岩泉を頼ってそのクラスに行く時は専ら、教科書を借りたり部活の言伝があったり、そんなところで。
そうして訪れた先には、大体及川がいる。
自分のクラスでもないくせに、我が物顔で居座る及川というこの期に及んで言ったところで仕方のない一部を除けばそれはいつもの光景で、今更何の不思議もないけれど。
そのふたりの間に違和感なく佇んでいる女子がひとり加わるようになったのは、いつからだっただろうか。
よく及川とバカをして岩泉に怒鳴られている様子を見る限りでは、このふたりとはそこそこ良好な関係を築いているのだろう。
だから自然と、及川か岩泉のことが好きなのだと思っていた。
あまりにも楽しそうに笑っているから。
それを一度だけ聞いたことがある。
いつものように岩泉を頼って訪ねた時、及川と共に監督に呼び出されたと言って運悪く擦れ違いになり、奇しくも彼女と俺のふたりだけが取り残されたことがあった。
あのふたりがいなければどうにも話すことがなく、沈黙が訪れるのを避けるために世間話程度、軽い気持ちで「どっちかが好きなやつだったりすんの?」と興味本位で投げかけた質問がきっかけだった。
きょとんと、驚きとも見える表情で黙ったままでいた彼女は、しばらくして笑い始める。
そりゃふたりとも友達だし好きだよ、と言うので、あぁこれははぐらかされたなと思った。
そりゃそうだ。
誰が大して親しくもない相手に、大切に育んでいる気持ちを曝け出すと言うのか。
もともと沈黙を避けるための世間話で、話の種になればと思っていた程度のことに深く問い詰めるつもりはさらさらなく、「へー」と気の抜けた俺の返事で話は終わる、はずだった。


「私が好きなのはマッキーだよ」


及川がそう呼ぶからかいつの間にか俺のことを『マッキー』と呼ぶようになっていた彼女は、あの時確かにそう言ったのだ。
だけど、それだけ。
それ以上何もなかった。
何を言われたのかを理解する前に、俺が声を発する前に、「あ、岩泉たち戻って来たよ」と訪ね人が帰って来たことに意識を向けられ、聞き間違いだったのかもしれないと思う程いつも通りを貫いた彼女に結局その話はうやむやになって消えてしまったからだ。
何かが変わったとするならそれは、今まで及川や岩泉がいなければ話すこともなかった俺たちが、顔を合わせるたびに会話をしていること。
割とちょっかいをかけてくる彼女に、あまり面倒だと思っていない俺がいること。
及川からは「最近、妙に仲良いよね」なんて勘繰られるくらいに。



「…で、何してんの?」
「気にしないで」
「いや、気にするだろ普通」
「大丈夫、他のみんなに私は見えてないから」
「見えてるからジロジロ見られてんだけど」

昼休み、廊下で、突然シャツを掴まれたかと思えば背中に異物感。
恐る恐る首を捻って視線を向ければ、不自然に膨らむシャツから自分のものではない足が生えていた。
つまり、誰かが俺の背中に頭を突っ込んでいるという良く分からない状況らしい。
確かにしっかり生えている足は、チェックのスカートを揺らしていて女子だということを知らせる。
俺の知る限り、こんなことをしかけてくる女子はひとりしか知らない。
声をかければ案の定、良く知った声が奇妙な位置から届き、もう一度「何してんの?」と問いかければ、もぞりと背中の塊が動いた。

「充電してます」
「充電?何の?」
「私の、マッキー不足を充電中です」
「何だそれ」
「だから、マッキーが不足してるのでそれを補ってる途中です」
「…汗臭くねぇ?」
「いえ、むしろいい匂いでびっくりしてるというか」
「あぁ、そう」
「制汗剤?」
「多分。…で、何でさっきから敬語?」
「何となくです」
「あぁ、そう」

生徒も教師も誰もが通る往来でこの不審な光景はまさに注目の的だった。
通り過ぎる誰もから、クスクスと笑い声が漏らされる。
中には「何やってんだよ花巻!」と指を差しながらゲラゲラと大笑いするやつもいる。
それでもまだ出て来ようとはしない彼女に、「何かあったのか?」と尋ねるけれど背中からふるふると頭を振っているであろう感覚だけが伝わるだけだった。

「そろそろ気は済みましたかねぇ?」
「ヤダ、まだ足りない」
「独り言言ってるみたいで、話しにくいんだけど」

それからはぱたりと黙り込んでしまい、何も言わない彼女に俺も何も言えなくて。
顔が見えない分、何を考えているのかも余計に分からない。
ただ、シャツの下に着ているTシャツを両手でギュッと握られているせいで、引っぺがすことも無理矢理動いて抜き出すこともできないまま、まさに八方塞がりとはこのことだ。
とりあえず、彼女の気が済まないことにはどうしようもないらしく、誰に笑われても誰にからかわれても適当にやり過ごし続けなければならない。
ただでさえ暑い盛りに、重なる体温が更が汗を誘う。
流石にそろそろ汗臭くなっているだろうに、何の我慢大会だろうか。
そんなことをぼんやり考えていると、もぞりと背中の塊が動いた。

「マッキー」
「んー?」
「ごめんね、お昼休み潰しちゃって」
「いーよ、別に。飯は食ったしお付き合いしますよ」
「ごめんなさい」
「それよりお前は?ちゃんと飯食ったの?」
「うん」
「ならいいけど」
「ありがとう」
「暑くねぇ?」
「大丈夫」
「俺は暑い」
「だと思う」
「…何か嫌なことがあったとか、そういうんじゃないんだな?」
「うん」
「だったらいいわ」

一度だけ、言われたことがある。
世間話のついでのように、当たり前だとでも言いたげに、「私が好きなのはマッキーだよ」と。
その時は何かを言う余裕も暇もなくて、結局何事もなかったかのようにその話は流れてしまった。
でもそう思っているのが俺だけで、もしあれから彼女との関わりが増えたことがただの偶然ではなく、背伸びをして必死に頑張っていることだとしたら?
この良く分からない状況が、彼女なりの精一杯の訴えだとしたら?
それらしい態度を毎日見かけることはあっても、あれから一度として言葉で伝えられたことはなかった。
多分それは、俺が何も言わなかったからだ。
そしてそれは、彼女が何も言わせなかったからだ。

「そのままでいいから、ちょっと聞いてほしいんだけど」

思えば随分と情けない話だと思う。
言われて初めて見つけた小さな欠片を拾って、集めて、そしてようやく形が見え始めたなんて、何ともふがいない話ではないか。
けれど見つけてしまったのだから、仕方がない。
気付いてしまったのだから、どうしようもない。
背中にぴたりと寄り添う熱は、ずっとこんな想いで見てくれていたのだろうか。

「俺は、お前の気持ちを知ってるわけだ」
「あー…うん、そうなるね」
「だから乗っかるみたいで、俺としては相当不服なんだけど」

顔が見えないから、どんな表情をしているのかは分からない。
何も話さないから、どんな感情を示しているのかは分からない。
ただ、可愛いと思ってしまった。
友達と楽しそうに笑っている顔が、及川とバカをやっている姿が、岩泉に怒鳴られている背中が、松川を少し苦手そうにしている様子が、俺を見て喜ぶ瞳が。
一度そう見えてしまえば、思ってしまえば、後はもう決まっていたかのように簡単な話だった。
それが、足踏みをしてしまう理由になってしまったのかもしれない。
まるで言われたからそう想うようになったようで、彼女の気持ちを知った上でそれを言うのはあまりにも卑怯に感じて、どこかでこのままでも良いのではないかと思っていたのかもしれない。
それこそが卑怯な逃げ口上だと分かっていながら。
顔は見えないし、声も聞こえない。
けれど、きっと、俺の言葉を待ってくれている。
確信めいてそう思えるのは、いまだ俺のシャツの中でしがみ付いてくれているからだ。
離したくない、と全身で訴えかけるように。

「今も変わってないって思ってていい?」
「…迷惑じゃないの?」
「迷惑してる相手を、そんなとこ入れたままにすると思うか?」

しかも笑い者にされてまで。
そう言えば、戸惑いがちにふるふると震える感覚が背中から伝わり、「思わない、かな」と自信のない舌ったらずな声に思わず笑みが零れる。

「これがあの日には言えなかった、今の俺の気持ちな」
「そんなこと言っちゃったら自惚れるよ、私」
「おー」
「今よりもっと付きまとうよ」
「何でだよ。どっちも同じ気持ちなんだったら一緒にいる、が正しい日本語だろ」

シャツの中から響くグス、という鼻をすする音に思わず声をかけようとすれば、Tシャツを握っていた小さな手がぐるりと腰に回され、精一杯の強さで抱き締められる。
緩む顔を見られなくて良かった反面、色んな表情を見落としてしまっていることが些か悔しい気もする。
しっかりと回された腕にぽんと手を置けば、「やっぱナシ、はナシだからね」と鼻声混じりの訴えが投げられた。

「鼻水付けるなよ?」
「…自信ない」
「おいおい」

それでも「まぁいいか」なんて、思ってしまうのはそれ以外の答えは見当たらないわけで。
随分とふがいない形になってしまったけれど、それでもこれが今の俺の、俺たちの精一杯ならそれで良いのだろう。

「…何してんだ、お前ら」
「新しい遊び?」

購買からの帰りか、パックジュースのストローを咥えたままの及川と両手に戦利品を抱えた岩泉が奇妙なものを見る顔で立っていた。

「あー、コミュニケーションの一環?」
「は?」
「なになに!?いつの間にそんなことになってたの!?」

ちょっと!及川さん聞いてないよ!とニヤけ面で詰め寄る及川と、「いや、だから何の話だ?」なんて相変わらず鈍い岩泉の間を分け入るように足を進める。
腰に巻き付いていた彼女の手は驚きで離れ、それを逃がさないように片手だけを握って駆け抜ければシャツの風通しがやけに良くなり、「ま、マッキー!?」という半ば悲鳴にも近い呼びかけに応えることもなくとにかく走った。
俺と彼女の歩幅の違い、体力の違い、そんな都合を考える前に動き出した身体は廊下を駆け抜け、階段を駆け上がり、暑さで誰もいない屋上に辿り着く頃には握っていた手はだらりと力なく垂れ下がっていた。

「…大丈夫、じゃないわな」
「脚の長さと、体力の違いを、考えて、ほしかったん、だけど…」
「悪い。今は誰にも邪魔されたくないっつーか、何かそんな気分だったから」

息も絶え絶えと言わんばかりの様子にゆっくりと後ろを振り返る。
顔を落として肩で息をする華奢な身体に思わず息を飲んだ。
汗で額に張り付く髪を指先で掻き分ければ、大きく呼吸を繰り返していた肩がぴたりと止まる。

「ってかシャツに頭突っ込むって発想はどこからくんの?」
「だって、マッキー見かけたの久しぶりだったから」
「うん」
「顔見たら緊張で死にそうになると思って、でも、見かけちゃったら勝手に身体が動いてたって言うか…その、気付いてほしかったのかも。私がいることに」

恐る恐る上げられる顔と視線に映るのは確かに俺で、俺だけで。
生徒も教師も誰もが通る往来で、彼女は俺を見つけたのだ。
大勢の中、紛れるように歩いていた俺を、俺だけを。
喜びや不安を混ぜた複雑な表情を浮かべる彼女に、上体を屈めてその視線の高さに瞳を合わせる。
逃げ腰になるのは分かっているので、同時に細い手首を強く握れば観念したのか大人しくなった彼女にもう一歩近付き、お互いの息が絡むほどの距離で大きな瞳が揺れた。

「やーっと顔見せたな」

陰りの中でも分かるほど真っ赤な顔が恭しく上げられると、眩しい光に照らされて輪郭が浮かび上がる。
眩暈がした。
それは暑さ故か、それとも。
そんなもの、もう何だって構わなかった。
俺も大概、人のことは言えない。
汗の滲む喉元にかぶりついてみたい、そんな発想がどこから来るかなんてそんなもの、言えるはずもないのだから。
始まれば、終わりが嫌でも準備されてしまう。
つまりは手に入れてしまうこともまた、同義なのだ。
それでも始めてみなければ分からないなら、俺たちは迷いながらもそれに手を出すことを選択した。
俺たちはまだ子どもで、だからと言って終わりは来ないと言い切れるほど幼くはなくて、それでも“いつか”を先延ばしにすることはお互いの努力次第でいくらだってできる気がするくらいには、未来とやらに希望と期待は抱いているのだ。
いっそ潔く割り切ってしまえば、答えは簡単に導かれる。
日常の中に潜む些細な非日常が、今の俺たちには全てだった。
このまま一緒に、夏の暑さや空気と一緒に、ふたり溶け込んでしまえたならそんな野暮な考えも滲んでしまうのだろうか。

「マッキーが好き。大好き」
「ん、知ってる」

口元を両手で覆い、溢れ出す気持ちを塞き止められないとばかりに吐露されてしまったなら、そんな考えさえもいらないことだと思わせるこの威力は計り知れない。

「俺は、」

まだはっきりとは伝え切れていない気持ちを形にしようとすると、グスっと漏れた音と共に落ちる涙が光を受けてきらきらと輝く。
咄嗟に手の甲で隠される目元からは際限なくそれが零れ落ち、コンクリートの床に染みを広げた。
お前、泣き虫だなぁ。
そう言って笑えば、「仕方ないじゃん」と鼻声が震える。
次々と溢れて止まらない涙を拭おうにも、その役割を担ってくれそうなものはお互い何も持ち合わせはいなかった。
仕方なく不恰好に飛び出たままのシャツを押し当てれば、「ヒー!」と色気も何もない叫び声がこだまする。

「腹チラ!マッキー今腹チラした!」
「いや、だからそれが何だよ」
「そういうの!予告しててもらわないと!私の心臓が持たないから!」

それはまた色気も何もない言い分で、たかだか俺の腹が少し見えたくらいで何を言う。
そんなんでこれから先どうすんだよ、とは思ったけれど今は言わないでおこう。
そんなことを零そうものなら、そのまま倒れられそうだ。
だから、言いかけた言葉もまた先送り。
それでもいい。
だってまだ、夏も俺たちも、始まったばかりだろう。

「今日は俺のシャツが大活躍だな」
「あ、洗って返します…」
「別にいいけど」
「だって汚したの私だし」
「あーその言い方、何かやらしいな」
「な、なな、な…!」
「うそうそ、冗談。今は」
「今は!?」

あと何回、冗談だと笑ってやりすごせるかは知らないけれど。
彼女は、これまで十分にしてくれた。
好きな相手に好かれたくて、勝手に期待して失望して傷付いたり悲しんだり、それでも相手の言葉や仕草ひとつでまた喜んで、それを何度も何度も繰り返して来たのだろう。
だから今度は、俺の番だ。
彼女がしてくれたことを、それ以上に返していけるように。
そしてその時も変わらず俺を好きだと言ってくれるなら、今度は笑ってそう言ってくれるなら、誰に笑われても誰にからかわれてもきっと、誇っていられる。

(title by 誰花)

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