2人並んで両手を合わせる。
この厳かな雰囲気の中で耳に入る音は、木々が風に揺れる音と小鳥の囀りだけだ。
瞼を伏せて合わせる指先へ額を近付け静止すること数秒、どちらからともなく顔を上げ、終わった?と視線で会話を交わせば、お互いに漏れる微笑みを向け合う。
年の瀬でも年初めでもなく、出かけた時に神社を見つければ足を運ぶようになってどのくらいになるだろうか。
決まり事にしているわけでも、約束しているわけでもない。
神社があるよ。
私がそう呟いて、なら少し行ってみようか、と伊作が応える。
いつからか自然と、そんな流れができていた。
行き慣れた町の神社は、もう何度行ったかも分からないほど。
それでも私は言う。
そして伊作は応える。
だから私たちは両手を合わせ、いるのかどうかも分からない神様に願いを託し、どうかどうかと都合良く神様を頼るのだ。

「今日は何をお願いしたんだい?」
「秘密」
「君はいつもそれだね」
「伊作こそ何をお願いしたの?」
「僕は、みんなが怪我も病気もなく元気に笑っていられますようにって」
「伊作もいつもそれじゃない」

肩を並べ、人のいない境内を進む。
初めて訪れたここは、意外にも大きく立派なところだった。
小高い山の上にあり、長い長い石階段を上ってようやく鳥居のあるところまで辿り着く。
境内も広く、階段を登り切っても本殿はまだ遠いと感じるほどにそこは広かった。
もちろんその道を通って来たのなら、帰り道もそれをなぞる。
思ったよりも時間を取られてしまったね、と笑う伊作に「暗くなったら月明かりがあるよ」と告げれば伊作は少し困ったように俯いた。
月明かりは、私たちの敵なのだ。
闇の中に紛れ、潜み、姿を晦ませる私たちにその光はあまりにも眩しい。
それを当てにするのは些か都合が良すぎるだろうか。
それでも、いるかどうかも分からないと思っている神様へ願い事を押し付けるよりは、随分良心的ではないか。
ようやく階段へと着いた足は、一歩一歩それを下って行く。
少し先を行く伊作へ、「聞いた話なんだけど、」と声を投げれば、進められていた足を止めた顔が上がる。
夕焼け空に映える伊作の姿に瞳を細め、同じように足を止めた。

「願い事は、誰にも言わない方が叶いやすいらしいよ」
「どうして?」
「神様と願った人との秘密事だから、口に出してしまうと神様が拗ねちゃうんだって」
「だったら早く教えてくれたら良かったのに。言っちゃったじゃないか」
「今思い出したの」
「ひどいなぁ」

やれやれ、と苦笑い浮かべる伊作の顔は、既に前を向いている。
進むべき道へ向けられたそれに、私も一歩ずつ階段を下りた。
しばらく何も話さないまま、その背中を追いかけるように同じ歩調で進むと、賑やかな町の音がようやく届くようになる。
階段ももうすぐ終わりだ。
厳かな雰囲気も、木々が風に揺れる音も、小鳥の囀りも、今はもう聞こえない。
日常へと戻った私たちにもう一度、伊作がこちらを振り返った。

「さっきの話だけどね、色々考えていたんだ」
「ただの迷信だよ」
「そうかもしれないけど、それが本当だったとしても僕はきっと、君には言ってただろうなって」
「叶わなくなったら意味がないのに?」

思ったままの疑問を口に出せば、不可解な話をする伊作が綺麗に微笑む。
思わず息を飲めば、美しく描かれが唇の弧をそのままに言葉が紡がれた。

「これは僕と神様と君との秘密事だ。他の誰も知らない、僕の願いだよ。叶わなくったって僕にとっては意味があることだと思うから」

人差し指をそれへ添わせ、「秘密だよ」と言った伊作の表情は、数多見て来たもののどれにも当てはまらない。
初めて目の当りにするものに、人間は上手くは対応できないものだとどこか冷静な頭で思った。
照らされる顔が、密やかに告げられた言葉が、五感全てを震わせるように確かに私へと向けられている。
いつだって、私の言葉に伊作は応えてくれた。
前へ戻されようとする横顔に何とか留めようと名前を呼べば、思ったとおり再び私を捕らえる夕焼け色の瞳へ向けて、言葉を選ぶ。

「私、いつも願い事は1つだけなの」

だから、初めて2人で神社を訪れてから今日までも一度も、違う願いを神様へ託したことはなかった。
そして願い事が何かということも、誰にも話したことはない。
誰かに話すと叶えてくれないんだって、と友人の話にあぁ良かった、と思った。
誰にも話していないから、ねぇ、早く叶えてよ。
そんな勝手なことさえ思っていたのに。
ここまでずっと蓋をしていた想いに、手を伸ばす。
ゆっくりと開けたそこにあったものは、あまりにも素直で真っ直ぐな、ありふれたものだった。

「いつも教えてくれないけどね」
「うん」
「言っちゃうと叶わないから?」
「それは後で聞いた話だよ。ずっと言わなかったのは、私の勝手なことだから」
「願い事なんて誰だってそんなものだよ」

両手を後ろへ回して、一段、また一段、と階段を下りて行く。
伊作が立つところまで辿り着けば、その目を覗き込み今度は私がゆっくりと微笑んで見せた。

「神様、私をほんの少し不運にする代わりに、どうかこの人にほんの少しの幸運を分けてください」

それがいつも私が願っていることだと言えば、伊作の瞳に困惑が映る。
それもそのはずだ。
いつだって他人のことばかりを気にかける伊作にとって、誰かの不運の上に成り立つ己の幸運など間違っても求めるところではないのだから。
伊作という人間を知っていても尚、そう願う私はあまりにも酷なのだろう。
言ってしまうと叶わないから。
そんな可愛らしい理由なんかじゃない。
伊作の全てを否定してそう願う私を失望してほしくなくて、言わなかったのだ。
身勝手な願いを頼み込む人間らしくとてつもなく身勝手な女なのだと、軽蔑されたくないがために。

「ね?とても勝手でしょう?」

さぁ、どんな言葉が投げられる。
覚悟を決めていたはずなのに、唇を堅く締めて頬を染める表情だけが広がっていた。

「本当に勝手だよ」
「ちょっと待って、言ってることと表情が合ってない」
「そんなのまるで、僕が大切だって言われてるみたいじゃないか」

右手を額に当て、どうなっているんだとばかりに慌てている伊作に思わず指先で頬を抓る。
大切だと思っていないとでも言いたいのか。
唇を尖らせてそう抗議すれば、「いや!そうじゃなくて!」と弁解に必死になる伊作の足元がつるりと滑り、見事に階段から転げ落ちた。
何をどうすればそうなるのかは分からない。
幾度となく目にしてきた不運の直撃を受ける光景に、滑り落ちた先へ駆けつければ痛々しく身体を起こしていた。

「やっぱり、人に言うと駄目みたいね」

苦笑いで座り込む伊作を覗き込めば、いやにすっきりとした表情で笑みが返される。

「そんなことはないよ。僕はいつももらっているからね」

何を?と視線で問いかける。
分からない?とまだ笑い続ける伊作は、しっかりと私の目を見た。

「同級にも恵まれて、委員会だって可愛い後輩がたくさんいる。僕はいつだって沢山の幸運の中で生きているんだ」

これを幸運と言わないで何と言う。
とても満たされているとばかりにそう言った。
馬鹿ね、そんなことは当たり前で普通なことなのに。
そう言いたかったはずの言葉は、喉で仕えて言葉にはならない。
当たり前のことが特別なのだと言われているようで、普通であることがとても困難なのだと知っている彼だからこそ言える言葉のようで、悲しくないはずなのに込み上げる涙を堪える。
そんなことを必死に頑張っていることも知らない伊作の言い分は続く。

「それはいつも君が、そう願ってくれていたからかもしれない」

ありがとう、と差し出された手に恐る恐る自分のそれを重ねる。
そんなことを言ってもらえるはずもないと思っていた。
悲しませるだろうとすら思っていた。
それでも伊作が言ってくれた「ありがとう」は、あまりにも綺麗で美しい。
溶け合うように触れた掌で交わされた握手は、とても温かかった。

「でも私は不運に見舞われたことはないんだけど」
「じゃぁそれは、神様の厚意じゃない?」
「あまりにも短絡的ね」
「受け取る側の気持ち次第だよ。だったら、そう思っている方が素敵じゃないか」

それもそうだと思わせるのは、伊作だからだろうか。
まだ握り合ったままの手に力を込めてかがめていた上体を正せば、彼もまた起き上がるために足を踏ん張る。

「で、そんな素敵なことを言っているわりには決まりが悪いのよね」
「ははは…」
「何だか狐に化かされた気分」
「ここは稲荷神社じゃないよ」

精一杯の力で引き上げる自分よりも大きな体は、幸いにも怪我はしていないようだ。
良かった、と安堵の息を吐き出せば、伊作は砂埃を払っている。
握手をしたままの手は「そろそろ帰らなきゃ本当に帰れなくなるね」と笑う伊作に繋がれたままだった。
うん、と私が頷けばそれはするりと離れていく。
どこか名残惜しさを感じる気持ちを知りながら、宙ぶらりんになっているそれを下げる間もなくもう一度掴まれた。
今度は右手同士ではなく、右手と左手で。
行き交う人はさぞや可笑しなものを見ていると思っているのだろう。
往来の人を気にすることもなく、改めて繋ぎ直されたそれはまるで恋人がするものと同じように見えて仕方がない。
ぐんぐんと上昇する熱が頬へと集中し、見れなくなってしまった伊作の顔に「どういうこと?」とやっとの思いで疑問を投げかける。
いっぱいいっぱいな私のことはお構いなしに、今度は伊作が私の顔を覗き込んだ。

「少しだけ、幸運を分けてもらってるんだ」

握り合っている手を掲げ、微笑む。
私の願い事とおりならば、伊作が幸運を感じるなら私は不幸になるはずだ。
けれど不幸になるどころか、私までうっかり幸せにされてしまうのは何故だろうか。
これが幸運だと言う伊作の真意はどこだろうか。
錯綜する頭の中を丸ごと攫うように強く握り締める手に応えるよう、私もしっかりと力を込めた。

「これって、願い事を叶えてもらったってことになるの?」
「どうだろう。でも僕は幸運だと思ってるから、それでいいんじゃないかな」
「じゃぁ、叶ったことにしておく」
「次に来た時はお礼を言うのを忘れないようにしないと」
「次はいつ来れるんだか」
「いいんじゃないかな。その時もこうして手を繋いで来られたら、それだけで」
「それは、困るわね」
「え、困るの?」
「困るわよ。そんなに幸せばっかりもらっちゃったら恐いじゃない」
「何だ、そんなこと」
「一気に大きな不運に巻き込まれたら堪らないもの。せめて小出しでお願いしたいものね」
「大丈夫だよ」
「どうして?」
「僕の今までの不運を思ったら、結構割に合ってるんじゃないかと思って」
「15年分の不運って、それは流石に言い過ぎよ。お釣りがくるくらい」
「だったらもっと幸運が舞い込むかもしれないね」
「そう、それはとても素敵な話だわ」

そうして最後の階段を下り、少しだけ振り返る。
普段は信じもしていないくせに、何かある時だけ頼られてしまう神様はうんざりしていないだろうか。
勝手な願い事に勝手な解釈をつけて、何を言っているのやらと呆れているかもしれない。
それでも確かに今、想像しているのだ。
闇の中で生きる身の上であっても、陽の光の下で望むささやかな未来くらいなら許してもらえるだろうと言い訳をしながら、再びここを訪ねるであろう2人を。
そしてそれは手を繋ぎ、お互いの存在を感じながら、今日と同じように眩暈のするほどの階段を登り、広い境内を渡って辿り着く先で2人、両手を合わせて神様とやらにお礼を告げる姿を。
もしかしたら新しい願い事もついでに1つお願いしますと、これ以上ないくらいに都合のいいことを言っているかもしれないけれど。
それでもそんな在り来たりで日常に埋もれてしまいそうなその瞬間を願っているのだろう。
伊作と神様と私の3人だけの秘密事がまた、増えますようにと。
すると突然大きな風が吹き抜ける。
お互いの長い髪を絡め取るような、乾いているのにどこか温かな風。
その時不意に音のような、声のような、言葉にできない何かが耳に届いた。
思わず伊作と顔を見合わせ、何だったのだろうと不思議に思う。
神様の声かもしれない、と随分と空想的な考えが巡ったことだろう。
私も、きっと伊作も。
いつかまた、と小さな一礼をして神社に背を向ける。
夕日の中を歩く2人の明日が、どうか小さな幸せに笑い合える日でありますようにと願いながら。

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