「あんた、いつまでいるの?」 「んー、分かんね。いれるだけいるつもりだけど」 久々の実家でくつろぐ息子に、母親が盛大な溜息を洩らす。 「久しぶりに帰ってきたと思ったら、まったく。だらしなすぎるわよ」 呆れ顔で洗濯籠を抱え、俺が横たわるソファーの前を通り過ぎる後ろ姿を見送ると、忘れていたように蝉の声がどこからともなく響き出した。 もう夏だな。 部屋の程よい涼しさの中で、まどろむ意識は簡単に眠気に負けてしまいそうだ。 この季節に、良い思い出はあまりない。 どこか切なくなるばかりの記憶に、気付けばもう夢の中へ落ちていた。 夕焼けが映える教室の中で、動く人影が見えた。 練習着のまま忘れ物を取りに来た頃は、既にほとんどの生徒は部活か下校している時間だった。 誰だ? 気にはなったが、格別気に留めるでもなく、少しだけ開いていた教室の扉を遠慮なく開ける。 自分の所属している場所に、気後れする必要などないからだ。 すると驚いた面持ちで振り返った相手に、俺は思わず息を飲んだ。 「高瀬くん」 止まった呼吸のまま、耳に響く心地良い声だけが頭を揺らす。 その声で直接呼び止められるなど、朝の俺は思っていなかっただろう。 時が止まったように、俺も彼女もその場から動かなかった。 いや、俺は動けなかったのだ。 「忘れ物?」 「あ、うん。古典のノート」 「今日宿題出てたもんね」 くすりと控えめに笑いながら、彼女はそっと夕暮れの空を見上げた。 何かを見送るようにも、そこを目指しているようにも見える横顔に、ますます俺は彼女が宇宙人なのではないかと疑いを抱く。 静かな佇まいに、腹を括って身体ごと向けた。 意を決さなければ、声をかけるさえもままならないなんて。 「そっちは?もうみんな帰ってるけど」 「本読んでたらこんな時間になっちゃって」 「あー、良く読んでるよな」 そう口走った後に、しまったと手を口元へ急がせた。 まるで良く見ています、とでも宣言しているような発言に思わず顔が紅潮する。 「うん、好きなの」 そんなことには気付いていない様子で、柔らかく微笑んで見せた。 その顔立ちがオレンジ色にはやけに映え、いつも見る彼女のどの表情よりも際立ち、自然で、綺麗だった。 好き。 俺に向けられた言葉でないと理解していながら、たったそれっぽっちの一言が俺には鮮明に響き、その場にしゃがみ込みたい気持ちでいっぱいになる。 このままではいらないことまで口走りそうな自分自身を持て余すばかりに、早くここから立ち去らねばと焦りが生まれた。 「じゃぁ、練習戻るな」 「うん、お疲れ様。頑張ってね」 微笑んだまま軽く手を振る彼女に、ぎこちない笑顔で返す。 思いがけない出来事に、そそくさと机の中から取り出し握りしめたノートは丸まったまま形を覚えてしまっていた。 「ちょっと、携帯鳴ってるわよー」 不意に戻された意識の中、視界に入ってきたのは母親だ。 手渡されたそれを寝ぼけ眼で眺めると、久しい名前が浮かんでいる。 「おー、久しぶり」 現実は、自分の家でクーラーの恩恵に与かっている俺だけの空間だった。 懐かしい夕焼けも、暑苦しいくらいの熱さも、湿っぽい空気も、ここにはない。 だけど心を焦がすような鼓動の高鳴りは今も、熱く刻むように生きているのだ。 「もう帰ってるから行ける。駅前んとこな。了解。じゃぁまた後で」 一通りの会話を終えて、通話終了のボタンを指で撫でる。 地元を離れてそれなりに経っても切れない関係があるのなら、その逆もまた然り。 大人と呼ばれる年齢になったところで、変えられないものがある。 世の中、ままならないことばかりだ。 |