「誕生日、おめでとう」

私がいて、目の前に男の子がいて、私は確かにその子の足元を見ながらその言葉を言った。
おめでとう、と言った後その子の足がゆっくり近付き、何となくどんな表情をしているのかが気になって、ゆっくりと視線を上げたところで目の前には見慣れた天井だけが佇んでいた。
つまり、見事な夢オチってやつなわけで。
一体何の夢だったのかと起き抜け早々の凶悪な顔面でカレンダー睨めば、今日が8月8日であることに気付いた。
あぁ、そうか。
今日は夜久の誕生日だ。
学生たちの8月は、いわゆる夏休みというこの世のパラダイス期間なわけで、夏休み中に生まれるってのは少しばかり気の毒なことだと思う。
少なくとも、特別仲良くしている友達にしかおめでとうは言ってもらえないのだから。
気配り目配り心配りを信条に生きているようなオカン気質だとしても、何も生まれる時までそんなに空気を読まなくてもよかったのでは?と聞いてはみたいけれど、そんなことを聞かれたところで夜久も困るし、もし真剣に答えを返されたところで私も困る。
だから別に、聞きはしないけれど。
寝ぼけたまま、まだ正常に動かない頭を揺らし、いつもより2時間も早い起床時間にどうして早起きをしたのかを唐突に思い出した。
私、今日学校行かなきゃだ。



誰もいない図書室はあまりにも退屈で、良いことと言えば無償でクーラーの恩恵に与れるということだろうか。
だけどやっぱり退屈で、午前中だけの当番の子に「あんたが帰ったら退屈で死ぬ」と物騒なことを言えば、「じゃぁ本でも読めば?図書委員が図書室にいるんだし。それができないなら死ね」なんて本を読まないくせに図書委員に所属していることを皮肉られた上、更に物騒なことを言われて結局は1人ぼっちだ。
退屈だ。
それも恐ろしく。
山のようにある本だって、読む習慣がなければただの紙の束としか認識はされない。
こうやってぼんやりするのは嫌いではないけれど、今日だけは勘弁してほしかった。
退屈で、誰もいなくて、取り立ててすることがないとなると、すっかり頭の片隅に追いやられていたことが急にむくむくと育ってしまうからだ。
今日は8月8日で、夜久の誕生日で、毎年この日に学校にいることなんてないけれど、今日に限って私は学校にいるし、夜久に至っては間違いなく体育館にいるのだ。
退屈で、誰もいなくて、取り立ててすることがないとなると、あの夢は一体何だったんだろうなんてことばかり考えてしまう。
どうせ、誰も来やしない。
図書室が賑わい出すのは、夏休み後半に差し掛かった宿題という名の脅威にみんなが晒され始めた頃なのは毎年のことだ。
まだ始まったばかりと言っていいくらいの今日という日に、誰も好き好んで学校になんて来るはずもない。
気分転換がてらジュースでも買いに行こうと財布を持って図書室を出ると、よりにもよってバレー部と鉢合わせになった。

「夏休みに学校なんて絶対来ないやつだろ、お前は」
「私だって来たくて来たわけじゃないよ。委員会、当番代わってって言われたから」
「あー、図書委員か。お疲れさん」
「そっちもね」
「それにしても、夏休みにお前がいるってやっぱ何か奇妙だよな」
「何か恨みでもあるんですか、あんた」

先に行ってるぞ、と夜久に言い残して黒尾が残りのバレー部を引き連れて行く。
夜久は行かないの?と思いながらその横顔を眺めていると、「何だよ、じろじろ見て」なんて短い眉毛がキュッと寄せられた。

「相変わらずやんちゃな眉毛だなと思って」
「言っとくけど俺のは自前な。お前こそどこに置き忘れてきたんだよ、眉毛」
「え、うそ。描き忘れてる?」
「しらねー」

それは確かに人相が悪すぎる、という自覚はあるけれど目の前にいるのが夜久ならまぁ別にいいかとも思ってしまうわけで、こんな感じでしか話せないから余計に、あんな風に改まって「おめでとう」なんて言うことが、やっぱり夢の中の出来事なんだなと思う。
基本的に世話焼きで、優しくて、人当たりのいいやつではあるけれど、仲良くなりきってしまうと割りと遠慮ない暴言が飛び出すのだ。
顔を合わせば憎まれ口の攻防を繰り広げる私たちに、あの妙に真面目で気恥ずかしいくらいの雰囲気で、あのやりとりはない。
できるはずもないのだ。
考えてみれば笑い話だけど、と会話の合間に落ちた沈黙を破るとうに「あのさ、」と少しだけ前を歩く背中に投げかけた。

「今日、夢見たんだよね。普段あんま見ないんだけど」
「へー、どんな?」
「夜久に、おめでとうって言ってる夢」
「は?」
「いや、だから夜久に「誕生日おめでとう」って言ってる夢を見たんだけど」
「お前、俺が誕生日って知ってたの?」
「一応記憶してたみたい」
「知ってたんなら一言くれてもいいと思う俺は間違ってますかね?」

それこそ電話でもメールでもあるじゃん、と言われて至極真っ当な正論に考えを馳せ、そして答えが導き出される。

「いや、そこまで堪らん言いたかったってわけでもないんだけど」
「あ、そう。良く分かった。死ね」
「死ね!?」

今日2回目なんだけど!と憤れば、「そりゃよかったな」と心にもないことを言う。
気配り目配り心配りを信条に生きているようなオカン気質は、一体どこへ行ったのか。
少しは私にもそれを分けてくれてもいいんじゃないの、と色々抗議をしてみても、明らかにムスっと顔を歪めたまま私の言い分が見事にスルーされる中、どこかで見た光景に言葉が詰まった。
そう言えば確か夢の中でも、と。

「私の財布に103円しかなくて、」
「は?」
「それを見て夜久が、ひもじすぎるって大笑いするのね」
「いや、いつの話だよ」
「貧乏な私にジュースの1本でも恵んでくれって泣きついたら、何で誕生日におごらなきゃなんねぇのなんてムスっとして言うから、おめでとうって言ったんだった」
「俺の誕生日はとりあえず扱いか」
「そんなことはない。断じてない」
「まぁいいけど」
「話を戻すとね、私はさ、こうやって財布見てたら夜久の足元が視界に入ってたわけよ。ちょっとずつその足が近付いて来て、何となくどんな顔してんのか気になって顔上げようとしたら、」
「したら?」
「目が覚めた」

何を考えているのか読み辛い表情で、「ふーん」と興味もなさそうに夜久が相槌を打つ。

「あの時の夜久は、どんな顔してたのかな」
「じゃぁ、試してみたら?」
「試すって?」
「だから俺が、お前におめでとうって言われてどんな顔するかだろ?俺がいて、お前がいて、しかも今日は俺の誕生日だし、まだ何も言われてないし」

条件は揃ってるじゃん、とまるで挑発するように真っ直ぐな視線を向けた夜久は、首を少し傾けて私の出方を伺っている。
別に、言いたくて堪らなかったわけじゃない。
だからって、肩肘張って言わない理由だってないのだ。
振り返ったままこっちを見ている夜久は私の言葉を待ちながら、いつの間にか漂い始める改まった雰囲気に飲まれるのを肌で感じつつ、わざとらしく咳払いをした。

「夜久、誕生日おめでとう」

ここは奮発してジュースの1本でもおごってあげよう、と勢い余って得意気に宣言してたものの、夢のことも相まって財布の中身が気になってしまう。
夜久には夢の話はもうしてしまったし気を遣うこともない、と残金を確認をしつつ肝心の返事を待っていてもそれは一向に返ってこないまま、下を向く視界に一歩ずつ近付く夜久の足が映った。
あれ、これって、と慌てて顔を上げるけれど、結局夜久の顔は見れずに制汗剤の爽やかな匂いが鼻をくすぐる。

「どーせ、財布に103円しかないんだろ」
「ゆ、夢の話だし…今は200円はあるし…」
「どっちにしろひもじくて可哀想だからさ、だからこれでいいよ。ってかむしろこれがいいし」

しっかり抱きすくめられ、耳元で囁かれる声は直接耳に入りそして身体を巡る。
隙間なくぴたりとくっ付いた身体から、お互いの加速していく鼓動を直接身体に響き渡った。

「そ、それはちょっとおっさんクサイよ」
「いいんだよ、お前より1コ年食ったんだし」
「その言い分が更におっさんクサイから」
「それ以上おっさんおっさん言ってると、口塞ぐからな」
「…やっぱりいちいちおっさんクサイ」
「お前ね、俺が言ってたこと聞いてた?」
「う、うん」
「…分かってる?」
「うん」

分かってるよ、と言い終わる前にそっと離れて行く、私より少しだけ大きな身体。
小さく息を吸い込んで、空気さえも熱いなんて思いながら、身体の中を一巡したそれをゆっくりと吐き出す。
指先が伸ばされ、頬を伝い、そして添えられた手に自分の指を引っかければ自然と瞼が落ちた。
それからのことは、もう知らない。
ただひとつ言えることは、暑さや熱に浮かされたわけなんかじゃない、ただそれだけ。

「何だかんだで、俺のことかなり好きだろ」
「…人のこと言えますか、あんた」
「言えないよなぁ」

やんちゃな眉を上げてて笑う夜久に、私が夢で見たかったのはきっとこの表情だったのだと知る。
結局なけなしのお金で買った1本のジュースを2人で分けながら、誰も知らない熱さえも2人で分け合うように繋がった掌の中には、これからがたくさん詰まっているのだろう。
もくもく育った入道雲も、煩く騒ぎ立てる蝉時雨も、甘ったるいオレンジジュースも、人工的なフルーツの匂いも、滲む汗のベタつきも、ただの夏だった頃にはもう、戻れない。
友達だった頃には、戻れない。

あ…図書室放ったらかしだ。
あー…部活どうなってっかな。
まぁ今日くらい、いいか!

(Happy Birthday Dear夜久衛輔)

「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -