戦時中、特攻隊に任命された隊員は残していく大切な人たちに向けて、『行きます』と伝えて空へ向かったらしい。
私たちが日常的に挨拶として使用している『いってきます』には、『行って来ます』と言う意味があるそうだ。
つまり片道分の燃料だけしか積むことを許されず、捨て身で敵機を打ち落とす彼らには帰りは用意されていない。
だから、『いってきます』とは言うのは矛盾していることになる。
行ったきりもう戻りません、という意味を込めて『行きます』と言っていたのだと、ついこの間呼んだ本の内容が鮮明に思い出された。
その時は何て切ない話だろうか、と胸を痛めたけれど、時間が過ぎてすっかり忘れてしまっていたそれを今更思い出してしまったのは、「そろそろ行くね」と背中を向ける男がいるからだろうか。
本の内容から辿るとするなら、それはつまり行ったきり帰ってくることはないという無意識の現れなのかもしれない、と思った。





毎週水曜日の放課後、ほんの30分だけ、私は及川徹という男と密会する。
こんな言い方をするとまるでイケナイコトでもしているようだけれど、その実情はまったくもって健全だと自信を持って言えるだろう。
他に部員のいない文芸部の私と、数えきれない部員を要するバレー部主将の及川。
接点を探す方が難しい私たちが30分だけ同じ空間で過ごしているのは、誰の目にも付かないところで及川が転寝をするためなのだ。
つまり私は場所の提供をしているだけ。
接点を探す方が難しい私たちがどうしてそんな関わりを持つようになったのかは、ほんの数ヶ月前に遡る。

ほとんど誰も利用することのない特別棟の4階、そんな辺境の地に部室を構えている文芸部の部室に先客がいた。
それが、及川だった。
先生に呼び止められたせいでいつもより部室に行くのが遅れ、鍵の開いている誰もいない、その上誰も来そうにもない部屋が運よく出来上がっていた状況を、上手く利用したのだろう。
この学校で、彼を知らない人間はいない。
大人しく机に伏して眠っている姿は無防備そのもので、いつも誰かが近くにいるイメージしかない彼には、随分と似合わない環境だと思った。
文芸部という名前を掲げていても、その活動はただ好きな本を読むだけの至ってシンプルな活動がメインだ。
部員も私しかいないとなれば、おのずと勝手はかなり許されている立場であり、大っぴらに言うならば何をしていたって誰にも咎められることはない。
先輩が所属していた頃には、数ヶ月に1回は顧問も顔を出してはいたけれど、今となっては私が気を遣うだろう、なんてそれらしい理由を盾に寄り着きもしないのだから、そうなることは必然だった。
一度は起こすことも頭を過ったけれど、穏やかにに眠る姿を目の当たりにするとなかなかそうはできないものだ。
ましてや特別迷惑を被るわけでもないのなら尚更のことで、とりあえずはしばらくそのままにしておこうと思った。
誰もが知っていて、誰もが注目しているバレー部の主将だ。
必要があれば誰かしらが迎えに来るだろう、と定位置に座り、文庫本のページを捲るとけたたましいケータイのアラームが唐突に鳴り響いた。
思わずビクリと肩を上げて驚きを示す私とは裏腹に、おずおずと上げられた顔に寝ぼけ眼が揺れている。
そしてパチリと合わさった視線に一瞬慄きを見せるけれど、すぐにニコッと些か胡散臭い笑顔を浮かべて、「こんなとこで何してるの?」とその男は堂々言い放った。

「何って、部活動してるんだけど」
「え、そうなの?何のクラブ?」
「文芸部。って言っても、先輩が卒業してたからは私しかいないけどね」
「あーごめんね?てっきり鍵の閉め忘れで開いてたんだと思ってた。誰もいなくてラッキー、みたいな」
「別に迷惑だったわけでもないから、謝ってもらう必要はないよ」
「随分とあっさりしてるね」
「それよりいいの?」
「ん?」
「バレー部、始まって30分は経ってると思うけど」
「あぁ、それなら問題ないよ。水曜日は顧問が来ないからさ、ほら職員会議で」
「なるほどね。それならサボってても主将を怒れる人はいないから、やりたい放題なわけだ」
「いや、まぁ怒る人はいるんだけど何とでもなるっていうか」

ハハハ、と愛想を振り撒くように笑って立ち上がった及川がもう一度「読書の邪魔してごめんね」と言うので、「それ、嫌味?」と問い返せば「違うよ、これでも一応本心なんだけどなぁ」と苦笑いを浮かべた。
間近で見て思うのは、どんな表情でもいちいち綺麗に整っているということだろうか。

「あのさ、勝手に侵入しといて何なんだけど」
「分かってる。誰にも言わないよ」
「話が早くて助かるよ」

それだけを言い残して、制服姿の及川は「それじゃ、そろそろ行こうかな」と小さく手を振り部室を出た。
振り返ることもなく、まるで最初からいなかったかのように、静かに姿を消す。
いつもチャラチャラと、派手な雰囲気を纏っている男とは思えないほどに跡形もなく。
それでも引かれたままになっている椅子が、確かに及川がそこにいたこと示してはいたけれど、嵐が過ぎ去ったあとはいつもの私の水曜日が残るだけだった。
静かに1人で読みかけの本を読み、持ち込んだ紅茶を気が向いた時に淹れて、時間になれば下校する。
妙な1日だったな、と思うくらいで何てことはない水曜日は終わりを迎える。
本来及川が求めていたのは誰もいない静かな場所だったのだ。
誰もいないと思っていた、と本人が言っていたのだから間違いないだろう。
いい所を見つけたと思っていた矢先、そこは文芸部の部室で、部員である私が占拠しているとなると彼が再びここを訪れる理由はどこにもない。
その時は確かにそう思っていたはずなのに、次の水曜日にも何故か彼はこの部室の扉を開いたのだ。
今度は、私が本を読んでいる途中に。
それから毎週水曜日、顧問が職員会議でいないことをいいことに、及川は30分だけここで転寝をする。
私は及川の30分間独占し、きっかり30分後にセットされたアラームの音と共にその人気者は目を覚まし、寝ぼけ眼で伸びをして、乱れた髪を適当に整えて部活へと向かうのだ。
そして、それは今日まで変わることなく続いている。

「今日はいい風が入るなぁ」

そう独り言を零して、開けっ放しの窓から入る風が及川の髪を揺らす様子をぼんやりと眺める。
しっかり整えられているようには見えるけれど、意外と柔らかそうなそれに思わず手が伸びた。
恐る恐る、起こさないように注意を払って、まずは指先で感覚を確かめる。
確かに思っていたよりも細く柔らかい1本1本の感覚に、今度は掌でゆっくりと撫でれば「撫でられるのもいいもんだね」とはっきりとした声が届いた。

「ごめん。気持ちよさそうだったから、つい」

着地していた柔らかな感覚から、慌てて手を引っ込める。
まさか起きているとは思わなかった、と自分の行動に今更恥ずかしさが身体を巡った。
言い訳の出来ない状況にじりじりと焦りが湧き、何を言うべきなのかを考えていると、不自然に上げたままになっている手に及川が頭を摺り寄せた。
まるで、もっとしてほしいとでも言うように。

「そんなに気持ちいいの?」
「してあげようか?」
「私はいいよ」
「残念。体験するのが一番なのに」

擦り寄って来た戸惑いは一瞬で、掌に広がる感覚にもう一度自分からゆっくりと髪を梳かすように撫でれば、随分と満足気に瞼を細められる。
俺も撫でたかったなぁ、なんて心にもないことがペラペラと口を突くのだから、この男の舌先は大概嘘つきだ。

「最近、ちょっと関係が悪化してんだよね、カノジョと」
「余所見ばっかりしてるから、ご機嫌損ねさせたんでしょ」
「そんなことないって。これでもずっと一途に健気に尽くしてると思うんだけどなぁ」
「だったら、随分と気まぐれなカノジョだね」
「本当だよ。結構長い付き合いなのにさ、なかなか思ったとおりにはならないよね」
「そんな状態なら、やっぱり少しは寝た方がいいんじゃない?」
「ここで寝ちゃ勿体ないよ」
「寝に来てるのに、変な話だね」
「この後嫌ってほど岩ちゃんに怒鳴られるんだし、今くらい癒しに走っても罰は当たらないと思うんだけど」
「それが、カノジョのご機嫌斜めな原因じゃないの?」
「えー、それは困るなぁ」

頭を伏せ、少し横を向いてちらりと覗かせる整った顔が微笑む。
困るの?と素朴な疑問を口に出せば、「困るよ」と間延びした物言いに明らかな眠気を感じながら、それでも瞬きをする度に懸命に上げられる瞼がおかしかった。
寝ればいいのに、何の意地なんだか。
撫でるという行為を繰り返せば、色素の薄い瞳が私を映した。

「俺、迷惑になってない?」
「勝手に居座ってるにしては、随分と殊勝だね」
「まぁ最初は考えなしだったのは認めるよ?そもそも迷惑って思われることすら考えてなかったわけだけど」
「そこまで自信満々だと逆に何も言う気にならないよ」
「そう?でもなかなかないよ?俺が嫌われたくないなんて思うってさ」

今まで考える必要もなかったし、と余計な一言がつくあたりが及川らしく、そして及川にしか言えない言い分だろう。
及川はお世辞にも性格がいいとは言えない、と思う。
いい性格をしているとは思うけれど。
だけど不思議と嫌われないのが、つまるところこの男の魅力の1つなのだろう。
ついつい目で追ってしまうほど堂々とした立ち振る舞いや、どこか掴みどころがなくて飄々としている言動が憧れを集め、そしてバレー部員と楽しそうにはしゃいでいる姿を見ると途端に身近な存在に感じさせるのだから、まったくもって嫌味な男だ。
明らかな特別を感じさせる及川に私の掌が触れることで、普段見せない表情を惜しげもなく浮かべる姿が少しばかり優越感を植え付けるのだから。

「甘やかすなって、岩泉に怒られそう」
「岩ちゃんは俺がここにいるって知らないよ」
「そうなの?」
「どこ行ってんだって聞かれはしたけど、言わなかったからね」

どうして言わなかったの?という疑問は、普段の2人の関係を見ているなら誰だって浮かぶだろう。
滲み出た表情をすかさず拾い上げた及川は、「知りたい?」と上目遣いに視線を飛ばし、やけに雄弁に感情を語る。
いつもの派手な雰囲気でも、ここで見せるダラけた態度でもなく、真っ直ぐ射抜くような力強さに、反らせない何かに絡められたように動けなくなった私の腕を掴み、ゆっくりと上体を上げた及川が一気に身体の距離を詰めた。

「この時間には誰も割り込んでほしくないんだよ。例え岩ちゃんでも、勝手に入ってくるのはちょっと許せないかも」

つまり、この30分だけは私と2人でいたいと言われているようなもので、何かがじわりと胸を打つ。
真っ直ぐな視線に、飾らない言葉。
お得意の胡散臭い笑顔の欠片もない表情に真剣さを感じずにはいられないのは、ただの私の願望だろうか。
それでも、と握られたままの腕から伝わる熱の上昇に瞳が揺れる。
今、この部屋を満たす空気は今までのどの水曜日にもなかった色で満ち満ちて、私と及川の肺を満たしていた。
私も及川もそれらしい言葉を並べながら、核心には触れないまま何かが変わろうとしている瞬間を肌で感じているのだ。
及川、と確かに形にしようとした声は、机の上でけたたましく鳴り響く携帯に阻まれる。
それは、30分の経過をを知らせる合図。
いつもなら夢の中の及川が現実に戻って来るための方法だったそれは、今は私と及川をいつもどおりへと導く道しるべのようだった。
腕を掴んでいた長い指がゆっくりと離れて行くのを、目で追う。
どれだけ眠くても、どれだけ練習がしんどくても、アラームの音が響けば及川は自分のいるべきところへ帰って行くのだ。
ここは及川が本来いるべきところではないのだと、その度に目の当たりにする。
そして今日も、及川はここを出て行くのだから。
そろそろ行くね、とだけ言い残して振り返ることもなく及川を必要としているところに、また及川自身が必要としているところに向かって歩き出すのだ。
このままなら、このままだ。
変わりかけたキッカケだけが無残に転がり、それで終わるのだろう。
既に席から立ち上がり、1つ大きな伸びをした及川はいつものように「それじゃ、そろそろ行くね」と言葉を残して足を進める。
とっくに離された腕をいまだ名残惜しく見つめる私にできることなんて、精々限られているとしてもそれでも、今できることをと喉を震わせた。

「及川」

立ち上がり、投げかけた声は思いがけず滑らかな響きとなり、歩き出した及川の足が止まった。
だけど、振り返りはしない。
それでも気にならなかった。
この時点で、いつもとは何もかもが違うのだから。
立ち止まり、大きな背中を見せる後ろ姿にゆっくりと微笑みを浮かべる。

「いってらっしゃい」

ここは及川にとってはただの寄り道で、少しだけ休憩をして、そして通り過ぎるだけの場所なのだ。
だけど、ここから目指すべき場所へ向かうならその言葉だって、間違ってはいないだろう。
ぴくりとも動かない背中にもう一度、「いってらっしゃい」と向ければ少しだけ困ったふうに、だけど瞳を弓なりに曲げて優しく零された笑みが振り返った。

「ダメだよ、そんなこと言われたら帰って来たくなっちゃうじゃん」
「その時はおかえりって言ってあげる」
「…いいの?本当に?」
「だから今は、カノジョ一筋で頑張りなよ?」
「今も結構頑張ってるんだけどなぁ」
「卒業までなら、私はずっとここにいるから」

両手を広げてそう言えば、「参ったね」と屈託のない笑顔が咲く。
これが、及川という男の本質のように思えた。
参ったと言いたいのは、そんな顔を間近で見せつけられた私の方だ。
たった30分、けれど積み重ねればそれは長い時間となり、私たちをゆっくりと近付けて行くには、十分すぎるほどの時間だったのだろう。
そんな期待と予感を孕みながらも、私たちの今日の時間は着実に終わりを迎えようとしていた。

「それじゃ、カノジョのご機嫌取りに行くとしますか」

肩を回し、サーブを打つ真似事をした後、振り返った身体がもう一度前を向き直す。
軽やかな足取りで再び歩みを進めた及川は、やっぱり小さく手を振っていつものようにガラガラ、と扉を開けた。
そのまま見えなくなるはずだった後ろ姿は、まだ私の瞳の中に存在している。
消えない背中を焼き付けるようにまじまじと眺めていると、大きくもなく小さくもない声で、及川は確かに言った。

「いってきます」

それはたくさんの本を読んできた私が知る中で最も、美しい言葉だった。

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