別な日に食べられるそれは、今日しかないんだから』

穏やかで、それでいて力強い言葉に瞳が育つ。
そんな風に考えてくれていたのか、と言葉の端々に散りばめられる“特別”がどうにも慣れなくて、けれど嬉しくて、私は「ありがとう」を繰り返すことしかできないのだ。
でもこの辺りで話を切らなくてはならない。
これ以上それに甘えていると、恐らく飛び出るであろう『逢いに行きたいなぁ』という言葉に私が首を横に振れなくなってしまうから。

「ダメだよ。ちゃーんと今日も部活あるんだから」
『分かってますよー。絶対そう言うと思ってた』

苦笑いを交えながらきっと今頃は、あの整った顔を情けなく崩してハの字に眉を落としているのだろう。
私がぴしゃりと彼の提案に断りを入れた時はいつだってそうだ。
そしてお互いに、ちょっとばかしの本音を隠す。
私が何よりバレーを大切にしている及川が好きで、及川には何よりもバレーを優先してほしいと心から願っていることを、恐らく誰よりも分かっているのも及川なのだ。
そして及川は、そんな私がもっと一緒にいたいとどこかで矛盾を抱えていることも知っているのだろう。
だけど今はまだ、その時じゃない。
だから私たちは、相手の何もかもを知れる権利をまだ手にすることを選ばなかった。
お互いにお互いの心の在り処を分かっていながら、特別を堂々と公言できる立場を。
些細な口約束を信じ、いつか訪れるであろうその時を密かに待っているのだ。
人は忘れてしまう。
私たちは誓いの言葉ですら忘れてしまう生き物だけれど、ただそれだけを信じ、及川がボールを追いかける姿を瞼に焼き付けるだけで今は、十分なのだ。

「及川」
『んー?』
「及川はとても強いけど、でもそれと同時にどこか脆くて、そんな人間臭いあんただから好きになったんだよ」
『…どうしたの、急に』
「でも自分を見失っちゃってどうしようもなくなった時は、いつでも飛び込んでおいで。その時は抱き締めて、頭撫でて、私がちゃんと元に戻してあげるから」

は、と息を飲む音が耳元に届く。
恐らく想定外甚だしかったであろう私の言葉は、あの頭の良い男の思考機能を停止させるには十分だったらしい。
珍しく広がる沈黙に、「及川?」と様子を伺えばハァ、と盛大な溜息か、はたまた深呼吸か、電話越しには判断しがたい吐息が漏らされた。

『ねぇ、今日は俺の誕生日じゃないよ?』
「そうだよ。だから我が儘言ったんじゃん」
『我が儘?どこが?』
「だってその時は他の誰も選ぶな、私のとこに来ればいい、なんてすごい我が儘でしょ」

岩ちゃんにだって譲ってやらないんだから、と笑えば「ライバルは岩ちゃんなの?」とつられるように及川がケタケタと笑った。

「格好良い及川も、情けない及川も、どんな及川だって受け入れられる自信だけは誰にも負けないつもりだよ」
『日本男児としては、あんまり情けない姿は見せたくないもんだけど』
「何言ってんの、格好良いあんたより情けないあんた見てる回数の方が多いけど」
『えー』
「ほら、今も絶対情けない顔してるでしょ」

そんなことないよ、と言いながらも不服層な口ぶりに図星だったことを察する。
飄々としていながらも、ふたりこうして話す時はいつも回線を通して聞く声のようにどこか幼さを含む及川を、一体どれだけの人が知っているのだろう。
私だけだと、いいのになぁ。
そんな我が儘も、今日だけは許してもらえるだろうか。
そっと瞼を伏せて、紡がれる心地良い声に酔う。

「真っ先に言ってくれてありがとう」
『それが俺の譲れないものだったからね』
「うん、嬉しかった」
『じゃぁ、さ。いつか、言わせてくれる?』

何を?と聞き返す前に、及川が言葉を続ける。

『こんな時間にも堂々と一緒にいられる立場になって、君の誕生日になった瞬間におめでとうってさ』

人は忘れてしまう。
私たちは誓いの言葉ですら忘れてしまう生き物だけれど、ただそれだけを信じ、及川がボールを追いかける姿を瞼に焼き付けるだけで今は十分で、だけどそれは今の話。
私が本当に望んでいるのは、その先のただ口約束だけで保たれたふたりの姿なのだ。
うっかり、視界が滲む。
忘れずにいてくれることが、そんな些細なことをとても大切に胸の中に仕舞ってくれていることが、私にはどんな高価なプレゼントよりもずっと貴い。
電話越しには見えないと分かっていながら、大きく頷くことしかできない私の状態を知ってか知らずか、『言わせてね』と念を押すように柔らかで、それでいて強制力のある言葉に私はようやく、「うん」と一言だけ震える声で応えた。
例え今、同じ景色を見られないとしても私は決して、何にも後悔はしない。
例え今、その顔を見られないとしても私は決して、不幸を気取ったりしない。
だからどうか、及川にもそうであってほしい。
これは私たちが望むいつかを迎えるための、小さな小さな積み重ねなのだ。

『ねぇ、俺の言ったことの意味分かってる?』
「分かってるよ。だから楽しみにしてる」
『何年も先の話になるかもしれないよ』
「うん」
『何年も、待っててくれるの?』
「何年も、待たせてくれるんでしょ?」
『待っててほしい』
「私も、待たせほしいから」

夜が深く更けてゆく部屋の中。
私はひとり、この場所で夢を見る。
鼓膜に直接響く声も、言葉も、彼という存在の何もかもが私を象っていた。
その全てに身をゆだねて、今交せるものがたったのこれっぽっちの繋がりであっても私はこれを、十分に幸せと呼べる。
だからこれが、これこそが、今のふたりの、私たちだけの、ささやかで小さな恋の話。
私と及川だけが知る、私であり及川なのだろう。


(メメに捧ぐ)

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