『もしも』から始まる言葉で物事を考えるのは、いつの頃からか苦手になった。
何もかも手放しで夢を見られるほどもう若くはなくて、嫌と言うほど知り続けた真実が、夢に酔えるだけの純粋を奪ってしまったのだろう。
例えそうであっても、『もしも』を考えてしまうのが人間なのだろうか。
もしもあの時、と過去を振り返るのは後悔からの逃げ口上がさっきからずっと、頭の中を忙しなく駆け巡っていた。
二本の足で地面を踏みしめ立っているのがやっとだというほど疲弊した身体は、時折眩暈という形でその限界を告げていた。
長居はできない。
それに、恐らく誰かがすぐに私を捕らえに来るだろう。
乱雑に握り占めていた花束を散らすように投げれば、強い風がそれらを攫って城壁から外へと旅立って行った。
こんなものは、生き残った者のただの気休めだ。
頭では冷静に理解していても、そうせずにはいられなかったのは私の弱さだろうか。
凄惨な戦いを洗い流すかのようにしばらく降り続いた雨が上がり、いやに澄んだ空気の中を散り散りに広がって行く花びらを見送るようにただそこに佇んでいると、「おい」と舌打ち混じりの声が私を呼ぶ。

「こんな所にいやがったのか」

振り返る前に誰の声かは大体検討が付いていたけれど、勝手に反応した身体が首だけを後ろに回せば、不機嫌、不愉快、所謂それら不快を示す表情を隠しもせずに腕を組んだ男が立っていた。

「大人しく待機するよう言い渡されていたはずだが?」
「わざわざ探しに?」
「てめぇが行方眩ましたせいで駆り出されたんだろうが」
「うん、ごめん。少し風に当たりたくてさ」
「っは、妙に言い得てやがるな」
「何が?」
「馬鹿と煙は高いところが好き、なんだろう?」

ツカツカと速足で近付いてきたリヴァイは指先に挟んでいた煙草をスッと抜き取り、まだ火を点けたばかりのそれは捻り潰されるように彼の靴底の下敷きとなる。
勿体ない、と漏らした本音には「怪我人は大人しくしてんのがマナーってもんだ」と悪びれる様子もない淡々とした切り替えしに、苦笑いを浮かべた。

「気は済んだのかよ」
「さぁ、どうだろう。結局余計に感傷的になった気もしないでもない、かな」
「てめぇはどうしようもない馬鹿野郎だな」

言葉少なにそれだけを言うと、私より少し低い位置にリヴァイの肩が並ぶ。
忙しい合間を縫って探しに来てくれたのだから、暴言を吐かれ首根っこを掴まれて引きずられるようにすぐ連れ戻されると思っていたけれど。
そんな様子を見せることなくただ黙って私の隣を陣取る彼は、真っ直ぐに城壁の外を見据えていた。

「呆れた?」
「今に始まったことじゃねぇだろ」
「それもそうか」

なるほど、と妙に納得をして頷けば、「ッチ」と巻き上げられる風の音に紛れることなく届いた舌打ちが、何だかひどく空々しくて胸がチリチリと痛みに刺される。
いつものように心底くだらないという表情で軽蔑してくれた方が楽だと言えば、この男はどんな顔をするだろうか。
本当に自分が楽になることばかり考えているな、と苦笑いを浮かべた。

「別に、彼だけが特別ってわけじゃない。みんな、それぞれ自分の帰りを待っている人がいて、無事に帰って来ることを祈っている人がいるのに、彼だけにこんなことをするのが決して正しいなんて思ってないよ」
「何も言ってねぇだろうが」
「何も言ってくれないから、一応言っておこうと思って」
「そうかよ」

理解はしてるんだ、と続ければリヴァイは何も言わなかった。
それはきっと、彼自身も身に覚えのある感覚だからだろう。
リヴァイだけじゃない。
いつだってわずかな希望に縋るしかない日々を生きていれば、誰もが必ず遭遇する矛盾なのだ。
十分理解しているからこそ、心が付いて行けずに悲鳴を上げる。
今までだって数えきれないほど経験したはずのそれに、今回ばかりはどうして躓いてしまったのか。
その理由が笑ってしまうほど人間臭くて、あぁ私はまだ人間なのかとその痛みで自分を知ることがまた、言い知れぬ何か大きな恐怖を刺激するのだ。
未来を削がれる音は、決して忘れられない絶望として身体の中に蓄積されて行く。

「彼、少し前にリヴァイの下にいたんだよ。覚えてる?」
「ああ。よく喋る気のいい野郎だった」
「リヴァイのマントが風に靡く姿を見て、強烈に憧れたんだって熱心に言ってた。自由を感じるんだって。どこまでもこの人は飛んで行けそうで、自分もそんな風にいつかなりたいってその話ばかり」
「そうか」
「口を開けばリヴァイのことばかり話してたのに、来月に結婚するんだって突然報告しに来てさ。調査兵団にいる限りいつ何が起こるか分からないけど、だからこそ一緒にいられる時間を少しでも大切な人と分かち合いたいから決断したんだって、嬉しそうに笑っててね。幸せそうだった。でも、私を庇って死んだ。身体ごと食われて、首だけが転がり落ちるのを私はただ見てたの。彼と、彼の帰りを待っている人から未来を奪った私だけが、こうして生き延びた」
「それで逃亡か?笑える話だな」
「今までだって散々仲間の死を利用して生き残って来たのに、今更だって自分でも思うよ」
「感傷的になるのは勝手だが、他人を巻き込んでんじゃねぇよ」
「うん、ごめん」
「分かってんのか。てめぇはエルヴィンから待機命令を受けてんだよ。それを許可なく破り、まして立体起動装置を勝手に持ち出したとなれば責任問題だろうが」
「うん」
「何故こんなことをした」
「許しを請いたかったのかもしれないし、逃げたかっただけかもしれないし、はっきりとした理由はないよ。ただ、花を手向けるくらいはしたかったのかもしれないね。私自身のために」

取り繕うこともなく、まとまらないありのままを語った私にリヴァイの表情が変わることはない。
怒りでもなく、軽蔑でもなく、ただ静かに私を見るその瞳は出会った頃と何も変わらない強さと淀みを混在させた色を映していた。
調査で疲弊した身体の回復を待たずに動き回ったツケは、思っていたよりも早く私の足を襲い、カクカクと震えるそれに大耐え切れず思わず座り込む。
まるで、初めて巨人を目の前にした時のようだ。
あの頃は何もかもが恐ろしくて、足どころか全身の震えを堪えることだけで精一杯だった。
それが今ではどうだろうか。
怯えることは多い。
でもそれはあの頃と同じ、自分の命に執着するが故の恐怖だろうか。
何度も同じことを考えたところで結局、結論もまた同じところに着地する。

「怪我をすることも、命の危険を感じることも、恐怖も、憎しみも、日に日に麻痺していくのに、どうしてこればかりは慣れてくれないんだろう」

そうすれば、こんな想いに迷うこともないだろうに。
それだけをぽそりと呟き、ポケットから新しい煙草を取り出し火を点ける。
不快に顔を歪ませたリヴァイに「1本だけ。お願い」と力なく微笑めば、「ッチ」と仕方なしと言わんばかりの物言わぬ許容が得られた。
白煙が風に乗って溶けて行く様が無性に切ない。
詰まる胸を抑え、苦しいと嘆く音のない声を閉じ込め、代わりに煙を吐き出す。
いつしか癖付いたそれを、リヴァイはいつも苦々しい表情で見ていた。
さっさと禁煙しろ、と促されることは何度もあったけれど、さっきのように露骨に取り上げることは今まで一度もなかったなと思い返す。
例え身体に害を残すだけのものであっても、一時的にでも私の心を軽くさせていることを知っていたのだろうか。
じわじわと短くなるそれは、まるで私たちの心のようだ。
擦り減らすだけ擦り減らし、限界に到達したところで役目を終える。
たとすると今の私はどの辺りにいるのだろうか。
揺れる白煙をぼんやりと眺めながら、限界になってそれを石に押し潰せば隣に立つリヴァイが私へと視線を落とした。

「俺たちが仲間の死に何も思えなくなった時は、刃を握る理由を失う時だ」

力強く届いた声に、ゆっくりと顔を上げる。

「俺たちは人間であるために戦ってんだろうが。何も感じないイカレた野郎になっちまったら、それはもう人間じゃねぇ。ただの化け物だ」
「その方が、楽になれるとしても?」
「もしてめぇがそうなったら、真っ先に俺がその首を削いで人間として殺してやるから安心しろ」
「痛みばかり受け入れろなんて、とんだ被虐的な人生ね」
「皮肉にも、今はそれが人間らしく生きるってことらしいからな。諦めろ」
「諦めた先に何があるの」
「死んだそいつが大切に想っていた女は、少なくとも明日を生きられる」
「彼女は望んでないかもしれないのに?」
「それはお前が決めることじゃない」
「でも彼が私を庇って死んだ事実は変わらない」
「てめぇよりもお前が生き残ることで、一日でも早く巨人の脅威から大事な女を守れると踏んだそいつの覚悟だ。生き残ったなら、ましてや仲間に救われた命なら、同じ心臓を捧げた仲間の死を言い訳に立ち止まることは許されん。俺たちが選んだ生き方は、そういうものだ」
「今日は、良く喋るね」
「そうかよ」
「もしかして励ましてくれてる?」
「ついにトチ狂ったか」
「既に狂ってるのか、まだ狂う前なのか。それさえももう、分からないよ」

きっと、たくさんのものを失い過ぎた。
私もリヴァイも、数えきれないものに見送られて来た。
それはあまりにも重くて、あまりにも儚くて、迷えば簡単に足元をすくわれる。
それでも私もリヴァイも、今を生きているのだ。
生かされている意味も理由も、私たちは自分では決められない。
心臓を捧げたその瞬間から、この身体は自分のものではなくなったから。
これからもきっと、たくさんのものを失うのだろう。
私もリヴァイも、いつ自分が失わせる側になるかは分からない。
それでも捧げた心臓はまだ、私を生かすために鼓動を繰り返している。
それは間違いなく、私がこの世界に存在しているという何よりの証でもあった。

「リヴァイ」
「今度は何だ」
「巻き込んだ。ごめん」
「俺は、他人なのかよ」

トン、と拳が胸元に落とされる。
そうか、半分を受け取ってくれたのか。
この言い知れない不安と恐怖を、後悔と嘆きを。
久しぶりに心から笑みを浮かべられた気がする。
腐れ縁をこじらせた同志かな、と尋ねられた問いに応じれば、無言のまま背中が向けられた。

「そもそもお前の面倒に巻き込まれるのも、今に始まったことじゃねぇんだよ」
「それもそうか」
「さっさと行くぞ。エルヴィンとクソメガネが待っている」

手を、差し伸べられることはない。
だから自力で立ち上がる。
二本の足で大地を踏みしめ、生きていることを実感しながら。

「うん、今行く」

だから私も、差し伸べられる手は待たない。
再びたくさんのものを失い、見落とし、掴めたはずの手を握ることができなかったと振り返ることを、私はきっとやめることはできないのだろう。
どれだけの痛みだとしても、それが人間たる所以だとこの男は言った。
だったら私は、どこにいても必ず追いついてみせよう。
自分で選択し、歩くことを選ばなければいけないことを誰よりも理解している背中が、少し先で待っているから。
例え少しだけ立ち止まってしまうことがあったとしても、必ずこの肩を並べてみせよう。
彼が私にそうしたように、いつか私がリヴァイにそうするであろう瞬間が来たるまで。

「何だかその内『逝き遅れ』とか言われそうだね、私たち」
「上等じゃねぇか。これ以上ない褒め言葉だ」

口元に弧を描き少しだけ笑ったリヴァイの表情に、彼が憧れ続けた理由を今更ながらに理解できた気がした。
私には、彼が守ろうとした最愛の人と向き合うことはできないだろう。
けれど彼が追いかけ続けた男になら、その最期を伝えても良いと思えた。
それが私にできる私だけにしかできない私なりの、最後の手向けなのだ。
全てを賭けて挑み、そして死んだ大勢の中の1人のための最後の嘆きは、ここに置いて行こう。
その代わり、彼が生かしたこの命に託された願いだけは連れて行こう。
どうか、彼の愛した人の生きる世界が少しでも長く続くようにと。
深緑のマントを靡かせるリヴァイに自由を感じたのだと誇らしげに語った、彼の想いと共に。

「お互い、悲願の時まで生き残れるかな」
「さぁな」
「もしその日まで無事でいられたら、そうだなぁ…飽きるまでお酒を飲んで、次の日はお昼まで寝込んで、お互い二日酔いの酷い顔を見て笑い合いたいな」
「随分と小せぇ夢だな」
「そう思うなら、そこは笑うところだよ」
「そうか、それは期待を裏切って悪かった。だが、残念ながら俺には笑えん話だ」

鼻で笑い飛ばされるか、つまらないと切り捨てられるか、そのどちらかと踏んでいたけれど、殊の外意外な反応を示したリヴァイに言葉が詰まった。
少し前を行く『自由の翼』を背負った背中が、ゆっくりと振り返る。
笑わない、ではなく、笑えない、と言った真意を宿した瞳が私を映した。


「『行き遅れ』の腐れ縁女と、1人の男として生きてみるのも悪くないと思ってる俺には、笑い話にはできねぇさ」


深緑のマントを靡かせながら自由を謳うその背中に、瞼を細める。
答えを求められていないことはすぐに分かった。
それは腐れ縁故か、それとも上手く返せる言葉を持たない私のただの願望か。

「本当に、今日はよく喋るね」
「そうかよ」
「それに似合わないことばかり言う」
「困らせたか?」
「困ったと思えないから困ってる」
「それもまた、似合わん答えだな」
「リヴァイ」
「何だ」
「私は、間違いなくあんたより先に死ぬよ。それでも同じことを、言ってくれるの?」
「…なら、今から禁煙に励めよ」

私はやっぱり、あんたを置いて逝くのだろう。
きっと、彼が私に託したものと同じ理由で。
そしてそれは、リヴァイも理解しているのだ。
だからこれは、ただの『もしもの話』。
けれど今だけは、今だけなら、少しだけ夢を見てもいいだろうか。
雨上がりの世界は、土が風が空気がありったけの光を散らしてこんなにも美しかったことを。
その光を受けた深緑のマントを靡かせ、自由を謳うその姿がこの瞬間私だけのものであったことを。
世界の残酷さを知っていてもなお、願わずにはいられないのもまた人間故なのだとすれば、私はまだ人間でいられる。
舌打ちを繰り返す口の悪いこの男がいる限り、苦手になった『もしも』を願う1人のただの人間として、女として。

「明日は、晴れるかな」
「明日の天気は知らねぇが、始末書に泣かされてるお前なら簡単に想像が付くな」
「始末書で済むように言ってくれるんだ?」
「エルヴィンの野郎の長ったらしい説教で、死なねぇことだけは祈っててやるよ」
「それはないよ」
「あ?」
「私が死ぬのは、巨人に食われる時かあんたに殺される時だけだから」
「…だったらさっさと禁煙しろ、クソが」

ねぇ、リヴァイ。
あんたと、明日の話がしたい。

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