そんなホームルームを終えた名前。 1時間後に男の子と猫を探す羽目になるなんて思いもよらないまま、下校前の掃除の準備に取り掛かっていた。 自分の机を後ろに寄せ終えると、今週の掃除担当となっている教室前の廊下へ向かう。 少々大雑把な一面もあるが、名前なりに丁寧にモップでB組との境界線まで床を磨いていた。 磨くうちに、放課後の時間が近づいていることに気づき、だんだんと気分が重くなってくる。 今日は、本来なら祖父が直々に柔道の指導をしてくれる予定だった。 しかし何か予定が合わなかったらしく、代わりに昴子に“来客対応の実地訓練”を施されることになった。 客人の好みを事前にリサーチし、それを自然に盛り込んで応対するのが肝心らしい。 …そんなの、いっそみんなでビュッフェに行こうよ。お茶請けとかどれでもよくない…? そんな風に心の中でぶつくさ言っていたら、無意識にむすっとした顔になっていたらしい。 その後頭部が、ツンツンと何かに突かれる。 「おーい、お嬢。こっから先はB組の領土につき、侵入禁止ー」 「…快斗くん!」 振り返ると、そこにはモップ片手にニヤリと笑う、隣のクラスの男子生徒・黒羽快斗の姿があった。 つい先日、名前の頼みを聞き入れ、美術準備室への不法侵入に“協力”してくれた彼。 その事件以来、こうして廊下ですれ違うたびに声をかけてくれるようになった。 もしかして、この前の“クラスで浮いてる宣言”を気にしてくれてるのかも…? どういう理由であれ、クラスメイト以上に話してくれる相手がいることに、名前は思わず涙がちょちょぎれそうになる。 「こりゃもう、B組侵入罪で現行犯逮捕だな。手を上げな!」 「へ?」 快斗がモップを持っていない方の手を、拳銃のように構える。 名前は一瞬きょとんとしたまま、モップの柄に手を添えたまま固まる。 その様子に、快斗は楽しそうに形の良い歯を見せて笑った。 次の瞬間――ポンッと快斗の袖口から何かが飛び出し、瞬きする間に名前のおでこに何かがぴたっとくっついた。 「いてっ……なーに?これ」 「お前の話、すぐこっちのクラスにも広まるからなー。頑張れよ、アンカーちゃん?」 名前のおでこには吸盤付きの小さな旗が貼り付けられていて、そこにはちょっと間抜けな猿のイラストが描かれていた。 猿とからかわれた名前は、思わず口を尖らせて小さくむくれる。 「…はいはい。人間様に勝てるよう、精一杯頑張りますよーだ」 「まあまあ、拗ねんなって。結構楽しめると思うぜ?」 「へえ、どうして?」 むすっとしながらも、モップがけの手は止めずに快斗に背を向ける。 その目の前に、ひょいと快斗が躍り出て、おどけた様子で彼女の顔を覗き込んだ。 「俺も、クラス対抗リレーに出んの」 「えっ!そうなの?」 「そ。障害物リレーのが楽しそうだったんだけどな。でも、俺の瞬足を温存しない手はないらしいわ」 ぱあっと名前の顔が明るくなる。 快斗はそれを見て満足そうに笑うと、近くのB組バケツを引き寄せて「使えよ」と差し出す。 それに菫はお礼を言いながら、じゃぶじゃぶとモップを浸した。 「じゃあ、6月からの放課後練習にも来る?」 「おん。サボんなきゃな」 「こら……でもそっか、なんか楽しみになってきたかも!」 名前はこの思わぬ喜びを堪えきれず、頬を染めて自然と口元が緩んだ。 快斗はすっと目を細め微笑むと「敵なの忘れんなよなー」と言って軽く小突く。 その時、背後から「おーい快斗!そっち終わったー?」という男子生徒の声が響き「おー」と返事をする快斗。 そんな気兼ねないやりとりを少し羨ましそうに名前は見つめながら、モップをバケツの縁で絞った。 「…じゃあ、私も戻らないと。またね、快斗くん!」 「…名前! お前、今日の放課後空いてる?」 「放課後?」 掃除用具を片付けるため、快斗に背を向けた名前。 その肩越しに呼び止められて、振り返る。 「おう。今日な、暇そうなやつら集めて、ちょっとマジック見せんだ。お前、手品好きだったろ?」 「わああいいね!行きた…ハッ」 勢いよく駆け寄ろうとした名前だったが、脳裏に蘇るのは今朝の昴子の鋭い声。 ーー「稽古までに、この客人リストを頭に叩き込んできなさい」 名前にピシャリと言い放った昴子が頭によぎった。 「だ、だめだあ…今日は絶対遅れちゃいけない予定があって……ごめん」 「そっか。気にすんなって。手品なんていつでも見せてやれるしな」 「…ありがと」 膝から崩れ落ちそうなほど落ち込む名前に、笑って肩をすくめる快斗。 いつもはちゃかしてばかりの彼だが、名前が心から落ち込んでいる時にはちゃんと優しいのだ。 そんな快斗を見て、「本当、いい友達を持ったなぁ」と胸の奥があたたかくなる。 キーンコーン。 掃除終了のチャイムが鳴り、名前は「じゃあ、またね!」と手を振る。 それに対して「ん」と片手を挙げて返す快斗。 「ーーあ!」 「どうし…いてっ」 名前は何か思い出したかのように教室の方へ向かう足を止めて、くるっと快斗の方へ向く。 快斗の足元を見てにんまり笑い、スカートのポケットから何かを取り出す。 ヒョイと投げたそれは、快斗の頬にぴたっと命中した。 「A組侵入罪でーす。B組のお猿さん」 快斗の頬には、さっき名前のおでこに貼り付いていたのと同じ、猿のイラスト付き旗がくっついていた。 先ほど、拗ねた名前のご機嫌をとる際、A組側の廊下に一歩踏み込んでいたらしい。 きゃっきゃと笑いながら教室へ駆けていく名前の背中を見送る快斗。 頬にくっついた旗をキュポっと取りながら、ぼそりとつぶやいた。 「…にゃろー」 |